僕たちの失敗を、笑おう
駅前。
ビッグイシューを持ち、立ち尽くす生活困窮者の方を横目に、仕立てたスーツ取りに、通り過ぎる。
ビッグイシュー:ホームレス状態の方が、路上で売る雑誌。450円。
帰り。全く同じ立ち姿、微動だにしない彼。
マスクをして、明るい気持ちなのか悲しいのか。表情すら読み取れない。
彼の隣を通り過ぎる。でも「やっぱり、あれを買おう」、道を引き返す。
3ヶ月前。
職を失い、人を失い、お金を失って、最後に僕の心にあった思念が『人の為になることをしたい』。
他社貢献、誰かの為に…―それまで、その類をずっとバカにしていたんだけど。
初めて強く思った。でも今僕は、良くも悪くもまた日常の感覚を取り戻し始めている。
あの強烈な『人の為に』という観念、あの魔法が今まさに解け始めているのを肌で感じる。
だから、それを忘れないうちに買おう。
そう思って、僕は彼の立つ駅前に再度、足を運んだ。
最近『利他は、良性の私欲』と、よく聞く。僕は未だ『人の為に』が理解できない。
僕も全て、自分の為にやってる。「自分のものは、何もかも捨てて、人の為に」と思えない。
「赤の他人だけど、困ってる人がいたら、命も捧げなさい」と言われても、僕は捧げない。
『利他の原動力は、私欲で良い』と、僕は思う。買えば、彼が喜んでくれるかも知れない。
『買ってみる』という初めての領域に手を出せば、僕の物事の捉え方が、明日から何か変わるかも知れない。
けど、それで喜ぶ人がいるなら、彼の売る雑誌を買わず、私腹を肥やすことだけに囚われてしまうより、よっぽど良い。
その時、手元には、50円玉だけが無かった。キリ良く支払うことが出来ない。
その時の僕には、なぜか、彼から「お釣りをもらう」という発想がなかった。
彼の足元には、汚れた小さなバッグ以外なにもなく、お釣りが出ないんじゃないかと思い込んでしまっていたせいか。
また、今の流行り病のバイアスもあってか、彼のお釣りを無意識に「汚れているかも」とも思っていた。
この通り僕は、立派な心なんか、持ち合わせていない。未だ、卑しいままだ。
引き返す道中、近くのスーパーに立ち寄る。お金を崩して、50円玉を作ろうとした。
100円玉は、無意識のうちに普段から作る慣習があったが、いざ50円玉を作るとなると、結構難しいことに、初めて気付く。
これもまたひとつ、彼の雑誌を買おうと思わなければ、出会わなかった気付きだ。
3ヶ月間、仕事を休み、時間と心に余裕が出てきて、実家の家事へ取り組むようになってから、こういう気付きが増えた。
上手く小銭を崩せる商品を探していると、ふと50円強の安価なお茶が、目に入る。
「今日は暑いし、きっと喉が渇いているだろう。僕もずっと歩いて来たけど、暑かったし。」
売場にあったのは、ピーチティー味とアップルティー味の2種類。
僕は、友達にプレゼントを選ぶような気分で、15秒ほどの時間を掛け、ピーチティーを選び、それを彼に差し入れることにした。
細かい軽減税率の計算も面倒なので「これくらい買えば、50円玉も出来るだろう」と、適当にレジに商品を運ぶ。
結局、50円玉は出来ず、代わりに500円玉が出来た。
でもいいや、それで。
その時点で、彼に「お釣りの50円は、いりませんので」と言おうという考えに変わっていた。
何より、冷たいペットボトルの温度が手に伝わるのを感じながら足を進め始めてから、スーパーに買い物に来た理由も、僕の中で変わっていた。
この差し入れを買う為に、スーパーに立ち寄ったんだから、それでいい。
「1つ下さい」。
彼の元に戻ると、本当にありがたそうに、それに応えて下さった。
最近した別の買い物だと、スーツが6万円、生活家電を7万円ほど購入したが、こんなに感謝されることはなかった。
こないだ1000円でピアスを買った時は、不快感すら憶える対応だった。
お金の金額とサービスの質は、本当に比例しない。
時々、お金の価値とは何かが、分からなくなる。
また、彼の表情の柔らかさに「この人は、ホームレスだ」という意識が、僕の中でなくなっていた。
