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トキワタリの夜に【創作大賞2024】ファンタジー小説部門


【あらすじ】

 何の不足もないのにどこか身の置きどころがないと感じていた長谷川里香は、両親の突然の死によって過疎化が進んだ地元に戻ることになり、目時と名乗る少年と出会う。
 子供の姿で年寄りのように振舞う目時に、里香の先祖が持っていた「時渡の力」を里香が受け継いでいるために、その力を欲しがっている異界の者に襲われないよう護るために見守っていたと言われ、それを信じるようになる。
 かつては大人の姿をしていた目時が里香の血筋を見守り続けていたために力を失って子供の姿になっているのだと気が付いた里香は、異界への境目に向かうが、「時渡の力」を取り戻した目時によって、両親の死の前の世界に送り返されることになった。


トキワタリの夜に

1

 バイバイ、と手を振って、「またね」と言って別れるとき、ひとは必ず笑顔になる。だから、里香はその瞬間を写真に撮るのが好きだ。十五歳の誕生日にスマートフォンを両親にプレゼントされてから、別れ際の笑顔の写真を撮ることを、社会人生活五年目になった今でもまだ続けている。
 親しい友人や家族は里香のそんな習慣にはもう慣れっこで、彼女が中学卒業を機に実家を離れ、都会の学校に進学したことで離れて暮らすようになった両親は、ぐずぐず別れを引き延ばす里香のほうにむかって、わざわざ変な顔をしてくれたり、踊るようなポーズを取ってくれたりして、写真に納まってくれるようになっていた。
 そんな里香が、またね、と笑う笑顔のふたりを写真に撮らなかった日が一度だけある。
 だってその日は、とにかく疲労困憊だったのだ。長く続いている繁忙期の真っただ中で、深夜近くになっても片付かない仕事を明日に棚上げすることにして、ようやく自宅アパートに戻ったところだったのだから。これが週末であるとか、仕事が暇な時期であるとかであれば、里香もそのサプライズを喜んで、「部屋に上がって待っていてくれれば良かったのに」くらいのことは言っただろう。
 けれど、里香が借りている、都心の割に部屋は広いけれど、築五十年平屋建てのアパートの真ん前の街頭もまばらな狭い道に両親の乗った軽トラックが待ち構えて居るのが見えたとき、ここのところ毎日家にたどり着くのが午前様の状態で、普段なら嬉しいだろうその不意打ちの訪問を、めんどうくさいなぁ、と内心思ってしまったのだった。
「里香ちゃん、心配したわぁ。ずいぶんお仕事終わるのが遅いのねぇ」
里香が近づいてくるのを見て取った母親が、トラックの高い場所にある座席から飛び降りて、こちらに近づいてくる。
 突然ふたりそろってこっちに来るなんて、実家でなにかあったのだろうか? 深夜に突然現れた両親に、少しだけ不安になる。
なにしろ、実家からここまで、あのトラックでやってきたのなら、高速を使っても片道五時間はゆうにかかるのだ。
「いま忙しい時期だから。それにしてもびっくりしちゃった。急にこっちに来るなんて、なにかあったの?」
里香の問いかけに、母は首を左右に振って、安心させるように笑って見せる。
「ちょっとこちらでの用事があって出てきたから、ついでに里香ちゃんの顔が見たかっただけなの。もう帰るとこ。明日は朝いちばんで集落のゴミ収集場の草むしり当番だしねぇ」
 母がそう言って、こちらに紙袋を差し出してくる。おそらく、地元の果物――、今の時期なら、すももとか、プルーンとか、あと、こちらに来る前に母に時間があったなら、里香の大好物の、やわらかく似た姫筍がいっぱい入った炊き込みごはんとかが入っているはずだ。
「ありがと、ね、うちで寝て行ってもいいんだよ。夜通し運転なんて、危ないでしょ」
 せかせかと車のほうに向けて歩き出し、ドアを開けて車に乗り込もうとする母親の背を追いかけてそう言うと、「だぁいじょうぶだ。慣れっこだし」と、車を降りもしなかった運転席の父が手を振ってしっしっと犬でも追い払うような仕草をした。
 ぶっきらぼうに見えて、実は離れて暮らす娘がいつのまにか大きくなっていて、どうにも話すのがてれくさいのだと言っていることを母親から聞いて知っていたから、里香は父親にわざとふてくされた顔を見せてやる。
「もう遅いから行くね」というふたりの写真を、そのとき里香は撮らなかった。
 手に握っていたスマートフォンは会社からの貸与品で、こんな真夜中でもメールの着信を伝えてひっきりなしに振動していたし、通勤カバンの内ポケットにしまっていた個人用のスマートフォンを引っ張り出してカメラを起動するのすら億劫で、明日の仕事に備えて一刻も早く眠りたかったのだ。
「夏休みは、こっちに戻ってこられる?」
 助手席に乗り込んだ母が窓を開けてそう問いかけてくるのに、里香は首を傾けるだけで答えをうやむやにした。
 地元に唯一あった学校が廃校になり、高校進学を機に地元を離れるしかなくなって、そのまま高校の付属大学を卒業し、すっかり住み慣れた町で就職していつの間にか中堅どころになって、その間ずっと故郷に帰りたいとは思わなかった。
「今年は、なんとかならない? 里香ちゃんに、ちょっと話しておかないといけないことがあるのよ」
「そんな改まった話?」
 なんだかこわいなぁ、と思っていたのがそのまま口から出てしまっていたようで、「やだなぁ、そんな深刻な話じゃないのよ」と言いながら、母が少しだけこちらに身を乗り出すようにしてくるのにとっさに答えを返せないでいると、まだ話している途中なのに父の運転するトラックは動き出し、あっという間に夜の街に消えて行ってしまった。照れ屋でせっかちな父のおかげで、返事を先延ばしにすることができたみたいだ。
 おんぼろな軽トラックのバックライトが遠ざかっていくのを見送りながら里香は、ああ、いつもの写真を撮るのを忘れたな、と思ったのだ。
 でも、あのふたりの写真なら、またいつでも撮れる。
 実際は、そうはならなかった。
 その日、ふたりは事故に巻き込まれて亡くなったから。

2


 今出てきたコンビニのレジのアルバイトらしい老人の店員を除いてしまうと、自分以外は誰もいない真夜中。
 まっくらな中にランタンのように浮かび上がる店の窓から漏れるひかりに吸い寄せられた蛾や甲虫がかすかな音を立ててガラスにぶつかっていくのを横目に見ながら、里香はからっぽの駐車場の車止めのでっぱりに座って、今買ってきたばかりの冷たい水をあおる。
 そよとも風が拭かない、ぬるま湯のなかを歩いているような熱帯夜だ。
 もう都会での暮らしのほうが長いから、昼間でも人が出歩いている姿を見かけることがほとんどないことにも驚いたが、こんなふうに真夜中になってしまうと、本当に誰も居ない世界に来てしまったみたいだ。見ている先にあるのは黒一色、聞こえるのは虫の声ばかり。まるっきり生きている人間の気配がなくて、ほんのすこしだけ心細くなる。
 子供のころは、真夏でも夜になれば涼しかったのに。
 ペットボトルの中の水があっという間にぬるくなって水滴でびちゃびちゃになり、濡れた手のひらをパジャマ替わりにしているコットンのハーフパンツで拭う。
 それにしても、これっぽっちもなつかしくないものだな。
 この土地に懐かしいものがあるとしたら、それは両親の存在だけだった。子供だったころの思い出だって、ほとんど全部がもう亡くしてしまったものにばかり結びついている。
 もうひとくち水をくちに流し込みながら、里香は集落のはずれの国道沿いにようやくひとつだけあるコンビニのひかりに背をむけて、街灯もまばらでほとんどまっくらな、生まれ故郷に目を向けた。
 突然両親を亡くして、里香は完全にひとりぼっちになってしまった。
 こんなふうに突然ひとりになってしまうなんて、なんだかあてが外れたような気がずっとしている。寂しいとか、悲しいとか、悔しいとかと同じくらいの強さで、里香は憤っていた。両親を亡くすにしても、それはもっとずうっと先の未来に起こることで、今の自分に起こるべきではないことなのではないか。なんだか腑に落ちないような、まだ騙されているような、そんな気持ち。
 ふたつの棺にたくさんの花を入れ、火葬にして出てきた小さな骨を拾って骨壺にひとつひとつ納めたのに、それでもまだ、これが現実ではないような気がする。
 会社からは慶弔休暇と夏休みを合わせて、二週間の休みをもらっていた。最初の一週間は葬儀の準備や役所への届け出や手続きや、こんな小さな町にこれだけの人がいたのかとびっくりするくらいのお悔やみの訪問の対応に追われ、残りの一週間を、住人の居なくなった実家で、片付ける気も起きずにただぼうっと過ごしていて、里香は上手に眠れなくなってしまったのだった。
 このままずうっとここに居てもいいのだろうな、と思い。
 四十九日が終わって、家も片付いたら、自分はここにはもう戻ってこないんじゃないかな、という予感もする。
 ひかりに引き寄せされてきた、甲虫が窓にぶつかるコツンコツンという音がうるさい。目の前には、車の一台が通るわけでもなく、かつては田んぼだった草っ原が広がっているのだろう暗闇があるだけだ。
