猫田による猫田のための、いろ。
色とはどこに存在しているのか。
そういう類のおはなしが好きです。おはなしというと実在する個人団体とは一切関係がない、いわゆるフィクションのような錯覚を覚えるけれど。そういう言説ってくらいの気持ちで使っています。私は。
物思いにふけるような話をするとき、高校生の頃の私の面影を、自分自身の中に感じずにはいられない。それほどまでに、高校生の頃の私はモラトリアムのど真ん中でどこへ行くともなく、うろうろとしていました。その生活の中で、物思いにふけることは私から引きはがせるような、そんなものではなかったのです。
高校生の頃の話は捨ておくとして。
色がなんなのかっていう話は、いつどの時点で考えたことだったか、どこで聞いた話だったか全く覚えていません。ただ大学生になって…だったかいつだったか、『100の思考実験』という本の100分の1として記載されていて、大変に気に入っていたのを覚えています。覚えているし、今もなお残っている程度には気に入っています。
なので今から書くことはおよそ、今まであまたの学者先生方の受け売りでしかない。巨人の肩に乗っているだけなのですが。
色ってそこには存在していないらしい。
私が赤色だと思ってみているそれは、白色光がそれにあたって、一部吸収され一部跳ね返って、跳ね返ったものが私の視細胞を刺激して、刺激が脳みそに伝達されて、考えて出力した結果のものらしい。
昔は生物の授業が好きでよく覚えていたけれど、今となっては随分とおおざっぱな理解になってしまいましたが。がりがりかみ砕くとつまりはそういうことでしょう。詳しくは生物の図説を読むべきです。
それは赤色ではない。それに「赤」という性質がべたりと塗りたくられているわけでない。そもそも光というものがあって、光のうち跳ね返されたものが赤と認識される。つまりどちらかと言えば、それは赤を受け入れないものということにならないだろうか。
跳ね返されたものは赤ではない。光という名の刺激でしかない。目ん玉の中の、虹彩の、レンズの、ガラス体の向こう側にある視細胞を、興奮させる刺激でしかない。
としたら赤色はどこにあるのかって、私の頭の中にしかない。私の脳みそが無意識に反射的に、視細胞が受けた刺激を変換して、さも私の本体が、私の外側に存在しているかのように、赤色を見せているってことだ。
私が見ている赤色は、他の誰かにとっての赤色だって、果たして言えるのだろうか。本当は現像する前のフィルムみたいに、インクジェットプリンタの青色みたいに、みんなには見えていないだろうか。
どれだけ頑張っても私にはそれを確かめられない。私がきれいだという赤色は、誰かにとってはどす黒く見えているかもしれない。真っ青に見えているかもしれない。だけど見えている視覚情報と、色のイメージも雰囲気もモチーフも生活の中で定められてしまっているわけで。赤いリンゴは誰にとっても『赤いリンゴ』としか認識されない。
何言ってるんだって感じがしてきました。思っていることを言葉にすることは人より苦手です。
突き詰めていってしまえば、私が知る世界も丸ごと私の中にしかない。映画『マトリックス』って確かそういう話でしたよね。私は誰かと、同じ世界に生きているようで、別々の世界しか知らない。色ですら共有できない。住んでいる世界も違う。全身の感覚器官が受ける刺激を変換して、構築される世界を信じて、ひとが語る世界とすり合わせることでしか、世界を共有することができない。
誰とも一生分かり合えない。
その事実に私は、ロマンを感じずにはいられないのです。
色は、世界は存在している、そういう前提で普段は生きています。もちろん。だけど時々にでも、どう頑張っても私には理解が及ばない、考えてもどうしようもない、生き物の数だけ存在している世界に、想い巡らし、途方に暮れて、悩ましげなため息をもらさずにはいられない。そういう時があります。
猫田による猫田による、いろ。