いしがみさま
久しぶりに書いてみました。最近、子どものころのことをよく思い出します。郷愁に弱いです。そんな話です。
いしがみさま
西が丘の児童公園がなくなるという話を、母から聞いた。聞いた瞬間はたいした感傷もめぐらず、そうなんだ、なんて微塵の興味も含まないような口ぶりで言葉を返すことしか、できなかった。けれども、そうなんだ、と返したそばから一抹のさびしさが胸の内をかすめていったので、私は、自分で自分に、少しだけ驚いた。跡地、なにになるの。何気ないふうを装って尋ねると、母はグラスに注がれた麦茶をすすりながら、さあ、と首を傾げた。おおかた、駐車場か、小さめの集合住宅かなにかにでもなるんじゃないの。空になったグラスをもてあそぶようにして揺らしながら、母は答えた。からん、グラスに取り残された幾粒かの氷が、母の手元で控えめな音を立てる。そっか、と私が返したところで、公園の話は途切れてしまった。
西が丘の、児童公園。その昔、飽きるほど遊んだはずのその場所を、私はうまく思い描くことができなくなってしまっていた。そのことが、胸を掠めたさびしい気持ちを、ぶわり、余計に掻き立てた。
いしがみさま、いしがみさま。口の中で、小さく呟いてみる。はっきりと覚えているのは、いしがみさまのこと、ぐらいだった。まだ十歳にもなっていなかったころのこと。幼馴染のユミと一緒に見つけた、不思議な形をした、石の、神さま。いしがみさま、いしがみさま。誰にも届かないほどの小さな声で、また、呟いてみる。それから、もう何年も顔を合わせていない、ユミのことを考えた。同じ西が丘に住んでいるのに、大学を出て社会人になってからは、連絡を取り合うことも少なくなってしまった、幼馴染。ユミは、知ってるのかな。児童公園が、なくなっちゃうこと。キッチンの方で母が、空になったグラスにやかんから麦茶を注いでいる。からん、と、氷がまた控えめな音を立てるのが、なんだか遠くのことみたいに、ぼんやりと聞こえた。
公園のはしっこの方にあるブランコのそばの、植え込みの隅。私とユミはそこで、いしがみさま、を見つけた。それは始め、かみさまでもなんでもなく、他の石ころより少し大きくて変わった形をした、ただの石、でしかなかった。見つけた当初は、私もユミも、変な形の石だね、と言い合うぐらいのことしか、していなかった。
西が丘児童公園は、住宅街のただ中にぽつりとある、狭くて地味な公園だった。子どもたちのための遊具といえば、ブランコを除いたらあとは小さなものが二、三あるくらいなもので。どれも年季が入っていて、遊ぶのを躊躇するくらいの様相だったのを、覚えている。それでも、互いの家から一番近い公園だったからだろうか。私とユミは、頻繁にその公園に足を運んでいた。
私たちはよく、ブランコで遊んだ。だから、植え込みの近くを通りがかることも、自然と多かったのだ。あの変な石、まだあるかなあ。言い合いながら植え込みの隅を覗くと、金平糖を半分に割っていびつにしたような形のその石が、いつもそこに、じっとあった。大雨が降った後も、ものすごく強い風が吹いた次の日も、同じ場所に、じっとあった。なんとも辛抱強く同じ場所にとどまり続けるその石に、ユミは、いしがみさま、という名前をつけた。だって、ずっとここにあるんだよ、不思議だねぇ、きっと特別な石なんだよ。ユミは言った。ユミの言葉をきっかけに、私たちの間でその石は、少し変わったただの石、から、石の神さま、になった。
いしがみさまが、かみさま、になってから、私たちはたびたび、その石にお願い事をするようになった。お願いをするときの決まりも、二人で作った。ブランコの近くに誰もいないことを確認してから、植え込みの前にしゃがみこむ。それから二人並んで、神社でお祈りをするみたいに、両手を合わせるのだ。いしがみさま、いしがみさま、明日は待ちに待った遠足の日です、どうか雨が降りませんように。いしがみさま、いしがみさま、今度の席替えで、ケンジくんの隣の席になれますように。いしがみさま、いしがみさま。