 ひっきりなしにむき出しの脛に止まる蚊をうわの空で仕留めながら、首からロングストラップでぶら下げていたスマホをつかんで画面をタップする。
久しぶりにアンテナが二本立っているのを見て、なんとなくほっとしてしまった。実家の建っているあたりはまだ圏外で、誰かに連絡したくなったらここまで来ないと誰とも繋がれないのだ。
 いままでせき止められていた友人からのチャットやお悔やみのメールがどっと流れ込んできて、それにひとつひとつ返事を送っていく。
 田舎特有の人付き合いや習慣、たとえば家の近所でゴミ出しが出来なくて、町にひとつしかない集積場に車で捨てに行かなくてはならないとか、町内のいたるところの美化運動に参加する義務があって毎週のように草刈りや掃除当番が回ってくるとか、老人ばかりが住んでいて噂話が最大の娯楽だから、誰が何をしているのかすべて把握されていて、まったくプライバシーがないことなんかはまあまあ面倒だけれど、それを除けば田舎暮らしが嫌だとは思わないし、ここで暮らしていくのに気まずい出来事があったというわけでもない。
 里香がここで暮らしていたのは、ほんとうに子供だったころのことなのだ。進学してから特に帰省をしなかったのだって、どちらかというと長い休みには両親が都会にいる自分に会いにくることが多かったからだ。
 それなのに、なんとなく居心地がわるい、と感じてしまう。
 なにか、たいせつなことを忘れてしまっているような。
 誰かと「約束だよ」と、指切りをしたような大切ななにかをすっぽかしたままでいて、「どうして忘れてしまったのだ」と記憶のどこかをノックされているような気がするのはどうしてなのだろう。
 むき出しの足が蚊に刺されるのに閉口して、里香はようやく車止めから腰を上げ、空っぽになったペットボトルをゴミ箱に放り投げた。叱ってくれるひとがもう誰もいないから、叱られるみたいなことをやってしまうのだな、と里香は思う。こんな深夜の真っ暗闇のなかを出歩くなんて、心配してくれる両親がいたら絶対にしないことだ。
 国道沿いの太い道を曲がり、家がある方に向かって暗い道を歩き始め、着ているコットンのシャツが汗で濡れて絞れそう、とシャツの裾をつかんで風を送った時だった。
 森に繋がる小道から、白いなにかが飛び出してくる。
 咄嗟に後ろに飛びのいて、目を凝らした。
 なあんだ、子供だ。
 どっと痛いほど早鐘を打った心臓が、ゆっくりともとの早さに戻るまでの間、里香は立ち止まってその子供を観察した。
 その子供は暗闇から駆け出してくると、里香の前で立ち止まってこちらをまっすぐに見上げた。ぽつりと灯る街路灯の頼りないひかりのおかげで、それがやせっぽちの男の子だということがわかってすこしだけほっとする。
 真夜中に暗がりから飛び出してくるのは、野生動物か幽霊だと相場は決まっている。もうすぐお盆も近いことだし、まだ成仏できるだけの日数が経っていない、あの世に行きたての家族がいるのだからなおさらだ。両親の幽霊なら、ちょっとだけ会ってみたいような気もするけれど。でも、幽霊なんかじゃないのは、すぐにわかった。こちらに近づいてくるたびに、子供の汗のにおいがしたからだ。
 短くて寝ぐせだらけのようにあちこちが突っ立った硬そうな髪。つるりとしたおでこの下の、勝気そうに吊り上がった眉。大きくて黒目がちの瞳はじっとこちらを見上げ、里香の胸の下に頭のてっぺんが届くかどうかくらいの背丈で、両手を後ろに組んで、ちょっとだけ背伸びをするようにしてこちらをうかがっている。
 それにしても、こんな時間に、こんな老人しかいない集落で、子供がひとりでいるなんて、よく考えたら幽霊がいるよりおかしくないか? 夏休みを親戚の家で過ごしている子供とか? それとも、家出でもしてきたのだろうか。
「どうしたの君、迷子?」
 子供への接し方なんて知らない。
 祖父母は父方も母方も里香が生まれたころには亡くなっていて、しかも両親がどちらも一人っ子だったから親戚も居ない。そのうえ、学生寮にずっといたのもあって、赤ちゃんとか子供とかと接した記憶が全くない。友達にはたいてい兄弟姉妹とか甥っ子とか姪っ子とか従妹とかが居て、帰省したらおこずかいをせびられちゃったなんて話もよく聞かされたものだったけど、里香にとって子供というのは電車やバス、スーパーマーケットなんかでときおり見かける、まったく自分には関わりの無い、ひどく遠い生き物だった。けれど、こんな真夜中に子どもがひとりで出歩いているのを放っておくわけにもいかない。
 おっかなびっくり声をかけると、男の子は顔全体をくしゃくしゃにするみたいにして笑った。
「嬢ちゃんこそ、若い娘さんがこんな夜更けにひとり歩きたぁ、感心しないねぇ。まあ、いい夜だけどもよ」
 男の子の口から、しわがれた年寄りの声が聞こえて、里香は一歩後ろに下がってすこしだけ距離を開けた。
 タチが悪いいたずらが流行っているのかな。
 通りすがりの人を巻き込んだ肝試しとか? 
 対応に困った里香は、しらんぷりして歩き出すこともためらわれて足の重心を左右に動かして足踏みし、男の子の顔を見下ろす。
 他人をだまして喜ぶような、質の悪い悪巧みやいたずらをするには、この男の子の年齢には早すぎるように見える。だって、まるっきり子供で、とても真剣な顔をして、まっすぐこっちを見ているのだ。
 誰かにこんなふうにまっすぐ目を見られるのは、初めてのことのような気がした。里香の付き合ってきた都会の大人たちは、ひとの目をそんなふうに見たりしないものだ。ほんの少しの居心地の悪さと、それと同じだけ、そのひたむきな目にすうっと心が引き込まれるような、不思議な感じ。
 その実、心の半分では、こんな見かけで年寄りみたいなしわがれ声でまるっきりじじぃみたいな口ぶりだなんて、気味が悪い子供だなと考えてもいるのだ。
「嬢ちゃん、夜道はあぶねぇからよ。俺が一緒に帰ぇるぜ。なぁに、遠慮はいらねぇ。俺ん家はあんたのトコのちぃっと先だ」
 てらいもなく手を差し出してくるのを、こわごわ握りかえす。まるきり小さい子に甘えられているようなしぐさだ。この子がしゃべりさえしなければ、里香もここまで違和感を覚えなかっただろう。
 里香の逡巡に気がついているのだろうに素知らぬ顔で、男の子は握った手のひらにきゅっと力を込め、「じゃあ行くかね。足もとに気ぃつけな、嬢ちゃん、真っ暗なのには慣れてねぇんだろ」と促してくる。
 汗でべたべたしてあったかい、まるっきり幼い子供の手だ。繋がれたふたりの手をぶらぶらと振り、男の子はにこにこしてこちらの顔を見上げて、絶対に子供のものではない声で言う。
「嬢ちゃん、俺はメトキってんだ。目ん玉の目に、時計の時で目時。トキさんって呼んでくれてかまえねぇぜ、みんなそう呼んでたからな」
「私が嬢ちゃんなら、君なら坊ちゃんってとこでしょうよ」
「はは、ちげぇねぇ」
 目時と名乗った男の子は空いていたほうの手でぴしゃりと自分の膝をたたいた。まるっきり年寄りのやるしぐさだ。そうそう、学生寮に居たころ、夫婦で住み込みでいろいろ面倒を見てくれていた、八十歳近い管理人さんのおじいちゃんがあんな感じだった。
 ほとんど舗装もされていないでこぼこ道を歩き出してしまうと、遠くに街灯の光がちらちらしているほかは、空に星があるだけの真っ暗闇だ。首から下げているスマートフォンの懐中電灯アプリを起動して行く先を照らしてみても、胸の真ん中だけがぽうっと浮かび上がるだけでいかにも頼りない。
「なあ、嬢ちゃんちの親御さんだけどよ、残念だったなぁ。若いやつらがあっという間に逝っちまうと、なんだかがっかりしちまうよな」
 やけに大きな羽ばたきの音をたてて蛾が胸元の光に引き寄せられてきて、体にぶつかってこようとするのを避けるように慌てて腕を振り回すと、男の子は蛾をむんずと手でつかみ、遠くに放り投げる。
「うん、そうだね。ほんとにそう。がっかりした」
 とっくに途切れていた会話にいまさらのように返事をしたのに、男の子はうんうん、と重々しく頷いて、握っている指にきゅっと力を込めた。まるで励ますように。
「だよなぁ、まだあの世に行く齢じゃねぇだろって叱りつけてやりたくなるよな」
 懐中電灯アプリを閉じてしまうとまた真っ暗だ。ぼんやりと足先が見えるかどうかの夜道、都心には絶対にない深い闇のなかを、うるさいくらいの虫の鳴き声とふたりの足音だけが聞こえるなか、じじぃの声でじじぃのようにしゃべる知らない男の子と手をつないで歩く。
「あのふたりのことはさ、もうずっと怒ってる。なに勝手にころっと死んでるんだよって」
 口に出すなんてもってのほかみたいな、こころのなかにわだかまる身勝手な怒り、自分のなかに隠しておいたはずの誰にも言えないでいたことがつるりと口をついて出て、里香は自分でも困惑した。
 隣を歩く子供の髪が、ときどき肩の下あたりにぶつかる。つないだ手をぶらぶら揺らして歩くからだ。どこか現実味を欠いていて、まるで夢のなかにいるようだった。
 こんなことの全部が夢なのかもしれない。
 そう、たぶんあの時から。あっという間に遠ざかっていくふたりが乗った軽トラックのバックライト。言わなかった「またね」。撮られなかったふたりの笑顔。あの瞬間から時空がねじ曲がって、こんな知らない場所まで運ばれてきてしまった。
