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猫田による猫田のための、愚痴。
大学生の頃は愚痴が苦手すぎて、
むしろ愚痴について調べて、
今では大丈夫になり、
そこそこ言うようにもなりました。
愚痴というものの感じ方についても、
昔と今とではまた違った感じに、
なったように思います。
学生時代、
それこそ愚痴について調べていた頃は、
なんというか「限界…!」って感じてそれで、
止めどなく引き出される感覚がしました。
そのときのことを自分では、
「頭蓋骨の中に綿をぎちぎちに詰められる」
「その綿が口から吐き出される」
と形容したのを覚えています。
綿はどこをどう通るのかわからないけれど、
喉あたりを通って吐き出されていく。
一度出され始めたら途切れることはなく、
喉にずっと触れないひもが通っているような。
全部話さないと普通に呼吸ができない。
愚痴は正常に呼吸するための、
必死の最終手段だったようにも思えてくる。
それに対して今はというと、
まあ随分と軽率で身軽になったものです。
そもそも愚痴を言わないとやってられないような、
そういう精神状態になることがほとんどなくなった。
脳みその隙間に綿がぎっしり詰まることもない。
そんな状態の私が言う愚痴なんて言うのはもはや、
ちょっと珍妙な味のお茶請けぐらいのものだ。
いつもは丸ぼうろだけど、
(丸ぼうろって佐賀県のお菓子だったのか…)
趣向を変えて酒盗なんてどうでしょう。
甘いチョコレートは食べ飽きましたので、
サルミアッキを差し上げますよ。
ひとと話す言葉言葉に気まぐれに、
さっと加える愚痴ぐち。
それのことはきんぴらの小口切りの唐辛子くらいに、
なんていうと唐辛子に失礼ですね。
まあそんなものだと思っていただいて。
戸棚に仕舞っていた珍妙な茶菓子のことを、
何かのきっかけでふと思い出して、
ちょっと家にいる人に出してみる。
そういうようなものです。
茶請け感覚で愚痴られても、
はた迷惑なことこの上ないかもしれないですね。
すこし気を付けます。
代わりといってはなんですが、
好みでない茶菓子が家に残っていたり、
頭にいっぱいの濡れスポンジを出したくなったり、
そうしたら私が話し相手にはなりましょう。