クレッセントハウス、レストランのおもてなしの心に通じる骨董品たち(後)
いつの時代でもオリジナルなものが美しい。つまり、うんと古いものには、手をかけて、心を通わせて丹念に作り出された美しさがあり、うんと新しいものには、必要に応じて、型抜きをすること自体に美の要素があります。飛行機や、ライター等がそれです。だから、職人が手をかけた忠実なリプロダクションは良くても、流れ作業で量産されたものは粗末です。
クラシックな邸宅にクラシックな家具調度を置き、召使を数十人という生活は今は英国にもないのです。古き良きものだけがいいとは言えません。いま、若い人が洋風の部屋にスチールパイプの椅子を置いたとして、その背景の壁には、18世紀のタイルがあってもいいし、ペルシャのつぼがあってもいい。破墨山水の幅が似合うかもしれない。住む人の趣味なら、好きなお客さまを招くときは、いいカップで、いいポットで、素敵なお茶を差し上げようと思うものです。もっと好きなお客さまには、一つ、とっておきの銀器にしてあげようと思うはずです。それらを選んだり整えたりすることで、自分も楽しみ、お客さまと楽しさを分け合うことができます。それは、日本の茶道の心と全く同じだと思うのです。
ある時、自分でこれは面白いな、と思って買ってきたものをみて「石黒さん、これは本当に面白いですね」と共感してもらえる。それについて、心ゆくまで会話が続けられる。それが私にとって一番の喜びです。気に入ったものだけを気に入ってくれる人にしか売らないのですから、今の私は商売人と言えなくなったように思います。
日本人が日本の什器を使う場合は色々とうるさくいいますが、それが西洋のものとなると、途端に美的感覚が違ってしまうのはおかしいですね。そうじゃないんです。普段の暮らしの中で、ものを見るままの目で、こだわりなく見て欲しいと思います。ああ、これは渋い色だな、いいものだな、という美しさの感覚を生かしてものを見るべきです。
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昭和50年に発行された「小さな蕾」2月号より引用しています。
商売人らしからぬ商売人。祖父らしいなと思うのですが、美術品という独特の価値基準でもって値段が決まっていくような分野においては、ある意味正しい感覚だと思います。
それは、高級フレンチという最高のおもてなしの場においても言えることで、最高のおもてなしの場の中では、料理店という商売ではあるのだけれども、商売っ気を消して、とにかくおもてなしをさせていただくことに喜びを感じるサーブというのが根底にあってこそ、心地の良い空間の中でお食事をお楽しみいただける、というのもあったのかもしれません。
経営者ですので、商売っ気をなくすというのはとても難しいですが、それを越えたところに、真の商売がある、というのを、心のどこかで理解していた祖父ならではの感覚だと思います。
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