「鹿鳴館の夜」案内と食器、メニューで見るレストランクレッセントの歴史(3)
候益御清祥のことと御慶び申し上げます。
扨クレッセントハウスの年中行事「鹿鳴館の夜」も、御陰様にて毎回好評理裡に回を重ね第3回を迎えることとなりました。
本年は、明治26年(1893年)当時陸軍軍医総監であった私の祖父が遺しました、その年11月4日宮中招待宴のメニューを復現して御覧に入れたいと存じます。(因に明治26年は日清戦争の前年に当たり、清国や朝鮮との外交関係は正に一触即発の状態にあった年であります。)
今年の晩餐会を計画するにあたり、私共は極力前回迄の経験を生かし、この夜会を単なる明治西洋料理の復刻版に止めず、古典を踏まえ、しかも華麗な昭和の夜会として楽しんで戴けるよう案を練りましたので、何卒明治の香高き芝公園に皆様御揃いで御来駕下さり、美しい秋の夜を御楽しみ被下度御案内申し上げます。尚御食事前には当館四階のチューダーホールに於いて食前酒をさし上げ度く準備致しております。
敬具
昭和52年10月7日
石黒孝次郎
3回目の鹿鳴館晩餐会から、手書きの案内状から印刷へと変わりました。手書きも味わい深いですが、少しづつ新しいところも出てきます。案内状も、案内状というだけに止まらず、3回目、4回目と並べて見てみると、そのまま、世の中の移り変わりのちょっとした歴史を読み進めていくことが出来るところが、だんだんおもしろく感じてきます。
3回目からメニュー表等は母がデザインを手掛けることになります。最初のデザインは、クレッセントハウス外観。メニューも、形や素材等を考えて作っています。
クレッセントではこうして様々な催しが繰り広げられながら、レストランとしてだけでなく、一つの時代を象徴する場として、佇んでいました。
歴史ある、文化的価値を持つ建物が日々なくなっていくことは、とても悲しいこと。去年、今年とパリに行った時にもそれは感じました。パリでは、街並みを守るために、便利さや様々なことを犠牲にしている点もありますが、例えばある建物にこしてきた人が、数十年前に暮らしていた人の受け取った手紙を見つけてそれを見て、その人自身の人生が変わる、なんていう、まるで映画のワンシーンの様な小さな奇跡が起こり得る環境が所々にあります。そうした環境で暮らしている人たちのおおらかさにも触れることができました。
日常をちょっと急いで生きている日本人にはなかなかない感覚ですし、土地建物の価値としては、建物は古くなる程価値を無くす、という考えも強いため、今の日本では、古い建物を守るということ自体が、とても難しい状況にあります。
けれども建物は生きています。古い建物であるほど、ゆっくりと呼吸をしながら、新しい主人を迎えながら、時代の節目を体験しながら、その場にいる人たちのことを静かに見守り続けています。一つ一つの建物が持つ物語が、そこでの生活を豊かにしたり、様々な奇跡を生み出したりする時があります。
クレッセントの資料をまとめていくことで、私自身に出来ることは少なくても、この資料が持つ内容そのものが、誰かに、何かのメッセージになるならと、引き続き資料をまとめて参りたいと思います。
(地下のバーへのエントランス。バーだから、蝙蝠の形の看板!?)
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