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「古く美しきもの」石黒孝次郎氏遺贈品展によせて

「古く美しきもの」石黒孝次郎氏遺贈品展によせて

三笠宮崇仁


今から数年前のこと、あの赤煉瓦造りのクレッセントハウス4階にあるお部屋で、石黒孝次郎氏と雑談をしていたとき、同氏が蒐集された美術品を(財)中近東文化センターに寄贈するつもりで選んでいるというお話を伺いました。私は、望外の幸せと感激しましたが、そのごまもなく同氏は体調を崩され、悲しいかな、1992年3月2日、ついに不帰の客となられました。もはや、あのスポーツマンらしい凛々しさと美術愛好家らしい温情を兼ね揃えた石黒氏にお会いすることはできません。かえすがえすも痛恨の極みであります。

石黒孝次郎氏の祖父にあたられるのは、明治時代の陸軍軍医創刊石黒直悳氏であります。また父君は農林大臣を務められた石黒忠篤ですし、母君の光子氏は帝国学士院長にもなられた穂積信重氏の次女であられます。そのような由緒ある家庭において、石黒氏は1916年3月28日にお生まれになりましt。そして1941年に京都帝国大学を卒業、翌年三井物産に入社されました。

1945年に日本は降伏し、戦後の混乱期が始まりました。石黒氏はいちはやく将来を達観されたのでありましょう。自力で仕事を始める決心をなさいました。すなわち、僅か2年後にはさまざまな困難を克服して芝公園に美術賞「三日月」を
設立し、社長に就任されました。それから約半世紀を経た今日、同氏が苦心惨憺して蒐集された美術品「古く美しきもの」の数々が当センターに陳列されることになったのです。なんという不思議な因縁でありましょう。

石黒氏の度々の海外旅行については同氏の著書(後述)にも述べられていますし、令嬢の石黒史子氏、ならびに国立東京芸術大学学長の平山郁夫氏のご寄稿中にもありますのでここは省略いたしますが、同氏が単なる文献の研究にとどまらず、自らいせきの発掘に参加されたことはまことに敬服に値いたします。

石黒しは美術研究の傍ら、1958年にはフランス料理の店「クレッセント」を開かれました。戦後のことでおいしいレストランが無かった時代でしたから、私たちはなにかといえばそこを利用したものでした。それも忘れられない思い出の一つであります。そして1968年には、いよいよ石黒氏の宿題であった立派な赤煉瓦の「クレッセント・ハウス」が竣工し、美術館・美術商・レストランが共存することになりました。しかし残念だったのは、その完成を待たずして令夫人豊子様が逝去されたことで、夫君のご心中は察するに余りあるものがあったと思われます。

そうこうするうちに(財)中近東文化センターが設立されました。1975年のことでしたが、早速石黒氏には評議員就任をお願い致しました。同氏はまた1976年以来、(社)日本オリエント学会の理事も務められました。このように、同氏が日本における中近東研究の発展に多大のお力添えをなさいましたことを、我々は永く心にとめておくべきだと思います。

私は皆さまに同氏の著書「古く美しきものー石黒夫妻コレクション」をお読みになることをお勧め致します。それは次の2巻から成っておりますg、それは単なるカタログとか美術書ではありません。詳細な分析や比較研究がなされており、むしろ美術しの学術論文というほうが適切な書物であります。

第一部、先史時代より紀元6世紀に至る中近東・地中海域出土の美術考古資料、昭和51年三日月発行。

第二部、7世紀より18世紀に至るイスラーム圏出土の美術考古資料。昭和62年、求龍堂発行。

さて、三日月社長となっれた板垣秀男氏は、複雑な準備や手続きを経た後、石黒夫妻コレクションの(財)中近東文化センターへの寄贈を実現してくださいました。当センターとしては、従来収蔵品の基幹をなしていた出光コレクションの上に、まさに綿上花を添えたことにほかならず、まことに感謝の極みであります。

故・石黒孝次郎ご夫妻に対し、喪心より感謝の意を表するとともにご冥福をお祈りする次第であります。また故・石黒氏のご遺族の方々、板垣氏および関係者各位にも厚く御礼を申し上げたいと思います。

(1993年9月記 財団法人中近東文化センター総裁)


