猫田による猫田のための、『違国日記』。
最近出逢った大人の中で、
小説家のこうだい槙生さんがいちばん、
信用できる気がする。
だけど漫画の中にしか居ない。
漫画の登場者の多くのことを分かった気になって、
親しみを持った気になれるのはたぶん漫画だから。
漫画の中に構築された世界にとって、
私は何をどう頑張っても外部の存在でしかない。
友達でも血縁者でもなく、
他人でさえもない。
だからこそコマの中で生きる彼らは、
友達としても保護者としても他人としても、
記憶としても他人としても、
私の前に立ち現れてくれるわけで。
もし私が自分の世界で、
槙生さんを一目見る機会があったとしても、
私は彼女を認識しないだろうし、
彼女にとっても通りすがりの誰かにしかなれないのだ。
槇生さんは人間として信用できる。
信用できるし私はとても好きだなって思う。
あえて槙生さんって書いているけれど、
正直のところ槙生ちゃんって呼びたい。
ちゃん呼びが許されるのは姪っ子ちゃんくらいだろう。
大人しく「さん」をつけておこう。
つけておくけど心の中では
「まきおちゃん!」って何度も呼んじゃう。
ついこないだ、
『違国日記』の7巻が発売されて、
行ったばかりの本屋に立ち寄って、
家の本棚に加えておいた。
「男社会の洗礼みたいなもの」
そういう言葉を聞いて、
なにか喉に詰まるような感覚がした。
フィクションは時に残酷というか、
現実よりも生々しい瞬間があるように思う。
自分がその立場にいた訳ではないのに、
苦い思いも苦しい思いも、
したことがあるような心地になる。
現実に私の実体験にはないけれど、
そういう場面場面が現実のあちこちに、
紛れ込んでしまっているからに違いない。
だから場面場面をひとつにまとめて、
目の前に並べられてしまうと途端に、
どろりとグロテスクで直接的な、
ひとつの経験として存在してしまうのだろう。
似たような感覚を前に観た演劇、
京都の劇団である努力クラブの
「どこにも行きたくないしここにもいたくない」で、
受け取ったのをなんとなく思い出した。
私は「男社会の洗礼みたいなもの」を被らない、
そういう人生を送ってきたけれど、
そういうのは現実に幻想としてあって、
指先に刺さり続ける棘のようなものに、
すり減らされるひとが居続けているのかもしれない。
私は経験していない誰かの人生の断面図を、
どろりと手にのせるみたいに見せられる気がする。
そういう瞬間のフィクションは息が詰まって苦しくなるけど、
大好きな大人が冷たく真摯に支えてくれる。
違国日記は好きな漫画です。