私の人生
これは私が私のために書くまだ半分にすら到達していないかもしれない私の人生の覚書。きっと忘れたらいけないことや大事なこともあったはず。
もう八方塞がりで生きていきたくなくて。でもまだ私にも希望があるかもしれないという、生にしがみつきたい私の物語。
私はとある田舎の町に産まれた。
祖父、祖母、父、母、そして歳が一つ上の兄。
男と女が生まれたことでおばあちゃんは大層喜んだそう。
そうして私が生まれ、その少し後におじいちゃんの病気が見つかる。その当時の医療でも、そしてきっと今でも治療が難しいとされている難病の一つ。
筋肉と脳が次第に萎縮していってしまう病気である。
私のおじいちゃんはとても頭がよく、そして生まれる家も裕福で恵まれていた。その昔ではあまり行く人がいなかった国立大学に通い、とてもいい会社に就職できたそうな。おばあちゃんとはまたこれもその時代には珍しい、そこの職場で出会って結婚をした恋愛結婚。おじいちゃんは自分の実家を捨て、おばあちゃんと一緒になったそう。
その頭のよかったおじいちゃんは脳が委縮していくにつれ、だんだんとおかしくなってきてしまっていた。
病棟でも暴れてしまうので、その当時にまだ残っていた身体拘束、つなぎを着せられ、そしてベッドに24時間両腕両足を拘束されていた。
その当時何もわからないような幼子だった私は一時退院で家に戻ってくるおじいちゃんが大好きで。家族でご飯を食べるときにも、一人部屋でぽつんとご飯を食べるおじいちゃんのところにいつも行っていたそう。
当時の記憶はほとんどないが、暴れるからと病院で身体拘束をされていたおじいちゃんは、私の記憶の中ではなぜかいつも優しく微笑んでいた。
そのおじいちゃんも私が保育園の年中組の時に亡くなってしまう。
プライドが高く、決して泣き言を言わない祖母が葬儀が終わり空にゆらめく煙を見て涙を流したのを私は今でも覚えている。
そして私は小学校へ入学する。
住んでいるところがとても田舎なので、2つの保育園からそこに進学する。一クラス30人にも満たず、2クラスしかないとても小さな小学校。
1、2、3、4年生と私はとても平穏に過ごしていた。家庭内でいうならば兄のほうが問題児であったように思う。
兄はおじいちゃんの遺伝子を色濃く受け継いだようで、頭がとてもよかった。父と母、どちらに似ているかよりも祖父に瓜二つの顔であった。
そのために他のクラスメイトと同じ授業を受けるのはバカらしいと思っていたみたいで、何度もクラスを抜け出して母親が学校に呼び出しを受けていた。今思えば、1つ違いで生まれてきた私に母を取られて寂しかった思いが強く出始めていたのではないかと思う。
男兄弟と育つとやはり男の子の遊びのほうが楽しいと思えていたために、私は4年生まで男の子に囲まれ、虫取りや探検ごっこなどの遊びばかりしていた。女の子が少しマセ出すのは5年生くらいから。私も少なからずその影響を受け、5年生頃から少しづつ女の子と一緒に遊ぶようになりだす。
初めて人を好きになったのがこのとき。当時は人のものが良く見える子だったので、割と仲がよかった友達の好きな人を好きになった。付き合うだとか好きだとかがよくわかっていなかった私にはそれが悪いことだとは微塵も思わなかったところが、若いって怖いと思うところである。
小学校では私の人生に決定的に変化を与える出来事がなかったため、ここで終わらせていただく。
中学。今度は別の小学校一つが新しくクラスメイトになった。小学校に引き続いて人数もそんなに増えなかったので、40人弱の3クラスになる。
1年のときにたまたま前後ろの席になった杉田杏里と私はとても仲良くなった。何か月か過ごすうちに、杏里が裕樹という子が好きだと私に話した。
裕樹は私と同じ小学校で、顔がとても整っている優しい男の子だった。
杏里とともに目で追っているうちに、私もその裕樹が好きなのではないかと錯覚するようになった。
その当時、携帯も大人が連絡用に持つもので、スマートフォンすらなかった時代。私たちは自宅にあるパソコンのメールで連絡を取り合っていた。
杏里に協力してといわれて聞いた裕樹と連絡を毎日とっていて、杏里から毎日のようにその裕樹の話をされる。恋に恋をしている感受性の高い私はさらにその勘違いした恋心を成長させていった。
何にしても口にしなくては気が済まなかった私は、あるときタブーを犯す。
杏里には何も言わず、私は裕樹に告白をした。
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