写らない写真
久しぶりの京都だ。3年前にリモート会議が普通になって、あんなに行き来していた京都は画面の向こうの映像になった。そして今日、再び京都。しかし見える風景は3年前と同じではない。状況はすっかり変わってしまった。
少し気が重い。オープンに関わったカフェがこの3月で閉店すると知らせがあった。その後始末をどうするかと言うのが今日の議題。聞きたくない話も聞かされるとしたらリモートで十分だったが、店長に会って画面越しではない声が聞きたくなって品川駅から新幹線に乗った。
実は京都に来ようと思う理由がもうひとつあった。どうしても見ておきたい展覧会があった。終戦時に京都で撮られたカラーフィルムが大量に残っているのが分かって、今回それを展示するというのだ。
1945年の9月。終戦と同時に京都にも米軍が進駐して1952年の占領解除までの期間に写真を撮っていた。米軍の公式記録は白黒写真で戦後の風景はモノクロームの世界と記憶されているが、実際はカラーフィルムが想像以上に普及していたというのだ。米軍関係者のプライベートなカメラにはコダクロームが入っていて、日常のスナップをカラーフィルムで撮っていた。しかし当時、カラーをプリントに焼くのは高価でコダクロームの使い道はもっぱら家庭のスライド映写用だった。それもあってか戦後の日本をカラーフィルムで撮影したものがこれだけ残っていることは殆ど知られていなかった。
展示に合わせてカタログを兼ねた写真集が出版されている。全てではないが200点もの戦後京都のカラー写真が収録されているので、写真を眺めるだけなら展覧会に足を運ぶ必要はなかったのもしれない。しかし京都で撮られたパーソナルな写真をその街でリアルに体験したら、視線の先に果たして何が見えるのか確かめておきたい気持ちが自分の中にあった。
京都は自分の父が生まれ育った街でもある。
カラーの写真フィルムとしてコダック社が1938年に実用化したコダクロームは現像方式の特性で時間が経っても退色しにくく、スライド映写用の箱の中でスライドマウントのガラスに保護されていたものは当時の色がそのままに残っているそうだ。
展示されている写真の中には、この展覧会が開かれた京都文化博物館(旧日本銀行京都支店)の建物のように今と変わらない場所もあれば、伝統的な京町家がずらりと並ぶ街並みなど姿を消したものもある。現実の場所に重ねて見ると、写真の中の風景がリアルな世界として目の前に立ち上がる。
そこに父はいたのか? 写真の中のどこかに父がいるかもしれないと探してしまう自分がいる。今ここで見ている写真と同じ色を見ていたのだろうか。この当時、父は小学生だった。買い物で街に出ていれば写真の中にいた可能性もある。おそらくこの頃、祖母もまだ30代半ばだったと思う。
自分には小さい頃の京都の記憶がない。父がメーカーの研究職で地方を転々としたこともあって、自分にあるのは夏休みに行くおばあちゃんの家、という思い出だけだ。祖母は女学校を出た後、戦前は学校の先生をしていたらしい。家事は苦手、教育には熱心で父を進学校に越境入学させたが、生活に余裕はなく僅かに残っていた先祖からの土地を売って学費に充てたとも聞く。
家は京都の西の外れにある。学校の帰りに四条河原町で道草することもなかっただろう。大丸百貨店で他所行きの洋服を買うゆとりなんて全くなかっただろう。だからアメリカ人が出歩く賑やかな場所で、父と祖母が彼らのカメラの前を通ることもなく、写真に撮られたことはなかった、と思う。
同じ世界にいたことの証になるコダクロームのカラー写真の世界に父と祖母はいなかった。
祖父の記憶はない。早くに亡くなって、仏壇の写真でしか見たことがない。おじいちゃんは写真の中で不機嫌そうにしてる知らない人だった。
父からも祖父の話はあまり聞いていない。戦後の狂乱物価の中で先祖伝来の土地を手放してしまったことを終生悔いていたらしい。若い頃に体を壊して好きだった勉学を続けられず、失意の人生を送ったようだ。
納戸で埃をかぶった箪笥の引き出しに祖父が書きつけた日記が残っている。グレーの大学ノートに達筆ではないが丁寧な文字で日々の出来事が事細かに綴られていた。文章は見事だった。しかし、言葉の端々に果たせない想いがにじんでいた。現実の世界に祖父の生きる場所はなかったのだろう。
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