「嬢ちゃん、着いたぜ。おやすみ、いい夢を」
 互いに黙ったまま歩き続けていて、気が付けば実家の勝手口の前にいた。男の子は互いに握っていた手をふいっと放すと、まるで体重を感じさせない身軽さで身をひるがえして走り出した。小さな背中と軽い足音が遠ざかっていき、やがて暗がりにその姿が消えてしまうまで見送って、里香は夢の中なのかもしれない世界でもう一度眠るために布団のなかにもぐりこんだ。

3

「嬢ちゃん、メシはちゃんと食ってるのかい?」
 なんだか現実だか夢なのだかわからないような、生々しい夢をみたなぁと眠い目を擦りながらも、役所が開く時間の前に起き出して、冷凍庫に保存されていたちょっといいコーヒー豆をミルで細かくしているときに、窓を開け放している縁側のほうから声をかけられた。
 そこには、あの男の子が座っていた。
 世話をしてくれる人を失ってあっというまに見窄らしくなった庭の方に向けて張り出している縁側の板間で、膝から下をぶらぶらさせて。
「コーヒー飲む? 坊ちゃんにはちょっと早いか」
 上がってきなよ、と手招きすると、トキさんと呼べと言った子供は足の指に引っ掛けていた不格好なほど大きいビーチサンダルを放り投げるようにして脱ぎ、キッチンまでやってきて隣に立つと、こちらの手元を覗き込むようにした。
 ミルのハンドルを回すたび、コーヒーの香ばしい匂いが台所に漂う。冷凍庫にいろんな種類のコーヒー豆をしまっていたのも、このコーヒーを淹れるためにしか使われることのない機械を集めていたのも母だった。
 片田舎では好みの豆を買うのは一苦労だからと、雑誌やテレビの情報番組で見たというロースタリーに豆の買い出しを頼まれて、まるで自分がコーヒーにこだわっているみたいに東京を横断してあちこちの店を回ったものだった。
「コーヒー、うめぇよな。でもよ、飯も食いな。腹いっぱい食えるうちはよ、たいていどうにかなるもんだ」
 水仕事をしながら外を見られる場所に窓があるのは古い家を明るくしてくれているけれど、この陽気で湯を沸かしていると、暑くて仕方がない。頭から額に流れ落ちた汗をぬぐいながら、直射日光を浴び続けてすっかり色の変わった籐籠の蓋を外し、使い込まれた銅製のドリッパーを取り出してペーパーフィルターをセットする。
「ほんとにじじぃみたいなこと言うね」
 しゅんしゅんと沸騰させた湯を冷ますためにやかんから注ぎ口の細いポットにお湯を入れ替えて、そうっとお湯を注いで豆を蒸らす。ここで蒸らす手間を省いてしまうと、コーヒーは途端に酸っぱくなったり、苦くなりすぎたりする。「すぐにお湯を注ぎたしちゃだめ、ゆっくり、ゆっくり。慌てずにね」やけに真剣な母の声が聞こえた気がした。母がお気に入りの豆を自分でも買って入れてみたら全然美味しくなくて文句を言ったら、電話越しに徹底的に淹れ方の指導を受ける羽目になったものだった。
「じじぃで正解なんだがねぇ。お嬢にはどう見えるんだい」
 その言葉にすぐ隣にある子どもを見下ろすと、まんまるの頭とつむじが見えた。お湯を注ぎ足しながら膝を折ってその顔を覗き込むと、その男の子は豆がお湯を含んで蒸らされ、ふんわりと泡が膨らんでいくのを真剣な顔をしてじっと眺めている。
「見た目はイイトコの坊ちゃんで、しゃべるとじじぃ、かな。ずっと年上の人と話をしているみたいで混乱する。濃いブラックコーヒーをさ、くぃっと飲んじゃいそう」
 出会ったばかりの子供相手に、ずけずけと正直に思ったままのことを言い過ぎたかな。一度口に出してしまった言葉は引っ込めることは出来ないのに、里香には気を許した相手に対してあけっぴろげにものを言ってしまう癖があり、そんな自分にあとで嫌気が差すのだ。
 けれど、男の子はこちらを見上げ、こちらの目を直視すると、歯を見せて顔中を得意気な笑みでくしゃくしゃにした。
「嬢ちゃん、ひとを見る眼があるぜ。若ぇのに関心だ」
「やぁだ、こんなちっちゃいくせにナマイキ」
 ずいぶん低い位置にある頭のてっぺんをこれ見よがしにぽんぽんと叩いてやる。
 どのみち、この子供が自分を年寄りだと思い込んでいるただの小学生でも、子供の姿をしたじじぃでも、里香にとってはどちらでもいいことだった。
 自分はすぐにこの土地から去って二度と戻らないかもしれないのだし、この落とし穴に落ち込んでしまったような夏休みの間だけのつきあいなのだ。それに、すっかりこの子供を信用してしまっている。こんなふうに軽口を言ってしまえるくらいに。どうしてなのか自分でも解らないのに、なぜかそれがあたりまえのことのような気がしていた。
「どれ、嬢ちゃん。スプーンが立ちそうに濃いコーヒー淹れてくれや。朝飯も馳走になるぜ」
 三食付きだった学生寮を出て就職と同時に一人暮らしを始め、自分で自分の面倒を見るようになってずいぶん長いのに、この家に戻ってきてからというもの、自分のためだけに料理を作る気になれないでいた。主を失った台所に残されていたせんべいだのカステラだのを齧っているばかりだったから、ぬけぬけと「馳走になる」なんてわざとらしい年寄り言葉でねだられても何も用意していない。
 里香が困ったのを察したように、その男の子、トキさんはまるでここが自分の住み慣れた家の台所でもあるかのように、シンクの下に据え付けられた戸棚からフライパンを取り出し、コンロにかける。
「どれ、バタをすこしいただくかね。あと卵。嬢ちゃん、卵は何が好きなんだい? 目玉? オムレツ? 賞味期限が切れてるかもしらんから、念入りに焼いたほうがいいさね。ただ焼いたやつでいいか」
 バターの焦げる匂い。片手で割られてフライパンに投げ込まれた卵。トキさんのちいさな子供の手に握られた菜箸でくるくるとかき回されて、きれいな黄色に焼かれた卵焼き。トキさんは卵に火が通るまでの間に、冷凍庫の片隅でコーヒー豆に紛れるようにして眠っていた食パンを発掘し、魚を焼くときに使う網できつね色になるまでこんがり焼くと、大きな皿に豪快にどちらも盛り付けた。
 それぞれ皿となみなみとコーヒーが入れられたマグカップを持って縁側にふたりで隣り合わせに座り、里香にとってはひさしぶりの、自分ではない誰かが用意してくれた食事を囲む。
 トキさんはトーストに卵焼きを乗せて端を齧り、その拍子に卵がずり落ちて膝に落ちたのを指でつまんでぽいっと口に押し込んでしまうと、濃すぎるくらいに淹れたコーヒーで喉に流し込む。子供なのだか、大人なのだか、やることが全部ちぐはぐで、それでいて自然なのだから、里香はもうトキさんの素性について考えるのをやめた。トキさんはトキさんだ。近所に住んでいる子供、あるいは子供の姿をしたじじぃ。「嬢ちゃん」の夜中のひとりあるきを心配して手をつないでくれる紳士みたいなところがあるくせに、その手はしっとりと汗ばんだ子供のものなのだ。

「なあ嬢ちゃん、親御さんたちだがよ、あんたに『ちょっと話しておかないといけないことがある』って言ってなかったかい?」
 トキさんの手に持たれていると滑稽なほど大きく見えるマグカップの縁から見上げるように視線を投げかけてきた目がやけに真剣で、里香のなかですでにあまり思い出したくない記憶になっている最後の夜が脳裏によみがえる。
 もしも、もし。
 里香の仕事が繁忙期じゃなく、定時退社していたら? あのふたりは深夜まで車のなかで娘の帰りを待つこともなく、もっと早い時間に帰路に付けた。
 里香があの時もっと強く、帰るという父を呼び止めていたら? いつものように、笑うふたりの写真を撮っていたとしたら? 話しておかないといけないことなら今聞くよ、と面倒くさがらずに言ってさえいたら? そうしたら、もしかして何かが変わっていたのだろうか。何をして、何をしなかったとしても、やっぱり運命みたいなものがあの二人の寿命を決めていて、逃れられないものだったのだろうか。二人が死んで、里香がこうして誰も居ない家に残されて一人ぼっちになるというこの現実がぜったいに逆らえない運命とか、そういうもので、定められていたものだというなら、運命なんて大嫌いだ。
 胸に押し寄せた強い後悔と憤りを、それでも里香はなんとか押し殺しそうとした。トキさんの前では泣けない。知らせを受けて郷里に飛んでいく間でも、葬式の準備中でも、この家でひとりで過ごす夜でも泣かないでいたのだけれど、どうしてか、今なら大声で泣けそうな気がしていた。
 その瞬間、ブ、ブ、ブ、といやに大きな羽音をたてて、蜂が里香の鼻先に飛び込んできた。とっさに振り払おうと動いた里香の腕よりも先に、トキさんのカップを掴んでいない方の手がにゅっと伸びてきて、里香の鼻先で弧を描くように飛びまわる蜂をむんずと掴み、「こら」と手の中の虫をしかりつけた後、ぽいっと遠くに放る。片手に持ったままのカップになみなみと残っているコーヒーをこぼしもしない早業だった。
 あっけにとられている里香の方を見て、トキさんは空になった掌をぶらぶらと降りながら、少しだけ得意気に、にぃっと歯を見せる悪戯小僧の顔をして笑った。
「あの虫たちはあんたを見に来ているのさ。こっちに戻ってくるのは久ぶりだろう」
