クソマイノリティが『差別』について真剣に考えてみた
※追記しました
少し前に『バイバイ、ヴァンプ!』という映画が同性愛の人たちへの差別だ、公開中止にしろ、という声があるとニュースでみた。私はどこか胸にもやっとしたものを感じた。
それは上映中止を製作者側に求めて映倫に意識が向いてないのが不思議に思ったからだ。
映画については、予告編しかみてないので語れない。ただ、今回の事で改めて『差別』というものについて考えてみることにした。
どんな物事でも違和感を感じたら、それはその物事に向き合う時だと私は思ってる。
まず、私はセクシャルマイノリティではないが、車イスユーザーなのでマイノリティと名乗らせて頂くことにする。(まあ、車イスユーザーなんて五万といるのでマイノリティと言えるかどうかわからないが…)
そして、残念ながら私は人格者でも良識的な人間でもない。どちらかと言えばクソヤロウだ。そんな人間が差別について真剣に考えたらこうなった。
まず差別について語られるとき私が昔から違和感を感じることがあった。
それは、「傷ついた」「不快になった」等々の感情論である。今回の映画についても同様で私の感じた違和感は“冷静さの欠如”ともいえる。
なぜ私は感情論に違和感を覚えるのか?
1.感じ方は人それぞれ。スタンダードはない。
感性にスタンダードはない。強いて言うなら感性のマジョリティー、マイノリティはあるだろう。だが、クリエイティブは感性のマイノリティにあえて焦点を当てることもあり、感性のマジョリティー向けの作品を作れというのは、少々乱暴に思える。もっと言ってしまうと作品規制をするのはクリエイターへの暴力になりかねない。それでは、クリエイティブが成り立たなくなる。またスタンダードがないものをこれは傷つく、傷つかないと誰が判断するのか?観客といえども感じ方は十人十色。
じゃあ、人を傷つけてもいいの?と思うかもしれない。もし、意図して人を傷つけたらそれは差別ではない、暴力だ。
ただ多くの場合は意図せず多くの人を傷つけ、不快にしてしまうケース。これは不可抗力だ。
もちろん避ける努力はすべきでも起こってしまうことはありえる。先にも言った通りスタンダードがないので難しい。考えればわかるだろうと思うかもしれないが意外とわからないものだったりする。
幼稚園レベルの話になるが不可抗力であっても人を傷つけたら真摯に向き合い、謝罪をすべきであり、傷ついた側は謝罪を受け入れ許す努力が必要だ。それがこういった争いの解決方法だと思う。
2.感情論だと冷静さを欠き、問題点がぼやけ、しいては解決策もぼやけてしまう。
その結果、残るのは争いだけだ。私は感情論で語られることの殆どが差別ではないと思っている。
差別でなければなんなのか?
多くの場合は、「偏見」だろう。差別と偏見は似て非なるものである。その違いがわからなければ、問題の本質を見誤り、解決もできない。
そもそも差別とはなんなのか?
私の思う差別は不当に相手の権利を侵害することである。
セクシャルマイノリティの方を例にして言うなら、結婚を合法化しないこと、これはわかりやすい差別である。差別の見本と言ってもいいだろう。
セクシャルマイノリティへの差別が着目された昨今、政府は焦ったに違いない。やべぇ、公式に見事な差別をしちゃってる。そこへ、パートナーシップ制度なるもの登場。あれ?政府はいよいよ差別と向き合ったのか?と思われたが、いやいや何のその。
私に言わせればパートナーシップ制度とは結婚を認めた呈で「今までごめん🙏」と、御祝儀袋に差別をそっとくるんで性的マイノリティの方々に配布したようなものだ。
中を開けたら当然政府からの御祝儀(新札)が入っているかと思ったら政府公式文書に「差別」と印を押された紙切れが入っていたのだ。ぎゃふん、である。
ある人はこれは差別をなくすための大きな一歩なんだ!というひとがいるかもしれない。じゃあ、二歩目は?3歩目は?あと、何歩で差別なくせるの?そのプランを示してくれるひとがいないのはなぜ?
めちゃ不安なんですけど~。
または、御祝儀袋に包まれてたんだから、剥き出しよりいいじゃん、と言う人もいるかもしれない。当事者がそう思うのであればいい。だが、当事者ではない人間がそれを言ったらもはや暴力である。
“政府は未だ絶賛差別中ですよ~”
と私は声を大にして言いたい。
これについては、私はとても怒りを感じているので作品で追々描いていきたいと思う。
最後に、差別とは往々にして他人の権利を奪える“権力者”によって行われる事が多い。
だから、差別をなくすことは大変なのだ。私の力不足だが、こうすれば差別を無くせるという画期的な方法は見つけることは難しい。
だが、差別と向き合う方法を考えた。
それは、もし私が差別をされたら毅然とした態度で私は差別を許さないという信念を貫くことだ。
それだけ?と思うかもしれないが、これが意外に難しい。
でも、例え相手が動じなくてもブレなく毅然とした態度で信念を貫けば、その姿勢が周りの人の心を動かし、差別を許さない人びとが増えるかもしれない。その時に初めて差別する人間にとって私は脅威となりえるだろう。
そのためにも、ブレずに信念を貫き通す強さを持つため、私は今日も自分と向き合いながら、悪態をつきまくりながら、それでも日々を真摯に生きている。
=追記=
今の自分にも何か動けることはないか考え、首相官邸に投稿を送った。何もバカな事をと思われるかもしれない。でも、何もせずにはいられなかった。
これは戦いだと気付いたからだ。もちろん、政府なんかじゃない。差別を見過ごしてしまいそうになる自分との戦いだ。最後に一言。
私は差別をゆるさない。
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