エンタメに生かされているわたしが、エンタメで生きようとしない理由。
不要不急が叫ばれ、早1年と半年。
不要不急の代表格として名高い存在になってしまったエンタメ。
人は楽しみがないと生きていけない。わたしがそういう訳じゃないけれど、エンタメに生かされているのは、一点の曇りもない。
ひたすらに頑張る誰かを見て、応援して、「あぁ、この人を推していてよかった」と思える瞬間を楽しみにしている。それがエンタメに生かされているわたしのライフスタイルだった。
不要不急が叫ばれ、真っ先に削られたのはエンタメだった。不要不急なはずがないとわたしは分かっていながらも、わたしもエンタメを社会から削ってしまった一人であったと、とても後悔している。
そもそも、推しという存在は、わたしにとって生活の支えである。この人を応援して、この人に感動させられて、この人に笑わされて、一喜一憂できる存在を抱えていることこそ、わたしの楽しみであり、だから生きているんだと感じる。
一喜一憂させられる、それなら、わたしもライブに行って、応援して、活動を追いかけて、動画ループ再生して、、、そうしてエンタメは循環していたはずだった。
社会が止まる前から、エンタメは止まっていた。
みんなが自粛疲れという前から、わたしは心が乏しくなっていた。
わたしはなぜか、エンタメを受け取ることをやめてしまっていた。
なぜだろう。
リアルな場所がないだけで、こんなにエンタメはくすんで見えるのはなぜだろう。
わたしが一喜一憂しないのはなぜだろう。
オンラインでの供給はたくさんあるのに、なぜ心が揺れないのだろう。
どうして、エンタメだけ、、、
ある人が言っていたことを思い出した。
「ライブが無くなって、みんなと会えなくなって、その間にいろんなことがあったと思う。僕もいろんなことがあったけど、みんなにどんなことがあったかは僕には分からない。ライブをやって、みんなが来てくれて、やっと初めて、こんな人が聞いていてくれたんだ、こんなにみんなが見て聞いていてくれたんだ、って実感することができる。分かることができる。」
これか、と思った。
こんなに推しを見ているのに、見ている感覚になかった、きっと。
それは遠くの誰かを見ているような気がして、あっちの方になんか楽しそうなことをしているな、ぐらいにしか見ていないような気がして。
綺麗なショーケースに並べられた美味しそうなケーキを見ているだけのような気がして。
どんな味がするんだろう、と指を咥えているだけで。
エンタメを実感することができなかったんだ、きっと。
いろんなことがオンラインになって、家から動くことなくたくさんのことを享受できるありがたい社会の中で暮らしていて、心が乏しくなったんだ、きっと。
リアルに、いま、エンタメを感じることができる、その環境がとても幸せだったことに気づいた。
でも、エンタメは生きるのに必要で、エンタメに生かされているのに、それが幸せだったなんて、棚に上げなきゃいけない状況もなんだか変なような気がするけど。
リアルに集まって、リアルにみて、リアルに聞く、その環境は、まさしくみんなでつくりあげるものだから、だから、楽しいし、面白い。
エンタメは、ステージの上も、ステージの下も、ステージの裏も、全てのみんなによって成り立っているから、ワクワクするし、感動もする。
だから、エンタメから勇気も、感動も、ワクワクも、悲しみも、すべてのエネルギーを感じ取ることができるのだと思う。
でも、リアルで楽しめない、不要不急が叫ばれている世の中だから、リアルで分かることじゃなきゃ、楽しくない、っていう自分のことが、すこし悲しく感じてしまう。
でも、エンタメに生かされているわたしだから、どこまでもエンタメを追いかけたい。
いつまでも、このままじゃ生きていけないから。
生きていけないから、エンタメで生きようとはしない。
エンタメで生きることは、エンタメを消費することになるし、それはきっと違う。
エンタメに生かされ、エンタメを生かすことが、わたしの楽しみであるはずだから。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。 皆さんから頂く「スキ」とか、コメントとかがとてもうれしいです。 なんだかもう少し頑張って生きることができそうです。 いただいたサポートは、毎日わたしが生きやすい世界になるために使います。 これからも、どうぞよろしくおねがいします。