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猫田による猫田のための、踊ること

踊るのは苦手です。踊れないので。
って言う前に、そもそも踊るってなんなのか考えていこうと思います。自分が踊れるかどうかなんてその後で考えればいいことなのです。

ダンスは踊ることでしょうきっと。社交ダンス、リンボーダンス、ポールダンス、ブレイクダンス…。
じゃあ盆踊り。踊りなのだから。日本舞踊は舞い踊り。舞いと踊りはなにか違うんだろう。ともかく舞踊。私はソーラン節世代ですが、これは舞踊の一つなのかな。よさこいなんかも。
それから、恋ダンスも流行りました。マル・マル・モリ・モリとか。青春アミーゴとか?一定のスパンでドラマとダンスが流行る。流行の話をしてしまうと、ある程度世代が絞れてしまうのがたまにきずです。

なんとなく感覚的に、予想できるのはそこに音があるかどうか。体を動かすかどうか。音楽リズム拍子に合わせて、自身の体を動かすこと。それが踊りの一要素であるみたいな。そういう気がしてくる。

それじゃあラジオ体操は?音に合わせて体を動かしてはいるけれど。ラジオ体操を踊りだっていう人を私は聞いたことがありません。体操は体操。
じゃあ新体操も体操?フィギュアスケートは?踊っているように見えなくもないけれど、直感的にはダンスとは思えないのが正直なところではある。
それらはそもそも「スポーツ」の枠内に入っているから、ダンスの枠には入らないのかもしれない。スポーツの中でも、ダンスの要素を取り入れたものとしての新体操であり、フィギュアスケートなのかもしれない。
ただそれはダンスでないだけで、マットの上で、氷上で、踊っているといえるのではないでしょうか。

じゃあ踊っているものと踊っていないものの、その違いは?そこにあるのは一体なんだろう。
考えてみるに、それは音に合わせて体を動かすことの、目的と言うべきものなのです。ものなのかな。

体を動かすために体を動かすことは、それはつまりラジオ体操の類いのことだけれど、それらは踊りとは言えない…?
踊りの目的とはあくまで、体を動かすことの向こう側にあって、それはただ手段でしかない。としたら、踊りの目的ってなんなんでしょうか。

私自身踊りたくなることはないけれど、音楽を聴きながら歩いている時、曲のテンポに合わせて歩行速度を速めたり遅めたり、首を小さめに左右に振ってみたり、リズミカルに脚を叩いてみたり、そういうことはする。もしそれらが踊りの一欠けだとしたら。そこにあるのは。

音から生まれる感情を、衝動を、自分の外にひびかせること、でしょうか。地面に着地する足先から、頭の先っちょから、指先から。情動は息を吐くように、外に流れ出ていくような。そんな気配があるような。

必ずしも音から生まれるわけでもないのでしょう。生活の中で喜怒哀楽多種多様十人十色、生まれる感情を音に乗せて表現する、外に出す手法の一つが、踊るということ。さながら自分専用感情専用のスピーカー。うん。そうかもしれない、そうじゃないかもしれない。

感情が伴わなくても多分踊ることはできる。でもそもそも踊ることになった根本はそういうところにあると思わずにはいられないのです。私の経験則統計を持って言うならば。

全人類踊ろうと思えば踊ることはできる。のだけれど、そこにもし優劣があるとすればそれは性能の違い、音域音質の違いってことになる。身体を動かす方法をどれだけインストールしているか、身体的性能(柔軟性とか筋力とか)をどれだけ搭載しているのか、要素要素をどれだけ丁寧に即座に、音に乗せて構成できるのか。

と思うと、私はまだ自分の体を自由にできる、可能性を広げられるってことじゃないか。なんだろう。俄然興味が湧いてきた。

私はミニスピーカー。踊ることはできます。少しだけ。
猫田による猫田のための、踊ること。

「踊り あるいは踊ること」テーマをいただきました。
ありがとうございます。

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