それから私たちは、いしがみさまが鎮座する植え込みの隅に、手のひらに乗るくらいの大きさの、小さな缶を埋めることにした。私と、ユミと、いしがみさまだけの、秘密事、だった。何か隠しておきたいことがあったら、この缶に入れちゃえばいいんだよ、きっといしがみさまが守ってくれるよ。これは、私の提案だった。私はひどい点数の算数のテストを小さく折りたたんで入れ、ユミはうっかり壊してしまったというお母さんのネックレスを、申し訳なさそうにしながら缶の中にぽとりと落とした。また秘密ができたら掘り起こそう、と言い合って、私たちは、缶に蓋をして植え込みの隅に穴を掘り、それを埋めた。埋めたところのちょうど真上の位置にいしがみさまを戻すと、いつものように並んで手を合わせ、お祈りをした。いしがみさま、いしがみさま、隠し事をしてごめんなさい。どうか私たちの秘密をお守りください。
言い出しっぺのくせに、それから私が缶を掘り起こして秘密を土に埋めることは、一度としてなかった。いしがみさまへのお祈りは一年くらい続いたけれど、公園よりも室内でテレビゲームなどをして遊ぶことが増えるようになって、次第にその存在は私たちの中で薄れていった。
当時のことを思い返し、一つ息をつくと、私は立ち上がってキッチンの方へと向かった。母にならうようにしてグラスに麦茶を注ぎながら、私は一度途切れてしまった会話を、再び継いだ。工事、いつからとか、聞いてる? 母は一瞬、なんのことを言っているのかわからないとでも言うように不思議そうな顔で私の方を見やったのち、思い出したみたいに、また、さあ、と首を傾げてみせた。ふいに、ユミに会いたくなった。部屋着のポケットから携帯電話を取り出し、衝動的にメッセージを送ろうとして、直前で、やめてしまった。指が、なぜだか動かなかったのだ。会いたくなった気持ちを誤魔化すみたいにして、私はしばらくの間、ぼんやりと携帯電話をいじくっていた。いしがみ、さま。呟きながら、何をするでもなくこうこうと光る画面を見つめて、遠い記憶に思いを馳せていた。
不思議なこともあるもので、それからしばらくが経ったある日、ユミから連絡があった。八月に入って間もない、暑い盛りのころのことだ。元気? という短いメッセージに、元気だよ、と返すと、たまには会おうよ、という誘いの文句が送られてきた。公園の話を母から聞いてから、すでに数週間が経っていたように思う。いしがみさま、のことはすでに私の頭から消えかけていたけれど、幼馴染からの久しぶりの誘いに、ちょっとだけ、こころが浮き立つのを感じた。いいね、会おうか。メッセージを返すと、私はほうと息をついた。彼女と会うのが、楽しみだった。約束の日が、待ち遠しかった。
私たちは、休みの日に駅前の喫茶店で、お茶をすることになった。ユミと直接会うのは、三年ぶりくらいのことだった。公園の工事は、まだ始まっていなかった。
三年ぶりに会ったユミは、記憶よりも少しだけ、ほっそりとして見えた。なんだか大人っぽくなったね、と出かけた言葉を、私は直前で、喉の奥に飲みこんだ。私もユミも、もう立派な大人、なのだ。そんな子どもじみたやり取りをするような年齢は、とうに行き過ぎてしまっている。
喫茶店に入って間もなく、ユミは、あのね、と切り出した。彼女は、やけにまじめくさった顔をして、私のことをまっすぐに見据えていた。私が頼んだアイスカフェラテも、ユミが頼んだアイスティーも、まだ運ばれてきてはいなかった。落ち合ってから話したことといえば、元気だった? と、久しぶりだね、くらいなもので。妙に真剣な口調で、あのね、なんて切り出し方をされるとは思っていなかった私は、なんだか緊張して、うん、と少しだけうわずった声を返してしまった。ユミは、不自然なくらい落ち着き払った声で、あのね、ともう一度繰り返すと、向かいの席に座る私のことを相変わらずじっと見つめたまま、続けた。わたし、結婚、するの。
思ってもみなかった言葉に、えっ、と、声が漏れた。けっこん。なんとも間の抜けた響きをはらんだ私の返しに、ユミはまたもや落ち着き払った様子で、うん、と頷いた。彼女の手元へとおもむろに目を向けると、左手の薬指に、銀色の指輪がはめられているのが見えた。鈍くて控えめな輝きを放つそれを見とめて、なかば呆然としたまま私は、婚約指輪、と呟いた。ユミはまた、うん、と頷いた。おめでとう、びっくり、した。返して、視線を指輪から上向ける。ユミはゆったりと微笑みながら、右手の人差し指で銀の指輪をそっと撫でてみせた。うん、ありがとう。言いながら彼女は、そこで初めて、私の方から視線を逸らして、顔をそっと俯かせた。指輪をいじりながら、ゆったりとした微笑みは崩さずに、ユミは続けた。だからさ、地元、離れることになって。
