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【中間報告】「アンチ憎悪研究」の起こりと成果

アンチ憎悪研究とは

「アンチ」をわかりたい。

その気持ちが、事の発端でした。アンチ、誹謗中傷、そしてそれが原因で自ら命を断つ人々がいる。世の中ではそれがメディアで取り上げられ、一つの社会問題となっている。多かれ少なかれ、誹謗中傷やアンチという存在について考えたことがある人は少なくないはずです。そして、アンチに対するアンチ感情が気持ちが生まれたりして、よく世では「暇な人なんだよ」「嫉妬してるんだよ」という意見を耳にします。

私はそもそも、アンチってどこにいるんだ?と思いました。他でもない、自分がアンチコメントをしたことがないからです。身近にアンチに勤しんでいる友人もいません。

でも何故か、言ってることはわかるんですよね。言いたいことはわかる。つまり、私も自分の中に、アンチを飼っているんじゃないか。アンチとは、隣人なんじゃないか?という仮説が浮かびました。

アンチは悪とすることで無くせるものではない

まず善か悪かで語るには、この問題は複雑だと考えています。その人が善い人なのか悪い人なのか、場面場面を切り出して判断することが難しいように、アンチをする人しない人が善人悪人と切り分けるのではなく、アンチに至るまでに何を思うのか?を考えたい。なぜ相手を傷つけ、自分がその責任をおうリスクを背負ってまでつらい言葉を発するのか?

そういうリスクを冒すばかな人がしているのだと言われれば、そうなのかもしれません。けれども、そうしてアンチに思いを馳せることをやめては、私たちはアンチとの睨み合いを終わらせることは敵わないと思う。だから、一度考えてみることにしました。

自分のアンチな心と向き合う

そこでまずは、自分の中のアンチ感情にアンテナを張り、忘れないうちに記録をつけることにしたんです。具体的には、例えばSNS(Instagram、X)、動画配信サイト(YouTube、TikTok)やテレビなどのマスメディアで、少しでも感じたことがあればメモに残す。普段からあまり人に嫌な思いを抱かないタイプ(自称)なので正直たくさんの記録は残りませんでしたが、なるほど自分はこういう時に嫌悪感を抱くのだなぁ、と自分の姿を見ることができました。俯瞰、というやつですね。

この記録を公開するということは、同時に私はアンチデビューを果たすのと等しくなってしまいます。なので、どんな記録を残したのかは敢えて伏せますが、発信こそした事のない私でも、見た事のあるアンチと同じようなことを考えていた。という結果をお伝えしますね。

〈中間報告〉唐突に気づいたこんなこと

この記録を続ける中で、気がついたことがありました。それが今回の中間報告です。その結果はこれです。

私が嫌悪感を抱いたコンテンツに対して、全く同じことを感じている人がいる。

それも、1人ではありません。ほとんどの人が感じている。そしてその人がそれをコメントし、コメントのいいね数でトップに躍り出て、上位に表示されている。

…まるで今気がついたような話ぶりですが、皆さんにもこんな経験があるのではないでしょうか?アンチをしている人と、自分は同じことを考えている。同じことを嫌だと思っている。わかる。なんなら自分はアンチはしないまでも、いいねくらいなら押してしまいそうだ。

そしてこの営みを瞬間的に、習慣的に行っていませんでしょうか?

なんか嫌な感じ、感じたら1秒、コメント欄を開く。同じ意見を見つける。安心する。そうだよね、やっぱ嫌な感じしたよね!この一連の流れです。

これをいけないことだとは思っていません。これは、この「共感」を求める私たちには当たり前の現象なのだと思うのです。ここで、私たちアンチを見守る側と、アンチとの違いはなんでしょうか?

それは、言うか、言わないかです。
簡単ですね。

〈仮説〉共感されたいという人類共通の感情とアンチの問題点

この問題には議論の余地があり、私は専門的な研究など何も参照していないので、話は仮説で終了します。もちろん今後もアンチの研究を続けていくつもりです。

「言うか」「言わないか」を分けるのは、「言いたいか」「言いたくないか」だと思います。言いたい人が言っている、アンチ発言をしている。ただこの仕組みです。

ここからが仮説。なぜ「言いたい」と思うのか、という考察です。私はこう考えます。

自分の感じた嫌悪感は、私だけじゃないよね?と感じて安堵したいという欲求。それが、すべてのアンチに共通ではなくとも、多くの否定派コメントを残す人々の感情なのではないかと考えます。

実際によく見かけるコメントに、「〇〇なのって私だけ?」「〇〇って思っちゃった笑」という構文をよく目にします。「あなただけじゃないよ待ち構文」です。

わかります。その感情はほとんど、私たち、「嫌悪感を抱いて1秒でコメ欄確認」側と同じ。違いはその感情を発信する先駆者だったのか、それにいいねを押す側なのか、極端にいえばその違いしかないのではないでしょうか。

ーこの研究は、"アンチは悪いものと決定づける理論を証明してアンチをなくす"というよりも、アンチを含む全体の人々がその構造を理解することや、そこまで示唆できなくとも、世の中で自分自身の「人を傷つけうる」感情のコントロールがうまくできる人を増やすことに繋がれば(そこまで大きなことは成せないかもしれないけど)と思って始めました。

要するに、「これは意見だ」「意見を言ってはいけないのか」という考えで相手の感情の揺れを感じとることを放棄することには、私は反対です。

嫌悪感を抱いてしまったら。それを誰かにわかってほしくなってしまったら。その時、どうしようか?私も悩んでいます。でもその方法は、負の感情泥団子を固めて投げる以外にも、いろいろあるはずです。

私と一緒に、考えませんか?そして自身の中にいるアンチを、飼い慣らしてみませんか?これが、アンチ研究家(自称)、私から皆さんへの最初の提案で、ここまでが成果報告です。

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