 ブウン、と遠くから虫の羽音が聞こえてくる。朝の夏の庭はいろんな虫がうごめいているのをいまさらながらに思い出す。この家に住んでいたのはずうっと昔のことで、そんな当たり前のことももう忘れてしまっていた。
「うん、もう十年ぶりくらいになるのかなぁ。昔はあんな虫なんて、なんとも思ってなかったのにな、もうだめだね。失神するかと思った」
里香がおおげさに肩をすくめてみせると、トキさんは「すぐ慣れるさね」と言いながら、音をたててコーヒーを啜る。
「それで話は戻るんだがな」
「そういえば、あれ、『ちょっと話しておかないといけないことがある』って、なんだったんだろうね。もしかしてトキさん、なんの話か知っているの」
 里香のマグカップのなかのコーヒーは半分が牛乳で、温める手間を省いたから、すっかり冷めてしまっていた。あの夜の後悔が胸に強く押し寄せたのをごまかすために、トキさんから目を反らし、庭を埋め尽くし始めた雑草を睨みつけながら、里香はなんとかそう答える。
「そうかい、何も聞いてないか。そりゃあ厄介だ」
 マグカップを両手で包み込むようにして、トキさんもまた、明後日の方向を睨みつけた。まっすぐこちらの目を見てくるトキさんには珍しいその態度に、里香はほとんど無意識のまま、はげますように手を伸ばして剥き出しの膝小僧を掌でさっと叩いていた。
「やだ、なにか面倒なことなの」
 もう死んでしまったひとたちの秘密は知りたくない。
でも知りたい。「今年は戻ってこられる?」という母の問いかけに、「帰るよ」、と素直に言えなかった自分自身を里香はどうしても責めてしまうのだ。二人が死んで、こうしてひとりでこの家に戻ってくることになるなんて、あの時は知りようがなかったのだから、しかたのないことなのだと解っていても、考えたところでどうにもならないことだと知っているのに、あの瞬間に時を捲き戻せたら、と考えてしまう。あの夜に戻れるものなら、今度は失敗しない。今度こそうまくやる。出来もしない叶いっこないことを、ずっとずっと考えている。時間を止めて、あの夜に戻せるものなら、と。
「俺が置手紙だよ」
 半ズボンから覗いているつるりとした膝小僧を撫でるように触れていた手を捕まえられ、きゅっと指先を掴まれる。
 庭の隅を睨みつけたままでいた里香が振り向くと、トキさんは困ったように眉を下げ、まるでいまにも泣き出しそうで、笑うのに失敗したみたいでもある、複雑な顔をしてこちらを見上げた。
「親御さんたちが嬢ちゃんに言おうとしていたこと、俺が全部覚えているぜ。ずうっと見てきたからなァ」
 謡うような、ひとりごとのような、それ。子供の姿をした子供ではない何かが、指先を掴んで膝を突き合わせるような距離にじっと座っている。
「あなた、何?」
 里香のその問いかけは、ぽろりと口をついて出た。里香の指先を掴んでいる手から、しっとりとあたたかい子供の体温が伝わってくる。
 でもなにかが違う。
 なにか得体の知れない、底知れないものを抱えたさみしい生き物が、息をひそめるようにして、まぶしい真夏の日差しの下、里香の目の前に座っている。濃い影を落として。
「嬢ちゃん、俺はツキモノだよ。あんたの血筋に憑いているのさ。ずうっとずうっと前のあんたの先祖に言われてずっとここにいる。あいつに頼まれたのさ、子々孫々を護ってやってくれって」
 その手を振り払うことは里香には簡単に出来ただろう。小さな子供の手が、おずおずと指先に触れているだけなのだ。
 だけど里香はそうはしなかったし、しようとも思いつきもしなかった。たったひとり、この世界に取り残され、置いて行かれる痛み。自分だけが知っていると思っていたそれを、この手の持ち主は知っているのだ。血筋に憑く、というのなら、皆居なくなってしまった。皆死んでしまった。そう、里香ひとりを残して。
「だからじじぃなの? ずうっと前からここにいるから?」
 里香はそう問いかけていながらも、ツキモノという言葉をすんなりと受け入れたわけでも。信じたわけでもなかった。あまりにも繋いだ手が熱かったからだ。血が通っている。肉のあたたかみがある。こんなにも日盛りの眩しい光のなかで、あの世のものが存在できるわけがない。そして私たちは、今ここで、ふたりで朝食にトーストと卵焼きを食べたのだ。
「百年ばかりまえまでは、見た目もれっきとしたじじぃだったんだがねぇ。目時の血筋のやつらはみんな狩られちまったからよ」
 その単語の意味が、まったく頭に入ってこなかった。カラレル、駆られる、刈られる、いやたぶん、狩り、だ。
 どうして、と問いかけようとして意識が逸れた。庭に向けて突き出している板間の縁側に座ってぶらぶらさせていた裸足の足先に、なにかが触れたような気がしたからだ。いやだ、また蚊かな、ほんとうに田舎って虫が多いんだから。里香はトキさんの温かい指先から手を放すと、無意識にハーフパンツから出ている剥き出しの腿をさすり、なにかがかすめていった足先に視線を向ける。
 よく手入れされた芝が張り巡らされていただろう庭には、ところどころ雑草がとびぬけるようにして生えている。稲に似たとんがった草が風に揺れて足に触れたのだろうな、と視線をトキさんの方に向けかけて、強い違和感に視線を戻す。芝草の一部が、下から押し上げられるようにして盛り上がったのだ。むわっと立ち上る草の引きちぎられる青臭い匂い、それから、掘り起こされたばかりの土の、どこか流された血に似た匂い。地面から水が湧き出すように土が巻き上げられて、きしきしと嫌な音をたてる。
 何かが這い出して来る。
 百足だ。地面から湧き出しているのは、里香の一番苦手な虫だった。体をあちこちに不随意にくねらせて、足で空を掻くたくさんの百足。声にならない悲鳴を口のなかでくぐもらせながら、里香はとっさにぶらつかせていた足を板間に引き上げ、這いずるようにして後ろに下がった。膝の上にあるコーヒーカップがやけにゆっくり転がり落ちていくのが見え、地面に落ちたはずなのに音がしない。
「嬢ちゃん?」
 百足の数はどんどん増えて、まるで土が湧き出したかのように渦を巻いて大きなひとつのかたまりになって蠢いている。それなのに、トキさんはすぐそばにあるその気色わるい渦を巻く塊にまるで気が付いていないのか、縁側にゆったりと腰かけたまま、不思議そうな表情をしてこちらを振り向く。
 腰が抜けて足先だけで床を蹴って逃げを打つ里香の前に、立っている人間の男くらいの大きさほどにまで育った渦巻く百足の渦から、にゅうと手が伸びてくる。その白くなまなましい手に、明確な殺意を感じた。
「ミ、ツ、ケ、タ」
 渦巻く虫の塊の真ん中あたりから、しわがれてどこか機械のような、まがまがしい声が聞こえる。ひどく聞き取りにくいのに、ひとつひとつの音が直接頭のなかに響いて、この言葉ははっきりと耳に届いた。
「カエセ、カエセ」
 体中ががたがたと震えて身動きひとつとれやしないのに、頭の片隅でどこか他人事のように、このありえない出来事を眺めている。
忌々しい虫、何を返せと言うのだ。大切なものは無くしてばかりで、もうほとんど何も持っていやしない。そう怒りがこみ上げた時だった。トキさんが、ソレと里香の間に立ちふさがったのは。体ひとつを盾のようにして両手を広げ、渦巻く虫の塊から発せられる明確な殺意から、里香を守るように。
里香は這いつくばったまま、その小さな男の子の背中を見上げた。自分を守るために必死になっている、この世のものではないのだと、得体の知れない存在なのだと、今しがた知らされたばかりの、薄い白い無地のシャツに包まれた、まるでただの子供のようにしか見えないうすっぺらな背中を。
 うぞうぞと土から湧き出してくる百足たちは渦巻く塊に成長して、増殖を続けながらぞろりぞろりと這いまわっている。その渦巻く塊から一本、また一本と生えて飛び出してくる手。その全部がトキさんの首を狙って蠢く。
「逃げて」と言おうとした声は喉の奥でくぐもって、悲鳴も出なかった。
 何もできなくて、ただ目を閉じる。体が動かない。そんな自分がふがいなくて悔しくて、けれど里香に何ができただろう?
 ふと、風の音がした。さっと夏の朝の庭を吹き抜けていく一瞬の涼やかな風。
 目を開ける。
 縁側に座っていた。板間に直接腰をかけて、膝から下をぶらぶらさせて。 トキさんと一緒に。
 卵とこんがり焼けたトーストが乗った皿、なみなみとコーヒーが入れられたマグカップ。膝の上に置いた皿から、卵を載せたトーストを取り上げて、トキさんが口いっぱいにかぶりつく。その拍子に卵がずり落ちて膝に落ちたのを指でつまんでぽいっと口に押し込んで、濃いコーヒーで流し込んでしまってから、その子供はにやりと笑った。
「なあ嬢ちゃん」
 トキさんの手に持たれていると滑稽なほど大きく見えるマグカップの縁から見上げるように視線を投げかけてきた目はやけに真剣で、そして里香は、ああ、私は次にトキさんが何を言うかを知っている、と思った。
 どうして? あの大量の百足の渦巻く塊は? トキさんに狙いを定めるように、百足たちの渦巻きからぞろりと伸びてきたたくさんの気色わるい手は? どうして、何も起こらなかったかのように、コーヒーカップが私の膝の上にまだあるのだろう?