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石黒孝次郎の思い出

平山郁夫

「石黒さんとの出会いは、昭和40年ごろでした。考古学者の江上波夫先生や、深井普司東大教授のご縁によるものでした。

昭和45年の暮に、私は家内と、イラン、イラクの旅に出かけました。深井先生に、中東の旅行事情を教えていただき、出発いたしました。当時、東京大学では、イラン、イラク学術調査団により、発掘が行われている最中でした。イランでは、東大調査隊を手伝っている、フルタン氏をガイドとして、旅行することができました。こうして、イラン、イラクを約1ヶ月、自動車旅行して、主要な遺跡や、町を尋ねることができました。

テヘランで、記念のために、古美術品を入手しようと、古美術商店に入りました。「ハジババ」というお店です。イスラム陶器のラスターの鉢が、金彩も鮮やかで、模様装飾も立派なものを見付けました。値段は、手持の金では不足です。自己紹介をして、借用することになりました。画家であると知るや、ご主人は、私をテストするかのように、肖像のスケッチを希望しました。

私は、短時間でスケッチをしますと、では、お金をお貸ししましょうとなりました。私は半金を内金として私、陶器が日本に届いたら、送金することに契約しました。帰国後、深井先生や、石黒さんに、その様子をお話しますと、ハジババは、お二方とも、親交の間柄で、有名な店であることがわかりました。その後、財界から、日本経済代表団長として、今里廣記氏がテヘランに参り、ハジババ店にもお寄りになりました。そこに私のハジババ店主を描いたスケッチがあるので、今里氏も驚かれたようです。今里氏は、私の買った、ラスターと同様の、水壺ラスターを入手されたようです。

今里氏から、帰国後、石黒さんのクレッセント店で、テヘランで買い求めた二人のラスターの、鉢と水壺を並べて、観賞しながら、食事をすることになりました。一堂に会した人たちは、学者、実業家、文化人なと、職業や社会的立場は異なっていますが、文化芸術を愛し、研究している人たちです。私は、昭和47年に、鎌倉へアトリエを新築して、移転しました。作家の井上靖先生や、今里さんが集まり、東西文化交流、シルクロードの旅をしませんかと、話が持ち上がりました。深井先生が計画立案して、「アレキサンダー大王東証征の道」の旅をすることになりました。約40日間の旅です。メンバーは、井上靖先生、江上波夫先生、石黒孝次郎氏ら、私や妻など7名の編成になりました。旅程は、インド、アフガニスタン、イラン、トルコ、フランスです。

アフガニスタンでは、バーミアンの石窟を中心に、カーブル、ガズニー、カンダハール、ヘラートの街を訪れながら、陸路をイランの国境を通過して目シェッドをたずね、ニシャプールや、グルガン、カスピ海岸を通り、ザグロス山脈を越えテヘランに参りました。

途中では、江上波夫先生のご案内で、いろいろな古代遺跡を訪ねました。ホテルでは、食事をしながら、または、一杯飲みながら、それぞれの専門の立場から、考古、歴史、文化、芸術、旅の印象など会話が尽きません。話が面白く、時の経つのを忘れたものです。

町に入ると、必ず古美術商店を探し訪ねました。江上先生と、石黒さんの独壇場です。

様々な知識を教えていただきました。アフガニスタンの露天商から、掘り出し物を買ったこともあります。鑑定のできる、石黒さんがいるので安心です。イランのニシャプール遺跡では、ごみ溜の穴に、井上先生、江上先生、石黒さんたちと入って、彩色陶片を拾ったこともありました。12世期の美しい彩色模様のある陶片でした。

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テヘランでは、「ハジババ」店で、一日中土器、陶器、銀器、ガラス器、織物の古美術を観賞し、各自が気に入ったものを購入した思い出があります。石黒さんは、その時、最も高価なササン朝ペルシャの、銀製騎馬像を求めました。小品ですが、逸品であるものを、数多い中から迷わず選ばれたのには、感心しました。私も、そのころから、シルクロードに関する古美術品を求めました。石黒さんにもご相談したり、ご示唆頂いたものです。

我家の一部に仮収蔵室と、展示を兼ねた、ケースを作りました。石黒さんは、一日中、その陳列をご指導してくださいました。

池袋のサンシャインビル内に、オリエント博物館が今里廣記によって完成しました。江上先生や、井上先生と、石黒さんも協力して、実現したものです。「アレキサンダー大王東征」の時に、オリエント博物館を作ろうと計画されたものです。石黒さんは、学者であり、国際人であり、紳士であった方です。これから、古美術を学ばなければと、石黒さんを頼っていた矢先でした。古美術を見ますと、石黒さんの事が思い出されます。

(東京芸術大学学長)


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中近東文化センター発行「古く美しきもの」より引用(御許可を頂き、引用させていただいています。


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