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猫田みけと申します。
こんにちは。こんばんは。
初めましては初めまして。
猫田みけと申します。
自分のことを言語で説明するのは難しいものですが、
感じるがままに言葉を重ねていけば、
その隙間に人間性が垣間見えるのではないかと思い、
言葉にしてみる次第です。
本名ではありません。いわば芸名です。
「ねこさん、旅にでる。」略して「ねこ旅。」
という名称を使っていることもあります。
名前をいい塩梅に氏名らしく加工したのが、
「猫田みけ」の由来です。
現実でも芸名で呼ばれるようになるのが、
私のひそかなる目標です。
本名に好き嫌いの感情はないのですが、
自分で考えた名前で呼ばれるのは、
実は存外にもうれしいことなのではと思うのです。
しかし最近は現実に人に会う機会が激減しており、
自分の名前を言うことも人に呼ばれることもなく、
「猫田みけ」が今はいちばん私に近く感じます。
そういえば名前って自分で決めないですよね。
親か祖父母か保護者か、
自分以外の者の意思によって定められることが常です。
自分で決められてもいいんじゃないかという気にもなります。
しかし、これはうろ覚えな話なのですが、
幼少の頃というのは人格というものがひどくおぼろげで、
身近にある他の存在との関わり、
他者から投げかけられる関係性をもとに、
その人格がはじまっていくのだとか。
ということはそもそも名前というのは、
他者が自分を識別するためのものなのではないか。
そうならば他者が名前を決めるというのは、
当たり前至極真っ当なのだろう。
与えられた名前によって、
私となる源が形成されていったのだとしたら、
人に与えられる名前というのは
私にとって必要不可欠だったのかもしれない。
しかしそれはそれとして
もし仮にそうだとしたら、
自分で考えた名前を使いたいという気持ちは、
とても正常な思考なのではないか。
と、今考えました。
自分で考えた名前。
「ねこさん、旅にでる。」も「猫田みけ」も
とても気に入っています。
現在は日本・京都に住んでいます。
生まれながらに住んでいるわけではありません。
元は熊本県で生まれ育っていましたが、
進学を機に京都の地へと移り住み、現在に至ります。
学生時代に出会った友人たちと、
過ごしてきた長い時間と、
多種多様な経験とがなければ、
私は存在していないだろう。
そういう思い込みが強く存在し、
京都という地に大変思い入れがあります。
それを言ってしまえば、
熊本で生まれ育ってきた18年も同様です。
今まで接してきた全事象が、
私を存在させているはずなのですが。
もしかしたらもっと単純な話で、
「京都と熊本だったら、京都の方が好き」
というだけなのかもしれない。
初めて物理的にでも親元を離れて、
自分の責任で行動できる自由を得た、
その記念となる土地だからかもしれない。
強くも弱くも、重要でも大したことなくても、
良くも悪くもあらゆる理由すべてでもって、
京都にて生活を送っています。
何かを生み出したい。
なにかを生み出す側にいたい。
それが人生の目標です。
将来の夢とか目標とか、
将来のことを考えるのがとても苦手でした。
小学生の頃にも中学生の頃にも、
将来の夢を問われることは多々ありますが、
毎度毎度違うことを答えてしまうのが常でした。
大人になって何をやりたいか、
将来何をやって生きていくのか、
自分の何を価値にしていくのか、
そんなことを考えられる環境にいられなかった。
私はそう思っています。
環境のせいにしてはいけないなんて思わない。
自分という人格と思考を形成するのに、
外的要因以上に重要なことがあるだろうか。
特に中学生の頃は良い思い出が無いも同然で、
当時私にも意思はあったはずなのだけれど、
本当は意思なんてなかったんじゃないかと思える。
あのあたりで一度私はリセットされ、
高校で自分自身が何者かを考え続ける機会を得て、
今私を語れるまでに至っている。
しかし今となっても
私は私のことを半分も知らないままでいることでしょう。
ただ私が従うべき指針として、
「何かを生み出す側でいよう」という意思を固めただけのことで、
これが私の一部であるというわけではありません。
ただそれが私の一部になる時が来るように、
今この文章を書き連ねているように、
これからも何かを生み出し続けていこうと思っています。
これが私。
猫田みけです。
今後ともなにとぞ、
よろしくお願いします。
2020年5月10日 更新