「ありがとな。でもよぅ。俺を守ろうとしてくれたってのは、ほんとうにうれしいんだがよ、そう軽々しく使うもんじゃないぜ、ソレはよ」
 コーヒーをお酒を飲むようにぐいっとあおり、アツっとつぶやいてから、トキさんはその見かけの少年らしさとは乖離した、しずかで落ち着き払った眼差しで一度こちらの目の奥を探るようにのぞき込んでから、さっと目をそらした。どこか照れくさそうに。
「どういうこと?」
「俺がやられちまいそうだってんで、あいつが出てくるまえの時間に逃がしてくれたんだろ、嬢ちゃん」
「へ、私?」
「そう、嬢ちゃん。あんたの力さ。信じられないなら鏡を見てくるといい。あんたの目、猫目になってるぜ。時渡を使うときはそうなるものなのさ」
 ――トキワタリ。
 また知らない言葉だ。里香はあの時自分でも滑稽なほど這いつくばったまま動けなかった板間から立ち上がると、洗面所に向かった。明るい真夏の日盛りの光が降り注ぐ庭から日陰になっている縁側を通り過ぎ、やけに暗く見える室内の奥へ足を進めると、その落差に一瞬くらりと立ち眩みがして、目の奥が痛む。ぎゅっと目をつむり、瞬きしながら洗面所の鏡の前に立つ。
猫目、ってなんだろう。猫が光りの明るさによって光彩の形を変えることを、もちろん里香は知識として知っていた。猫の目の真ん中は、昼間は線のようになり、夜になってあたりが暗くなると、まん丸になってかわいさが増すのだ。学生寮に入るまでは、この庭に日向ぼっこにやってくる野良猫にミルクをあげたりして、たまに気まぐれに甘えてくるのを撫でさせてもらうのが楽しみだった程度には猫が好きだったし、犬派か猫派で選択するなら絶対猫だ。
 でも、猫目になる? そんなのは知らない。
 言われた通りに鏡をのぞき込み、いつもの自分と何も変わりがないのを見つけて、ホッとして、それから、もしかしてトキさんにからかわれたのかな? と、ちょっとだけふてくされたような気持ちになる。
 昼間だというのに古い家は薄暗いので洗面台に備え付けられた三面鏡の上についている灯りをつけて、あの悪い夢のような出来事がほんとうに夢だったのだと思いたくて、蛇口をひねる。
 冷たい水で顔を洗ってタオルで拭い、もう一度自分の顔を覗き込んだときだった。鏡の中の里香は、自分自身のはずなのに、どこか自分の知らない顔をしてこちらを見返していた。なにかがおかしい。なんだろう、ああ――、目だ。瞳の真ん中、一番色の濃い光彩の部分が縦に細長く変わっているのが見える。
 灯りを消す。暗がりに光彩はサッと形を変えて、まん丸に近くなる。やだ、まだ夢を見ているみたい。脳が考えるのを拒否して、もう一度蛇口をひねる。これは夢。全部夢。里香は縫い付けられたように鏡のなかの自分から目をそらすことが出来ずにいて、手だけを水に濡らそうと差し出したとき、指先になにか固いうごめく何かの感触がした。
 ふと下を見ると、蛇口から出ているのはあの黒光りした虫、たくさんの百足だった。洗面ボウルの中にみちみちにあふれて、今にも床にまで零れ落ちそうになっている百足。手を引っ込めかけてから、勇気を出して、絶対に触りたくない虫が跳ねてぶつかってくるのにも構わず蛇口を閉める。きゅっと水道栓が閉まる手ごたえがあったのに、蛇口からあふれ出る虫の動きは止まらない。
 このままではまた、大量の百足の渦巻く塊からあの手が出てくるかもしれない。たしかにあのとき、里香は感じたのだ。明確で純度の高い、殺意のようなもの。だから、渦巻きと里香の間に飛び出してきたトキさんが死んでしまうのではないかと思った、せめて手になにかもっていれば反撃できた、それが無理でもあいつの意識をトキさんからそらすことくらいはできたはずなのに、コーヒーカップすら取り落としてしまって、何も持っていなかった。
 だから、逃げないと、と思ったのだ。
 逃げないと、どこかに逃げないと、と。でも、時間を巻き戻すことなんて、普通の家で普通の子供として育って普通の会社員になった里香にできるはずがない。そんなことは知らない。でも、トキさんは最初に助けてくれてありがとうと言って、それから、簡単に使っちゃダメだぜと里香を叱ったのだ。
 床を蹴る軽い足音がして、トキさんが駆けつけてくれたのだと振り向かなくてもわかる。
「来ちゃダメ! また出た」
 そう叫んだのに、トキさんはかまわず里香の肩を押しのけるようにして前に出た。その子供の手とは思えない強い力によろめきかけて、足を踏ん張って体制を立て直す。あの白い手、あの悪意はトキさんのほうに向けてより強く害意を向けているように感じていたからだ。トキさんが里香の前に立ちふさがって相対したとき、あの悪意から、ぶわりと立ち上る歓喜のようなものを感じたのだ。ついに見つけた、というような。
「大丈夫だせ。里香、よく見ろ。なにも居ない」
 初めて名前を呼ばれた。こんな時なのに、そのことにびっくりして、里香は百足があふれだしてくる蛇口から視線を外して、また自分を守るように前に飛び出していったトキさんの背中を見つめた。
 トキさんがこちらを振り向く。そのくちびるが、聞き分けのない子供に言い聞かせるようにゆっくりと、「お、ち、つ、け」と動くのが見える。
 恐る恐る視線を百足であふれる洗面台に戻す。
「居ないわけない、居るよ、トキさん、こんなにいっぱい」
 うぞうぞとうごめく虫たちは、狭い洗面ボウルにみちみちにあふれて、一匹、また一匹と床に落下してこちらに這い寄ってこようとしている。
「いや、居ない。なあんにもな。俺の前にはなにも居ねぇよ。あんたは術中に嵌っちまっているってわけなのさ。あれに意識を向けるな、引っ張られるぜ」
 カシャカシャと足をこすりあわせる嫌な足音を立てて百足がトキさんのはだしの足先に這い上る。トキさんは虫が素足の甲の上を這いずり回るのをそのままに身動きひとつしない。まるであの気色悪い虫が見えていないかのように。
「里香、ここには何も居ない、俺とあんただけさ」
 パタン、とドアを閉めるような気配を感じた。安心させるみたいに顔中をくしゃっとして笑ってみせたトキさんの目から、背後にある洗面台にもう一度恐る恐る視線を送る。確かに何も居なかった。なあんにも。トキさんが言った通りに。
「あれはなに? なんで出てきたの? なんで襲ってくるのよ? 何を返せっていうわけ?」
 トキさんはさっとこちらに手を差し出し、里香の手を取ってその指に力を込めて握ると、そのまま歩き出す。縁側に戻ってまた隣同士に座り、見渡す庭はまるでいつも通りだ。手入れするひとを失ってあっという間に荒れてしまった、かつては美しかった雑草だらけの庭。
「あいつらにはあいつらの役割があって、きっと世の理とおんなじようなモンなんだろうなぁ」
 トキさんはふうとためいきをつくと、もうぬるくなってしまったコーヒーを啜る。今しがた危害を加えられそうになった相手に対しての、その敵意の感じられない物言いを、少しだけ不思議に思う。
「あいつらの役割ってなによ」
 トキさんに会ってから、不思議な事ばかりが起こる。
この一連の気味悪い出来事から逃れて、自分が当たり前に過ごしてきた生活や現実らしいものを取り戻すには、なにもかもがトキさんのせいなのだと決めつけて遠ざけてしまうほうが簡単だ、今すぐ荷物をまとめて東京に帰ろう、と頭の片隅にいる冷静なもうひとりの自分が囁くのを、里香は聞こえないふりをした。
「時渡を取り締まることさ」
「さっきの、アレ? 時間が巻き戻っていたやつ? でも、やろうと思ってやったことじゃない。偶然だよ。そもそも先に襲ってくる方が悪い」
「そうさなぁ」
 トキさんは、不貞腐れる里香を見て、ふぃっと笑った。いかにも年寄りめいた、年長者がちいさな子供のわがままを、叱りたくて、でも相手があんまり子供だから、怒れなくている時のような顔をして。
 ブ、ブ、ブ、といやに大きな羽音がした。
 まただ。蜂が里香の鼻先に飛び込んできたのだ。
 里香の顔の周りをぐるぐると旋回するのを捕まえようと伸びてきたトキさんの手をすり抜けると、頭の上の方に飛び去りながら、蜂は言った。ぎしぎしとかすれた、でもはっきりとした人の声で。「カエセ、カエセ、トキワタリ、カエセ」、と。
「嬢ちゃん、ほんとうに虫が嫌いなんだな」
 あっという間に飛びさってしまった蜂を見送りながら、トキさんが呆れたように首を竦める。
「あいつらは人の弱みをついてくるんだ。嫌いなもの、怖いものの恰好をしてやってくるのさ。ほとんどがハッタリさ」
 トキさんにもあの蜂の声は聞こえていたはずなのに、そのことには触れようともしない。
「だが、ハッタリと気が付かなければどうなる? たぶん、嬢ちゃんの親御さんもあいつらがその手で殺した。夜通しの運転で疲れているところになにか恐ろしい幻覚でも見せたんだろうなア。俺の事は見えなくて、時渡の力が使えなくても、あのお人たちも目時で、目時を狩るのがあいつらの使命だ」
 ――護りきれなかったなぁ。
 そう続いたトキさんの言葉はまるっきりひとりごとのようで、こちらに聞かせようとも思っていないようだった。
 両親の死の原因は単独事故だと言われた。深夜だったし、疲れからくる居眠りで運転を誤ったのだろうと。でも、その原因があいつらなのだとしたら、あのなまなましくうねる虫の塊のようなものが目前に飛び出してきたのだとしたら? なにか不幸な事件に巻き込まれたら、誰かがその罪を暴いて、裁いてくれるものだと思っていた。けれど、そんな当たり前はどこにもなくて、両親はひっそりと手の届かないところに行ってしまった。深夜に運転させたりしなければ、あのとき引き留めてさえすれば、何度後悔したところで、いまさらどうすることも出来ない。