僕は、ホームレスという固有名詞のせいで、それが自分とは全く別の生き物の呼び名だと思い込んでしまっていたらしいことに、その時気付く。
近くで見れば、清潔感もある。彼は、僕の友達なんかと、何ら変わらない人だった。
「少々お待ちくださいね」と、彼は丁寧で、にこやかに、汚れたバッグからお釣りを探す。
その時には、もう「ああ、きっと大丈夫だ。やっぱりこの人から、正当にお釣りをもらう」という気持ちに、変わった。
元々、50円のお釣りを断り、更にピーチティーも差し入れようとしていた僕。
50円のお釣りが返って来るとなると、差し入れ代がチャラになった気分だ。
お金の管理としては、気分だけで、チャラになった気になっていては、ダメなんだけどね。
でも、いいんだ、僕は。 気分だけで。
前職時代と心持ちが違うのは、その50円も、戻ってくることを嬉しく感じていること。
以前の僕なら、小洒落た良い値段の飲み物を差し入れ、お釣りも断っていただろう。
それでいて、不必要な浪費に対して、何も感じていなかったと思う。
当時の僕は「お金を掛けた贈り物をあげれば、その金額に比例して、相手は喜ぶものだ」という考えに囚われてしまっていた。
まるで病気だ。
今の僕は、それをしない。
頂いた50円玉のお釣りの硬貨は、綺麗だった。そりゃそうだ。
「喉乾いたと思うので、これ良かったらどうぞ。午後も暑いみたいだけど、頑張って」
実は僕も、一言を言うのに、少しだけ勇気を振り絞った。
幼少の頃、バスでお年寄りに席を譲った時「年寄り扱いするな!」と怒鳴られて以来、トラウマになって、関係値の無い人に、何か与えることをずっと避けていたからだ。
けど、お茶を手渡した時、マスクに覆われていても読み取れた、彼の喜ぶ表情、
「え…いいんですか…わざわざありがとうございます」という声色。
あれから少し時間が経ったけど、きっとしばらくの間は、忘れられないだろう。
けど、その時に初めて、彼の足元に彼が持参した麦茶があることに気付く。
僕は、それほどに周りが見えていないし、人の気持ちを汲み取れていなかった。
僕に広い視野があれば、もっと気の利いたものを差し入れられたかも知れないな…。
彼とやりとりをしている間、通り過ぎる人達の中には、僕らを白い目で見る人も、何人かいた。
でも、良いんだ。
僕は、道ゆく人々に、良く見られる為に、彼から雑誌を買ったわけじゃない。
「ホームレスの方を差別するな!寄付や彼らの為になることを皆でもっとしようよ!」と言うつもりも、全くない。
本当に、彼の為に何もかもしてあげたいと思うなら、今すぐ彼の家を借りてあげて、自分の預金を切り崩し、これから毎月ずっと家賃も、光熱費も、全てのお金を僕が出してあげればいい。
けど僕にはそれができないし、しない。
僕は今後も、僕のできる範囲内で、僕がやりたい分だけの貢献をする。
家に帰って、冊子を開く。
ロングインタビューは、ケイティー・ペリー。
1冊売ると、180~230円ほどが、彼らの収入になるらしい。
パラパラと数ページだけめくると、冊子を閉じ、枕元に置く。
記事は素晴らしんだろうけど、どこか惹かれない。
ビッグイシューを買う人は、なぜページ数も充実している書店本や電子書籍を買わず、わざわざ彼らから、フリーペーパーほどの小冊子を買うのか。
もちろん人によって、理由は異なるだろうけど、僕は『何を買うか』より『誰から買うか』だった。
ちなみに、こんなものを同封している方もいらっしゃるらしい。
難しいだろうけど、記事に販売者、本人らによる寄稿があると、面白そう。
ただ路上に棒立ちして、売れるのを待つのでなく、メッセージを同封なさった方のように、商材に自分なりの工夫を施し、商売の基礎能力を身に付けるよう促す方が余程、労働支援的に感じる。
少なくとも僕は、そうした記事の方が、どんなに世界的に有名な歌手のインタビューよりも読んでみたい。
どこか、編集元によって、読者と販売者を見下ろすような自分本意目線で、出版が行なわれていること自体が、彼らの最大のビッグイシュー(大きな問題)に感じる。
僕が実家の街を離れるまで、あと2週間。
この街を離れる最後のタイミングで、もう一度、駅前で彼から雑誌を買うつもりだ。