デザインの中に生活がある、というのはなんだか居心地が悪い。
最近、物書き欲がとっても出ているターンです。大抵こういう時は少し自分に鬱々としたものを感じています。書くことで乗り越えていこうと、そう本能が感じ取っているんだと思います。
今日も、とある授業の課題として書き下ろしたものから。テーマは、テクノロジーとデザインについて、自身の研究分野に関連して書くというものでした…。が、普通にエッセイになってしまって…。そのまま提出しました。(このnoteの文章は、課題提出ではないので、提出したものよりもっと、刺々しく書いています。)
いまのデザインが、生活者にとっての何であるのか。
現在のデザインは、生活している人びとにどうしたら「使ってもらえるか」を考えているのではないだろうか。
「ユーザー」に「使ってもらうため」に、形を工夫することや、提供の機会を工夫したり、あるいは扱い方を工夫している。それには必ずテクノロジーが伴っているのがいまのデザインではないだろうか。テクノロジーの力を用いて、使われているシーンをシミュレータで明らかにしたり、複雑な形を3DCADで構成したり、提供の方法を映像技術やIoTを用いてデジタル化したり、いかにテクノロジーとデザインが融合して、「ユーザー」に「使ってもらうため」に、言い換えれば、ユーザー体験が豊かなものを作ろうかとしている、というように見える。
それを生活者は手に取って、便利な暮らしや、豊かな日常、などを享受できる、と思って生活している。とても大袈裟に端的に言うなれば、社会で生きている人びとに生活行動を起こすことを最大の目標にしているのが、いまのデザインなのではないだろうか。
しかし、これではデザインの中に生活が埋没してしまっているようにも思えてしまう。デザイナーが次々に生み出す簡便な物たちに、周りを囲まれている。これが生活者にとって良い営みをもたらされるのだろうか。
生活の中にあるデザインに、テクノロジーは寄り添えるのか。
デザインの中に生活がある、というのはなんだか居心地が悪い。
手に取るもの全てがそのようにデザインされているのだとしたら、デザイン、それを支えるテクノロジーによって、暮らしが左右されている。
それは、生活の主導権をテクノロジー・デザインに奪われている、のではないだろうか。
そうではない、生活の中にあるデザインが私たちの社会にはたくさんあったはずだ。
例えば、漬物をつける時に重石をおこうとすることは、水分の加減や味の濃さなどをコントロールすることにも有用だ。しかし重石を置くことを誰がやってみただろう?それをやり始めた人は紛れもなくデザイナーだ。この時にテクノロジーがあったかと言われると、素直に肯定でき得ない。
他の事例を挙げよう。夏の暑い日に冷たいスイカを食べようと思って、氷や大きな桶を用意する。なぜか美味しく感じるのだが、常温で育ったスイカを冷やすと美味しいと感じると発見したこともデザインである。だが、ここで氷を用意したのはテクノロジーによって支えられていることだろう。氷を家で作ったり、流通技術によって大量の氷を手にすることができる。
私の研究のベースにあるのはこうした生活であり、その中にあるデザインにどうしたら寄り添えるのか、を考えていくことである。その寄り添うことには、もちろんテクノロジーによる下支えなども含まれるはずだ。
生活とデザインとテクノロジーが、相互に関わり合う研究領域。
私の研究で取り組んでいる方法は、2人称アプローチである。わたしと人びとが同じ場に立ってみることからスタートするアプローチである。
いま、様々な社会的要因で対面において同じ場に立つことが難しい時期である。そうした時にテクノロジーを持って関わり合えるかもしれない。
テクノロジーは私たちの生のありようを文章や写真などでアーカイブできる力を備えている。テクノロジーを持ってすれば、互いの生活をシェアし、同じ場に立ったような感覚を得られるかもしれない。しかしながら、それが現実の現場での体験に置き換わることは、現状で社会実装されているテクノロジーでは起こりえないかもしれない。
しかしながら、もし、私たちがテクノロジーの力を駆使して、私たち自身で手入れができる道具をつくることが出来たなら、私たちの生活の中にあるデザインにテクノロジーが寄り添えるだろう。
だからこそ、デザインも、テクノロジーも、専門性を持った人のみの行為であってはならないと、そう強く感じる。
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