「まあ、あんな程度の威嚇しかできないようならまだ安心さね、久しぶりの時渡で活性化してやがるんだろう。あとで境目を見回っておくよ」
「ねぇ。トキさん。聞きたいことがいっぱいありすぎて何からって感じなんだけどさ。境目ってなによ、そこからあいつらが来てるわけ? だったらそこをなんとかすれば出てこないんでしょ、行こう、今すぐ。話は歩きながら聞かせてもらうし」
「いいのかい嬢ちゃん、キツイ山歩きになるぜ。お嬢の嫌いな虫も山ほど出る。なまなかな覚悟では辿り着かないぜ」
 じっと座って襲撃されるのを待つなんて嫌だった。ここで逃げ出して東京の家に帰ってきても、あいつらは追いかけてくるのだろう。里香の嫌いなものに姿を変えて、そして命を狙ってくる。まだ半信半疑で、夢のなかにいるみたいだけれど、それでもこの出来事は里香が今まで暮らしてきた現実と地続きになってしまったことは察していた。たぶんどこに行っても逃げ切れないことも。
「いついきなり虫の集団やら手やらに襲われるのかとびくびくおどおどしているのも、実年齢はどうなんだか知らないけどさ、自分より小さな子に護られるばかりなのも性にあわないよ、ちょっと待ってて、着替えてくる」
 母の箪笥から、山歩き用の服を探し出す。離れて暮らしていたから、服の貸し借りなんてしたことはなかったけれど、幸いサイズはほとんど同じで、「借りるね」と口に出したところで返事があるわけもなく、熊よけの派手な色のウィンドブレーカー、軍手、首に巻くタオル、汗を吸い取るタイプのシャツや下着、歩くとカシャカシャ音のする撥水加工のズボンに長靴に軍手、どうせ圏外なのだけれどお守り替わりにスマートフォンをロングストラップで首からぶら下げ、あちこちにあるポケットに、疲れたら食べたくなるだろう個包装の甘いお菓子を入るだけ詰め込む。
 里香が支度している間、トキさんはふたりで食べた朝食の皿を洗い、二つの水筒に冷たい麦茶を用意して待っていた。トキさんは山歩きのために着替えたりはしないのか、朝訪ねてきたときと同じ、洗いざらしのような白い丸首のシャツに、やわらかそうな素材の深緑のハーフパンツ姿のままで、足元はビーチサンダルだ。
 ハーフパンツの尻ポケットに水筒を押し込んで、家を出て先導するように前を歩くトキさんの後をついて歩き、集落の外にさしかかったとき、一台のワゴン車が歩くふたりを抜き去りかけて、思い立ったように止まった。運転席側の窓を開けて身を乗り出してきたのは、里香の両親の葬儀でずいぶんお世話になったばかりの、町内会長の木島のおじいちゃんだ。
「里香ちゃん、どこに行くんだい? 役所に行くなら乗せて行ってやろうか?」
 木島さんちは代々林業と建築業をやっていて、いわゆる地方の名士というやつなのだけれど、日に焼けてまっくろで、笑うとのぞく歯だけが真っ白な、いかにも田舎の気のいい世話好きのおじいちゃんといった風情だ。田舎はびっくりするほど車社会で、目と鼻の先でも車を出す。徒歩で出歩く人はほとんど見かけたりしないから、歩いている里香が気の毒になったのだろう。
「わぁ、ありがとう、でも、大丈夫。今日は気分転換に歩いているだけだから」
「そうかい、遠慮しているんじゃないだろうね? 大丈夫かい、少しは落ち着いたかい? なんかあったら言ってきな、一人じゃ大変だろう?」
 ああ、ほんとうに見えていないんだ。里香はそのときはじめて、トキさんが自分とは違う存在、異界のモノなのだと実感したのだと思う。
 木島のおじいちゃんは、この町の生き字引みたいなひとだ。この集落に住んでいる人のことなら何でも知っているし、何でも知りたがりだ。見知らぬ小さな子供がいれば当然、お友達かい? くらいのことは聞いてくるはずだ。それが、ただまっすぐ、里香のことだけを見ているのだ。そう、見えていないから。
 無意識に手を伸ばして、里香の横で退屈そうに足先をぶらぶら揺らして会話が終わるのを待っているトキさんのシャツの脇のあたりの裾をつまんだ。 里香にとっては、こんなに確かにここにいるのに、木島のおじいちゃんには見えていないことが、なんだかひどく腹立たしくて、わけもなく切なかった。
 何度も何度も励ましの言葉をかけてくれた木島のおじいちゃんの車が行ってしまうと、またトキさんとふたりきりになる。山道にさしかかって、絶対に誰にもふたりが話していることが聞こえない状態になってから、トキさんが口をひらいた。
「嬢ちゃん、帰りたいと思うかい?」
「どこに?」
「嬢ちゃんの親御さんが、元気なころにさ」
 突然顔を見に来た両親。亡くなる前の夜。「もう遅いから行くね」というふたりを引き留めて、今度こそ笑うふたりの写真を撮れたら、どれだけいいだろう。
「そりゃあ、帰れるものならね、でも、やりなおしなんて出来ないじゃない。絶対に出来ないことを考えるのって、空しいから嫌だな」
「そうさな、絶対に出来ないことだよなぁ。普通ならな。それを普通じゃなくしたやつを、俺はひとりだけ知っているのさ」
 トキさんの背中を追って、里香は誰の持ち物かもわからない山の中に分け入る。木の幹になにかの目印の赤い布が付いてはいるものの、まるで整備がされていないから、自分の身体がすっぽり隠れてしまうような草やあちこちから突き出している枝をかき分けかき分け、未舗装の獣道を登っていく。
「そいつ、悪いやつだね」
「そうかな?」
「勝手だよ、普通のことを普通じゃなくしてしまうって。でも、叶うことならばそうしたいって誰でも願うことだから、なおさら悪いやつなんだ」
 トキさんは軽々と山を駆け上がるようだった足を止めて、家を出てから初めてこちらを振り返った。歩き出してさほど時間が経っていないのに、慣れない山道のせいかすでにへとへとの里香をしり目に、息も乱れていないし、汗ひとつかいていない。
「悪いやつかぁ。そうかも知れねぇな、だけどもよ、俺に何の見返りも求めず良くしてくれた、この世界に出来た、たったひとりの友達だったのさ」
 トキさんはそういうと、照れ臭そうに鼻の頭を掻き、ぼうぼうに生えた下草を踏みしめるようにしながら歩き出す。
「それじゃあしょうがないか」
「んー?」
 小さな背中が躍動している。後ろを歩く里香のために、足もとをふさぐ草を倒して、道を作って踏み固めるために飛び跳ねているからだ。
「友達がろくでもないことをしでかしたときにさ、それでも味方でいるって覚悟するのは大変じゃん、私にはさ、そこまでしたいような友達はいないけど、トキさんはすごいなって、ちょっと思った」
 山道は空を覆う木々の葉に遮られて薄暗く、どこか遠くで鳥の鳴く声がしている以外は静かだ。ひとりだったら絶対に足がすくんでいただろう。けれど、前を軽々と跳んだり跳ねたりしながら歩いていくトキさんの背中を見ていると、疲れていることも忘れて自然と足が前に動く。
「はは、照れるねえ。嬢ちゃんいいこと言うじゃねぇか。そいつな、あんたの先祖だよ。時渡はもともと、俺が持ってたのさ。そういうお役目だったからな。それがどうしたわけか、あいつに時渡が移っちまって。俺には他に行くところもなかったからよ、一緒に居すぎたのかねェ。それに気づいたあいつは時を戻した。あの馬鹿、自分のために使えばいいのに、戦には勝ったのに凱旋途中に敵の残党に首を斬られた自分の頭の死の結末を変えようとしたのさ。歴史上、死ぬべき武将が死ななかったもんだから、その時渡は失敗した。時間は戻せても、頭は結局死んじまうんだ。それなのにあいつときたら、目の前で死んだそいつが死ななくなるまで繰り返したんだ。すげぇ執念で、とんでもねぇ向こう見ずな馬鹿だろ? でもいいやつだった」
 その時込み上げてきた感情を、里香は上手く咀嚼できなかった。その言葉にはなにかたいせつなものがぎゅうぎゅうに詰まっていて、いままでの疑問に対する答えが半分くらいは含まれていた。
 あの夜道でトキさんと出会って、わけのわからないものに襲われて、こんな山道を歩く羽目になったのも、そもそもトキさんがいまここにいて里香だけに見えているのも、トキさんが言うあの馬鹿のせいで、トキさんはその友達との約束だから、たぶん自分や自分に続く先祖たちを守り続けていたのだ。この世界に出来た、たったひとりの友達のために。
「それじゃあさ、あの虫の塊、うちらを襲ってきたとき、返せ返せって言っていたけど、もともとトキさんのものだったんなら、返す相手はトキさんで、あんなやつらにうるさく言われる筋合いなくない?」
「そうは問屋が卸さないってね、いろいろあんのさ、手前の都合通りになりやしない、世の理とおんなじふうにな」
 膝が疲れてぶるぶる震えてきたので、枝葉の切れ目から薄日が差し込む場所を見つけて、横倒しになった木の幹に座って休憩することにする。ポケットをかき回して一番ハイカロリーそうなチョコレートバーを見つけ出し、隣に腰かけたトキさんの膝に乗せた。トキさんの方が里香の何倍も疲れているはずだし、そもそもトキさんが異界の存在で、自分の目にしか見えないものなのだとしても、小さい男の子の恰好をしているのだ。小さな子のことなんて里香はなにも知らないけれど、お菓子でもご飯でもいっぱい食べて、大きくなるべきなのだ。
 トキさんがチョコレートバーの包みを剥がしてかぶりついたのを横目に、里香も同じものを取り出して食べることにした。歯が疼くほどの甘味と、トキさんが用意して持たせてくれていた水筒のなかのまだ冷たい麦茶がすっと身体の疲れをほんの少しだけ忘れさせてくれる。
「ねぇトキさん、なんか衝動的に境目ってやつを目指して出てきちゃったけどさ。その境目は開いたり閉じたりできるものなの? あいつらがもう出てこられないように?」
「さあてねぇ。俺はあっちから来た。戻り方はすっかり忘れちまったがな。あっちってのは、この世界の理とは違う理で出来てる世界みたいなもんで、地続きじゃあねぇが、重なっているのさ」
