想い出の波 -蜜柑-
雨音が窓ガラスを打つ音が聞こえる。
私は開いていたラップトップを閉じて、窓の外に目をやった。
椅子の背もたれに背中を思いっきり押し付けてグーンと背筋を伸ばすとギシッと背骨が嫌な音を響かせた。
窓の外はいつの間にか薄暗くなっており、左手首に付けていた時計を確認しようとして、止めた。
代わりにそれを付けていたはずの場所をさする。何かを確認するように、ゆっくりと。それが無いのを思い知って、深く息を吐いた。
***
1週間前に、2年間同棲していた彼氏と別れた。
ただ一言、ごめん、と呟いて。大きなカバンを担いだ彼はこの部屋の鍵を置いて家を出ていった。訳が分からなくて、ひとしきり泣いた後、部屋の中を見回したら、彼の物があった場所にはもう何も無かった。部屋のどこかから彼の匂いがする場所を探したけど、残っていたのは2人で使っていたダブルサイズのベットだけだった。
腕時計は、彼がくれた物だった。指輪が嫌いだと言った私に、これなら仕事中も付けてられるでしょ、と微笑んで差し出してくれた、はじめてのプレゼント。檸檬色の文字盤は可愛い過ぎなくて、でも細身で女性らしいデザインのシルバーの腕時計。同じモデルの男性用のやつを彼は一緒に買ってて、お揃いだって言ってくれた。貰ってからはほぼ毎日肌身離さず持ってて、仕事中、彼が近くにいなくても、どこか彼を近くに感じていた。
彼が去っていった部屋には、彼の物は1個も残ってなかったけど、彼がくれた物で溢れていて。
一緒に行ったテーマパークのキャラクターとのスリーショットも、可愛いと呟いたらいつの間にか買ってくれてたヘアゴムも、似合いそうだと言って誕生日にくれたピアスも、この部屋にある物全部、どこかで彼が関わっていた。
自分が何をしたのか分からなくて、やり直したくて、電話を掛けたけど、何回かけても繋がらなくて、留守電を勧める無機質な女性の声が響くだけだった。
「……ごめん、だけじゃ分からないよ」
そう呟いても返事をしてくれる彼はいなかった。
***
「あ、れ……? 私……泣いてる」
ボロボロと溢れる涙を手の甲で拭う。
思い出して泣くなんて、私らしくない。
せっかくの休みの日だから出掛けたかったけど、梅雨前線に邪魔されて、今日は結局家で過ごしていた。
アスファルトを跳ねる雨粒を出窓から眺める。
このまま雨と一緒に流されてしまえばいいのに。
人工甘味料みたいに甘い恋をしたかった。こんな、さっぱりしててどこか苦い、それこそ檸檬みたいな恋は、すごく、くるしい。
また涙がこみ上げてきて、膝を抱えて泣いた。
ちゃんと君の事好きだったよ。もちろん今でも。
君のいないこの部屋は広すぎて、寂しい。
背中は温かくて、広くて、なんだか安心した。
こんなこと、君が居なくなってからじゃなきゃ分からなかった。
私はちゃんと伝えられていたのかな。
言葉にして伝えられていたのかな。
視線を絡めるだけじゃ、キスをするだけじゃ、伝わらなかったのかな。
声が聴きたい、会いたい。
この部屋じゃ、君との想い出に埋もれて息ができないよ。
テーブルに置かれたスマートフォンを操作して、君の名前を探す。
もしかしたら、今日こそ繋がるかもしれない。
そう願って、見慣れた番号をタップした。
-fin-
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