えっ、と、またもや間の抜けた声が、私の口からこぼれ出た。彼女の言葉の意味を噛み砕くのに、少しの時間がかかった。しばらくの、沈黙。そののちに、私は、そっか、となんとか言葉をしぼり出した。そっか、そうだよね。なにが「そうだよね」なのかはよくわからないけれど、気づいたら、そう返していた。寂しく、なるね。ぼんやりとした私の呟きに、彼女は静かに、うん、と頷いた。うん、寂しい。
アイスカフェラテとアイスティーが運ばれてきて、私たちの会話は、一度そこで途切れた。婚約の詳細を、ユミは語ろうとしなかった。私も、深く尋ねることはしなかった。
しばらく他愛もないような会話を続けて、お互いのグラスが空になりかけたころ、あの、児童公園の話になった。昔よく遊んだあの公園さ、なくなっちゃうんだってね、知ってた? 切り出したのは、ユミの方だった。おかわりのドリンクを頼もうかメニューを眺めていた私は、ふいの彼女の言葉に、一呼吸あいだを置いてから、顔を上げた。ユミは空になったグラスに両手を添えながら、俯きがちに続けた。工事、もうすぐ始まるみたい。左手の薬指で、銀色の指輪がくすんだ光を放っている。うん、お母さんから、聞いた。メニューを閉じてテーブルの隅へと戻すと、私は空になったグラスを見やって、呟くように、返した。行ってみる? 久しぶりに。しばらくあいだを置いてから、ユミは両手をグラスに添えたまま、私の提案に、うん、と頷いた。ねえ、覚えてる? あの、ブランコのそばの。ユミは静かに、そう問いかけた。俯いたままなので、表情はよくわからなかった。覚えてるよ。グラスを伝う水滴を指でなぞりながら、私は返した。顔を上げると、偶然、ユミと目が合った。懐かしいね、いしがみさま。言いながら、やわらかく、ユミは笑った。向かいの席に座る彼女は、やっぱり記憶の中の面立ちより、少しだけほっそりとしているように見えた。
児童公園は寂れた様子で、私たち以外に人の姿は見えなかった。なくなってしまうのも無理はない、と思った。少し歩いたところにはもっと大きくて遊具の充実した公園があるし、近くには快適に過ごせる児童館が、新しくできたばかりだ。ところどころ色の禿げたグローブジャングルには、ビニールテープが張り巡らされており、あぶないからあそばないでね、と書かれたポスターが取り付けられている。最近になって張られたものなのだろうか。私たちが遊んでいたころは、こんなふうではなかったのに。
公園をぐるりと囲うように植えられた木々からは、蝉たちの声が、四方八方さかんに鳴り響いていた。なんか、不思議な感じ、とユミは言った。家の近くで、通りがかることもよくあるのに、中に入るのなんて何年ぶりだろう。ぼんやりとした口調で呟くと、彼女は手に持った鞄からレース地の白いハンカチを取り出して、額に浮かんだ汗を丁寧に拭った。
私たちは無言で、狭い公園の奥、ブランコがある方へと、歩いて行った。人気のない公園に、私のスニーカーとユミのパンプスが乾いた地面を踏みしめる音が、ざりざりと響く。朽ちかけたシーソーの横を行き過ぎ、砂場を越え、ブランコの近くの植え込みへと歩み寄ると、私たちはそろって、その隅の方を、覗き込んだ。私はしゃがんで、ユミは少しだけ、屈んで。すぐそばに林立する木々から、蝉の声が雨のように、私とユミに降り注ぐ。太陽が首筋を焼くじりじりとした感覚に、思わずごくり、唾を飲みこんだ。
びっくりした、まだ、あるんだね。心底驚いたような口調で、ユミが言った。いしがみさまは、相変わらず植え込みの隅に、じっと鎮座していた。それは、なんてことのない、ただの石、だった。他の石ころよりも少し大きくて、変わった形をしているだけの、普通の石、でしかなかった。ね、ほんと、びっくり。金平糖を半分に割っていびつにしたような形のその石を眺めながら、私は呟いた。とげとげの部分が、少しだけ丸くなってない? 言いながら、ユミはいしがみさまに手を伸ばしかけて、途中で指先をひっこめた。神さまか、なんか、笑っちゃうね。少しだけ寂しそうに目を細めて、ユミは言った。彼女が姿勢をただしたので、私もゆっくりと立ち上がった。首筋を伝う汗を腕で拭いながら、いしがみさま、いしがみさま、とお願い事をしていた、遠い日のことを、思い返した。