「じゃあ、帰りたいとは思わないの? その、私の先祖だったっていう友達だって、もういいよっていうと思うな。子々孫々を守ってくれ、とかさ、友達だからってまあまあ図々しいじゃない」
 手に付いたチョコレートをペロリと舐めとりながら、隣に座っているトキさんはこちらを見上げた。どこか眩しいものをみるような、なんだか不思議な顔をして。
「お嬢はいいやつだな、その物言いなんて、まるっきりあいつみたいだ。なつかしいねぇ」
 その瞬間、ちり、と胸の奥が痛んで、そして里香はトキさんがあの馬鹿と呼んだ誰かを否定したがる自分の感情を理解した。
 これはたぶん嫉妬だ。トキさんが「ただひとりの友達」とその人のことを言ったとき、里香はさみしかったのだ。自分がここにいるのに、と。まだ出会って一日も経っていないのに。
「時ってのは、むかしはそりゃあたいそうなもんだった。正確な時間を知るのも一苦労だったんだぜ。秀吉の時代なんて、戦に時計代わりに猫を連れて行って、猫の目が光で大きさを変えるのを見て時間を図って敵地に攻め込む、なんてことをしてた。でも、いまはだれでも正確な時を知れる時代だ。めまぐるしくいろんな価値が変わっちまって、多分俺があっちに戻ったところでなあんにも残っちゃいないだろうさ」
「だから帰らないでここにいるの? 本当はツキモノなんかじゃないんでしょう?」
 トキさんが立ち上がってひとつ伸びをすると、また山の奥に向かって歩き始めたので、里香もまた立ち上がってその背中を追いかける。
「帰るには、時渡が必要なのさ。でも、持っているのはあんただ。しかも、あの馬鹿みたいに持ちたくて持っているわけじゃねぇ。持つべきじゃない力を受け継いじまって、なまじ使えるようになっちまったから、ああいう連中にもしつこく襲われる」
 ざわ、と空気が揺らいだ気がした。もう三度目だ。嫌でも察してしまう。またあの虫たちが現れようとしているのだ。こちらの不安を見透かしたように。一歩先にある地面にある葉が、かさりと音を立てて揺れる。
「お嬢、落ち着け。なにもいない」
 立ち止まっている間にずいぶん先の方に行ってしまっていたトキさんが、駆け戻ってきて、こちらの両手を強くつかみ、伸びあがるようにして視線を合わせてくる。
「あいつらの世界とは地続きじゃないって言ったろ? だが、感情が糸口になるんだ。あんたの恐怖や悲しみみたいなもんを媒介に、こちらの世界に足掛かりを作る。気をしっかり持て、キチンと境目を閉じてしまえばそんなことも当分なくなるからよ」
「当分とか、結局またしばらくしたらあの虫が出てきて、扱いに困る力を返せ返せとか言われて命狙われるの? そんなのヤダ」
 突然胸を突き上げられるような痛みとともに猛烈に腹が立ってきて、子供みたいに地団太を踏んでしまった。トキさんはそんな里香の手を握ったまま、聞こえるか聞こえないかの声で小さく、「ごめんな」と言う。
「違う、トキさんは悪くない。トキさんはどこも悪くないよ。元凶はご先祖だけど、ご先祖だってどうしてもそうしないといけない事情があったんだ。私だって悪くない、ただそういう家に生まれてきたってだけ。偶然先祖返りしただけだよ。だからトキさん、殴り込みに行こうよ」
「はぁ? 何言ってんだ嬢ちゃん? 殴り込み?」
「言葉が乱暴なら言い換えるよ。交渉、事情説明、駆け込み訴え、とにかくそういうやつ。トキさんはさっき、時渡が無いと帰れないって言った。じゃあ時渡はどこにある? 私だよ。私が一緒に行けば、帰れるかもしれない。そちらの世界が大元なんでしょ? この時渡の力みたいなのは。だったら、私から取り出して、トキさんに返す方法だって見つかるかもしれない。ねぇ、行こうよトキさん。このままだとなにひとつ良いようにはならない。時渡の血筋が狩られるとか、ただ殺されるとか前時代的すぎてやってらんないよ。それに、私が死んだら、トキさんはまた独りぼっちになる。百年も話すことも出来ない友達の子孫を見守ってさ、どんどん若返っているんでしょ? 百年で子供になっちゃったなら、今度は赤ちゃんになっちゃうかもよ? そもそも、私の代で終わりになったらトキさんはどこに行くの? 見守る約束も、帰る場所もどっちもなくなって、そんなのつらいじゃん、私だって死んでも死にきれないよ、そんなの」
 トキさんは黙りこくったまま、あまいと思って口に入れたものがひどくすっぱかった時のようななんとも言えない顔をして里香を見ていた。やがて、ただ添えるだけのようになっていた里香の手を握っていた指に、ぐっと力が籠められるのを感じて、里香は目の前の、自分よりすこしだけ下のほうにある少年の顔を見返した。
「ったく、びっくりだねぇ。かなわねぇなあ、嬢ちゃんにはよ」
 トキさんがまるきり子供のような顔をしてへへ、と笑うので、つられて里香も笑ってしまった。だってもう、里香は知ってしまった。自分ではどうしようもならない運命を受け入れて、流されるままに恨んで生きていくのは簡単だ。だけど、なぜあの時ああしなかったのだろう、どうしてこうしなかったのだろうと自分を責めることになる後悔が、どれだけ自分を痛めつけるかを。もしもあの時ああしていれば、こうしていれば――と後悔することになるのなら、選べるのなら自分でその先を選ぶべきなのだ。
「帰り方は本当にわからねぇんだ。嬢ちゃんを危険なことに巻き込みたくない」
「とにかく境目とやらに行ってみようよ。そこからあいつらが出てこられるなら、私たちが入ることも出来るはず」
「向こう見ずなのは血筋なのかね、おっかないねぇ」
「血筋とかじゃない、ただ私がそうしたいだけ」
「そうさな、すまん」
 そこに、不穏な羽音が響いた。蜂だ。アシナガバチ。刺されたら死ぬこともある危険な蜂だ。アシナガバチはぶうんと低い音をたてて、里香のほうへ飛んでくる。
「動くな。しばらくじっとしてろ、息も殺せ」
 トキさんが低く耳に囁く。
 できるだけ呼吸を押し殺して、虫が行き過ぎるのを待つ。アシナガバチは里香の着るウィンドブレーカーの明るい黄色に反応したのか、しばらく肩や背中のあたりを飛び回っていたが、やがて興味を失ったようにどこかに行ってしまった。いままで近づいてくる虫は全部捕まえたり追い払ったりしてくれていたトキさんでも、アシナガバチはやりすごすのだなと心の中で考えていると、トキさんがふふっと笑って片目をつぶってみせる。
「あれはあいつらの斥候じゃなかった。ただの虫さ。無用な殺生はするもんじゃねぇ」
 それから何時間歩いただろう。昼過ぎに実家を出て、山に分け入り、トキさんが境目と呼ぶ場所に付いたときには、すっかり日が暮れて、怖いくらいの暗闇だった。鬱蒼と生い茂る木々の間を縫うようにして辿りついたその場所は、見晴らしのよい高台で、テレビとかで紹介されていた聖地とかパワースポットと呼ばれる場所でよく見るような、大きな石がごろごろと転がっている。
月の明るい夜でよかった。近くにいれば、まだ、トキさんのシャツの白が見える。
 そんな暗闇のなかでも、綺麗なところだな、と思った。異界への扉。たぶんトキさんがそこから来たというのなら、そんなに悪いところでもないのかもしれない。その異界から来たなにかが、里香にはわからない理屈で両親を殺して、いま自分の命も付け狙われているというわけなのだけれど。
 ウィンドブレーカーのポケットから、かすかな光が漏れる。半分以上食べてしまって包み紙だらけになったお菓子の詰まったポケットに、首元で揺れるのが邪魔になって押し込んでいたスマートフォンだ。時計代わりにも使っているから、十九時とか、二十時とかのぴったりした時間になると、点滅して教えてくれるのだ。
 取り出してロック画面を見ると、ちょうど十九時になったところだった。手のひらサイズの画面のなかで、いつかの別れ際に撮った、バイバイとこちらに向かって手を振る両親の笑顔が映し出される。スマートフォンを買い替えたときに設定したままだったから、たぶんもう、二年前のふたり。死ぬにはまだ若すぎて、あと数年で二人一緒に鬼籍に入るなんて知るよしもない、まっさらな笑顔だ。
「ねえトキさん、セルフィー取ろうか」
 ロックを外して、フォトアプリを立ち上げる。スマートフォンになかに詰め込まれているのは里香の過去と思い出で、まず目につくのは、母に頼まれてロースタリーカフェ巡りをして撮った写真だ。スクロールすると現れる、洒落たマグカップになみなみと注がれたコーヒーやケーキ。おしゃれして友達と行ったアフタヌーンティーの三段トレー、残業帰りに同僚たちと空腹で這いつくばるようにして行ったラーメン屋の餃子とチャーシュー麺とかの、食べ物の写真、それからこちらに手をふってバイバイと笑う友達や、すまし顔をしていたり、妙なポーズを取ってくれたりしている両親の笑顔。こちらに向けて笑ってくれている写真が大好きだったけれど、笑っている誰かと一緒になって笑っている自分も残しておけばよかった。
「せるふぃーって何だ?」
「一緒に写真を撮ろうってこと」
「こんな時にかい?」
「こんな時だからだよ」
「嬢ちゃんは肝っ玉が据わってんだか、ビビリなんだか、女心ってのはわかんねぇなあ」
 里香は膝を折り、隣に居るトキさんという少年、あるいは少年の姿をした何かと顔の高さを合わせた。インカメラのボタンを押す。あまりに暗くて、なかなかシャッターが下りないのに、トキさんが物珍し気にスマートフォンを覗き込むので、画面に映っているのは白くぼやけたまるいなにかと、真っ暗闇ばかりになる。
「動かないで。いい顔して、ちゃんとにっこり笑ってよ」
 もう一回、シャッターを押す。次はふたりの笑顔が写っているだろうか。
「これから殴りこみだかなにかに行くわけだけれど、失敗したらまたここの時点に戻ってこようよ」
「はア?」
「時渡でさ。一回チャレンジして駄目だったら、またここに戻ってきてやりなおせばいい。何回でも、その度に写真を撮っておけば、これが何回目だってわかるしさ」
「嬢ちゃん、怖いこと言うねえ」
「トキさんが最初に言ったんでしょ。「あの馬鹿」とやらと私が似てるって。ご先祖は時渡が何度失敗しても、自分が納得できるまで繰り返して、そうして望む結果を手に入れた、そうなんでしょ? 先祖に出来たことが、私に出来ないはずがないよ。先祖みたいに好きだった誰かのためとか高尚な動機じゃないけど、自分と友達が幸せになるために足掻くのが駄目だなんて、誰にも言わせないよ」
「はは、そうかい。そりゃあ冥利につきるってもんさね」
 照れるとそっぽを向くくせがあるトキさんが、まっすぐこちらの目を見て顔をくしゃくしゃにして笑う。
「じゃあ行くとしようか」とトキさんが言う。
 まるで気楽な調子だった。ちょっとコンビニ行ってくる、みたいな、そんな感じ。
 スマートフォンをポケットに突っ込んで、里香はトキさんの手を取る。その写真に何が写っているのか、何が写っていないのかはわからない、でも、確認するのはここにもう一度戻ってきたときでいい。でも、そこに保存されているのが、行ってきますと言って笑うふたりの笑顔であるといい。

4


 バイバイ、と手を振って、「またね」と言って別れるとき、こちらに向かって手を振るひとは必ず笑顔になる。そう気が付いてから、里香はその瞬間を写真に撮るのが好きだ。十五歳の誕生日にスマートフォンを両親にプレゼントされてから、別れ際のバイバイとその笑顔の写真を撮ることを、社会人生活五年目になった今でもまだ続けている。
 けれど、スマートフォンを鞄から取り出すのすら面倒くさくなるくらい、疲労困憊の夜だってある。
 それが今だ。
 お昼にチョコレートをひとつふたつかじっただけで夜ご飯も食べていなかったから、空腹すぎて胃が痛むし、寝不足が続いて頭痛だってする。もう半年くらい繁忙期が続いていて家に帰れるのは毎日深夜だし、同僚はついに病欠からの出社拒否で、さらに仕事が回らなくなってきたところで――、早くうちに帰りついて、化粧を落とすとか歯を磨くとかどうでもいいから、とにかくベッドに倒れこみたい、そんな夜だった。理香が借りている、都心の割に部屋は広いけれど、築五十年平屋建てのアパートの真ん前の狭い道に、両親の乗った軽トラックが止まっていたのは。
「里香ちゃん、心配したわぁ。ずいぶんお仕事終わるのが遅いのねぇ」
里香が近づいてくるのを見て取った母親が、トラックの高い場所にある座席から飛び降りて、こちらに近づいてくる。
「ママ」
 中学卒業と同時に家を出たときに改めたはずの呼び方が自分の口から零れ落ちて、里香は耳に火をつけられたように熱くなるのを感じた。真っ赤になっているだろう顔を隠そうとして、頬をかすめた自分の指が冷たい。両手を見ると、濡れていた。自分が泣いていることに気が付いたのはその時だ。号泣していた。まるでちいさな子供に戻ってしまったように。
 肩から通勤鞄が滑り落ちて、アスファルトにぶつかって鈍い音を立てるのをどこか他人事のように聞く。里香は立ちすくんだまま、癇癪を起した子供みたいにみっともなく号泣していた。いや、実際は子供のころに、両親の前でこんなふうに手放しに泣いたことなんてなかった。離れて暮らす前から両親に対してどこか遠慮があったし、親の望む手のかからないいい子であろうとする自分をずっと意識していた。
 両親にはもう二度と会えないのだと知ってから胸に押し寄せたあの強い後悔と憤り。自分を責めて怒って、あの瞬間に時間を巻き戻せたらいいのに、と願っていた。たしかに、そう願っていた。けれど。
 馬鹿、嘘つき、わからずや、一緒に戻ろうって約束したじゃない。もし失敗したとしても、何度でも戻る場所は二人で写真を撮った、あの殴り込みチャレンジ一回目だって。トキさんをひとりあの境目に残して、リセットしてスタート地点に戻る、みたいなこんなやりかた、勝手だよ、トキさん。でも、どうしよう。このふたりが生きてここにいることがこんなにもうれしい。
「里香ちゃん、そんな仕事がつらいなら辞めちゃいなさい。一緒に帰ろう」
 顔を見るなり泣き出した娘に何を思ったのか、母がちょっと怒ったように言う。
「そうだな」
 トラックの運転席に座ったままの父の声が上から降ってきて、里香はしゃくりあげながら、首を振る。両親は仕事がつらくて泣いていると思っているのだろう。
 けれど、本当のことはなにも言えない。時間を止めて、あの夜に戻せるものならと願った場所に里香は居て、今度こそ、里香は目の前にいる二人を引き留めることが出来る。その先を、運命を変えられる。
 でもトキさんが居ない。もうどこにも。
 あのトキさんは境目のどこかに行ってしまった。夜道に飛び出してきて、手をつないで家に送り届けてくれたあのトキさん、バターたっぷりの卵焼きを作ってくれたトキさん、一緒にへとへとになりながら山道を掻き分けて境目に向かったトキさん、真っ暗闇のなか、ふたりで撮ったセルフィー。ちゃんとあの顔全体がくしゃっとなるトキさんの笑顔が写っているか、ふたりで確かめようと思っていた。
「じゃあ行くとしようか」とトキさんは言った。手をつないで歩き出してすぐ、異変に気付いた。一歩進むたびに、繋いている手の位置が変わっていくのだ。境目に近づくたびに、トキさんの身体は大人に戻っていくみたいだった。あんまり真っ暗で、転ばないように足もとばかりを見ていたから実際のところはよくわからないのだけれど。
 トキさんが急に手を放して、里香は地面に倒れ込んだ。
 光源といえば月の光だけで、それも雲に隠され、暗闇で見えなかった足もとの石にひっかかってしまったのだ。尻もちをついた里香にはトキさんの姿は見つけられなくて、ただ声だけが耳に届く。いつものトキさんの、どこか時代錯誤な話し方、気風のいいおじいちゃんみたいな、あのしわがれた年寄りみたいな声が。
「自分と友達が幸せになるために足掻くのは駄目なことじゃあねぇ、そうだったよな? 嬢ちゃん」
 さっと雲が晴れて月の光が差した。地べたに尻もちをつく里香の顔を見下ろす男の人の顔がおぼろに見える。短くて寝ぐせだらけのようにあちこちが突っ立った硬そうな髪。かたちのいいおでこの下の、勝気そうに吊り上がった太い眉。大きくて黒目がちな瞳の虹彩は、暗闇で丸く太った猫の目のかたちをしていた。
 そうして里香はこの夜に戻って繰り返している。たぶんトキさんが、時渡を使ってそうしてくれたから。

「お父さんも車降りて、今日は帰らないで。ふたりとも、ここにいてよ」
「明日は朝いちばんで集落のゴミ収集場の草むしり当番なのよねぇ、やらないと木島さんちのご隠居さんに怒られちゃう、うるさいのよ、あのひと。まあでも、里香ちゃんがそういうなら、そうさせてもらいましょうよ、お父さん」
 母が地面から里香の鞄を拾い上げ、自分の肩にかけると、どこかおっかなびっくりというふうに手を伸ばして里香の肩に触れ、里香が嫌がる様子が無いのを確かめるようにしてから、ゆっくり背に腕を回してくる。
「ねぇ、おなかすいていない? 姫筍の炊き込みご飯のおにぎりと、すももがあるわよ」
「やった、姫筍の炊き込みご飯大好き」
 父が車から飛び降りて、家に向かって歩き始めたふたりに足を早めて追いついてくる。
「ねえ、三人でセルフィー取ろうか」
「セルフィー? 今? なんでまた」
 背中に回された手があたたかい、母が生きてここにいる。里香の言うことに驚いて、笑っている。まだなにも起こる前だから。
「一緒に写真を撮ろうってこと」
「こんな時に? あんた顔すごいことになってるわよ」
「こんな時だから、なんだよ」
 これからも里香は、別れ際にこちらに手を振って「またね」と笑っている両親や友達の写真を撮り続けるだろう。そしてその時には、笑っている誰かと一緒になって笑っている自分の写真も撮ろうと決めたのだ。心ってやつは複雑で、自分の顔がきれいに写っていないとがっかりしたり憂鬱になって消したくなったりするし、泣いて化粧がぐちゃぐちゃになっている自分の顔をいつまでも残しておくなんてバツが悪いけれど、けれど、それはそれ、これはこれだ。
 トキさんがくれたのだろうこの瞬間を、この手にちゃんと捕まえておきたいのだ。今いる場所が時渡で捻じ曲げられたものだとしても、この時間を大切に過ごしていれば、その先でいつかまた、トキさんにもまた会える日がくるのかもしれないのだから。
 次にトキさんに会うときに、「初めまして」と挨拶することになるのか、「久しぶりだなア」と再会することになるのか、あちらの世界の理とやらのことはさっぱりわからない。出来ることならもう一度、あの声で「嬢ちゃん」と呼んでほしい。そう願うのは、欲張りなのだろうか。
 けれど、これから先に何が起こっても、何も起こらなくても、里香とトキさんが大切な友達同士だってことには、何も変わりはないのだ。たとえ、もう二度と会えないのだとしても。
 そうして里香は、母が持ってくれていた通勤鞄から取り出したスマートフォンのカメラ機能を立ち上げて、隣に立つ両親の身体を腕で強く引き寄せる。
「ほら、いい顔して、ちゃんとにっこり笑ってよ」
 その声に、里香の左右に立つふたりが顔を見合わせ、てれくさそうにカメラの方に向けて笑みを作るのを見て、ごく自然に里香の顔にも笑顔が浮かんでいた。
 フレームに三つの笑顔が収まっているのを確認しながら、里香はシャッターボタンを押した。


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