私たちはしばらくの間なにも喋らず、植え込みのそばに二人並んで突っ立って、いしがみさまのことをじっと見つめていた。あの缶さ、掘り起こしてみようか。言葉が喉元まで出かけて、だけど形になることはなく、胸の奥のむずがゆいところにゆるりと落ちて行った。忘れているわけじゃないだろうに、ユミも缶のことは、何も言わなかった。すぐ近くでさんざめく蝉たちの声が、少しだけ遠くに聞こえた。結婚なんて、やめちゃおうかな。蝉の声に紛れて、聞こえた声。右手の指先で銀色の指輪をいじくりながら、落ち着き払った声で、彼女は小さく呟いた。えっ、とこちらが聞き返す間もなく彼女は顔を上げると、なんてね、冗談、と言いながら、ほっそりとした面立ちをゆるめて、へらりと笑ってみせた。
ユミとはその後、大した会話は交わさずに、別れた。じゃあね、と軽く手を振って自宅のある方へと向かって行く彼女の後ろ姿を、私はしばらくの間、ぼんやりとした気持ちで、見つめていた。
こんなに近くに住んでいるのに、何年間も彼女と顔を合わせていなかったことが、とても不思議に思えた。私は、ここ数年間の彼女のことを、何も知らないのだった。結婚をすることも、その相手のことも、西が丘を離れてしまうことも。なにも、知らずにいたのだった。
次の日、ふと思い立って、再び児童公園へと足を運んでみた。前の日とよく似た夏らしい空模様で、家から公園までの短い道のりを歩いている間にも、じんわりと汗がにじんでくるほどの、暑さだった。
公園に着くと、私は一人、ブランコの方へと歩み寄った。植え込みの隅に変わらずある、いしがみさまの前へしゃがみこむ。公園はやはり、私以外に人の姿はなく、相変わらず蝉の声だけが、うら寂しく頭上の木々から降り注いでいた。誰も通りがかりませんように。そう思いながら、私はいしがみさまをそっと持ち上げてその位置を横に移動させると、黒土にゆっくりと指をうずめた。なんだか少しだけ、悪いことをしているような気分になった。黒土はやわらかく、ちょっぴり湿っていた。一度指をうずめてしまったら、もうとどめることはできなかった。手が真っ黒になるのも、爪の間に土が入り込むのも構わずに、私は土を、掘り進めて行った。
やがて、指先が何か固いものに触れ当たると、私は息をついておもむろに唇を噛んだ。ほっとしたような、後ろめたいような、懐かしいような、寂しいような、とりどりの気持ちがひとところにわっと押し寄せてきた。缶は、いしがみさまが鎮座する下に、そのまま、残されていた。うんと昔、家族で行った遊園地のお土産、クッキーだったかチョコレートだったか、なんらかのお菓子が入っていたはずの、ピンクの缶。私が用意した、手のひらに乗るくらいの大きさの、小さな缶。軽く土を払ってから少し力を入れてふたを開けてみて、思わずあっと声が漏れた。缶の中には、たくさんのものが入っていた。私の記憶が正しければ、中に入っているのは、ひどい点数の算数のテストと、チェーンの部分が千切れてしまっているネックレス、だけのはず、なのに。
私は、缶の中身を一つ一つ取り出して確認しながら、どうしようもない気持ちになった。二つに折られた封筒、その表には、丁寧な女の子らしい字で、原田君へ、と書かれていた。中には便箋が入っていたけれど、読むことは控えた。小さく折りたたまれた古い紙、その折り目をそっとほどいてみる。進路希望調査書、と書かれたその紙には、名前以外何も書かれていなかった。こなごなにくだけた食器か何かの破片。比較的新しそうに見えるUSBメモリ。缶から取り出したものをいしがみさまの周りに並べていくと、やがて、私の記憶通りの、二つのものに、行きついた。一番奥にあったのは、やはり、ひどい点数のテスト用紙と、ユミのお母さんの壊れたネックレス、だった。
私は取り出したものを一つ、また一つと丁寧に缶の中に戻すと、ぎゅっと力を籠めてきっちりと蓋をした。缶は元のように植え込みの隅に埋めて、平らにならした土の上に、いしがみさまをちょこんと戻した。
私は立ち上がると、何を祈るともせずに、真っ黒になった手と手を合わせて、いしがみさま、いしがみさま、と呟いた。結婚なんて、やめちゃおうかな。ユミの声が、頭の裏でふっと響いた。相変わらず公園に人の気配はなく、蝉の声だけがじんじんと鼓膜を震わせ続けている。目を閉じると少しだけ寂しい気持ちになって、束となって押し寄せてきた感傷が、いつかのあの日、遠い記憶をほんのりとくすぐった。
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