小説 蘇校 第一章

 幼馴染みと一緒にいること、ばあちゃんがやってる銭湯の手伝いをすること、弟と遊ぶこと。
 これらはどれも、俺の好きなことだ。
 俺の、幸せな時間だ。
 これだけできれば、俺は人生をずっと楽しめる、なんて思ってた。
 でも、そのくらい本当に素敵な時間だった。
 1章 永遠
─side宵宮氷(よいみや ひょう) 3月13日  7時
「─ねぇ、起きてくれない?」
 そう、声が聞こえた。
「、、、?」
 目を開ける。
 目に映ったのは、俺の弟の日向(ひなた)だった。
「ばあちゃんが呼んでる。1階来て」
 そう言い残して、階段を下りていった。
「、、、!」
 みんななら年下なのに、あんな生意気な態度をとって、とイラつくであろう。
 しかし、俺は嬉しかった。
 あいつが、わざわざ兄のために起こしにきてくれるなんて。なんて幸せなんだろう、と浮かれた気持ちで立ち上がる。
 スキップしながら階段を下りて、叫ぶ。
「、、、おはよーう!!」
「お兄ちゃん、うるさい」
「ええっ!?」
 クールに制されて、上ずった声をあげた。
「朝。近所迷惑。騒音。」
「そっ、そんなに言うかなぁ、、、?」
 声が掠れていく。
 なんで、文章にもせず単語だけ言うのだろう。そして、それにグサグサ刺さっている俺も弱い。
「ごめん」
「え?」
「早く、ご飯食べて」
 急に謝られて驚いた。
 あぁ、なんて純粋で、なんて愛しいんだろう、と思う。
 日向といると感情のジェットコースターに乗せられるのだが、俺は弟が無視をせず、丁寧に返してくれる、それだけが嬉しかった。
「分かった!、、、うわー、うまそー、、、」
 きっとばあちゃんが作った朝ごはんだろう。
 今日もどの品も美味しそうだ。
「おお、おはよう氷」
「ばあちゃん!おはよう!今日のもめっちゃ美味しそうだね!」
「氷は朝から元気だなぁ」
「そりゃそうさ!やっぱ、元気でいなきゃ!」
「うるさすぎも良くないけど」
「なんだと!?」
 ばあちゃんが笑う。日向も微笑む。ばあちゃんは笑顔がとてもかわいい。日向は、こいつは小3なのに大人っぽくて、しかも可愛くて狡い、と思っていた。
 俺もあんな二人みたいにかっこよくなりてー、と思った。
─side宵宮氷  3月13日  9時
 春。
 この町は春の、あのみずみずしいな花の香りと、不安と、期待が入り交じった、あの匂いに、空気に満ちていた。
「兄ちゃん、行ってらっしゃい」
「あぁ、行ってきます!」
 今日は、幼馴染みと遊ぶ予定の日だった。俺の大好きで、幸せな時間その1だ。
 いつも待ち合わせをしている駄菓子屋の前に向かう。そこには、すでに女の子がいる。これが1人目の幼馴染み、黎明さだめ(れいめい さだめ)だ。
「さだー!おっはよー!」
 さだは、俺に気付いて振り向く。
「あ、おはよ」
「いやー、今日も早くね?」
「え?だって15分前だし、早めの方がさ、なんか良いじゃん」
 この適当な感じは、さだ特有だ。いつも具体的な答えを言わない。続きが気になるような話し方で、俺は好きだ。何より、男の子っぽくさばさばしてるところも親近感が沸いてくる。
「適当だなー、相変わらず!」
「相変わらずってなんだよ」
 俺は笑う。さだは微笑む。さだの笑い方は、日向に似ている。それに少しだけ感情をのせたっていう感じ。
 二人で他愛もない話をしていると、「早く、早くついてきて!」という声と、「急に走らないでよ!」という仲の良い声が聞こえてきた。
「おーい!おっはよー!」
 俺は声をかける。すると、
「おはよー!」という二人の声が返ってきた。
「あーもう先に走って!追いつかないじゃん!」と言っているのは、師走わさび(しわす わさび)、俺の幼馴染みの2人目だ。
 こうやって嘆いているが彼女は、足が学校で一番速く、一番頭がいい、優秀な少女なのだ。それなのに威張らず、誰に対してもフェアで優しい態度なのが、好きなところ。
「だって4人で早く遊びたかったし!楽しみで待ちきれなかったんだーっ」と言っているのは、黄昏わらべ(たそがれ わらべ)、俺の相棒で、幼馴染み3人目だ。
 バスケが得意で、クラブに入っている。運動神経が抜群で、やっているときの姿はとてもかっこいい。わらべのバスケがかっこよくて、俺はサッカーを始めたのだ。5年生だっていうのに、165cmと高身長で優しい彼は、俺の信頼できる相棒なのだ。
「いつも遊んでるのに?」とわさびが訊く。
「そりゃ、いつ遊べなくなるか分かんないじゃん」
 そのわらべの答えに俺は少し不安になった。
 いつか、離ればなれになってしまう。みんなで一緒にいられなくなる。そんな怖い考えは、俺は好きじゃない。だから、
「どこに行ってもみんな一緒に決まってんだろー、な?」と言った。
 本当に離ればなれになりそうだったから。
 俺はどんな答えが返ってくるのかな、と思っていると、
「そうだね」と短いさだの返事が返ってきた。
「ま、深いことは考えずにさ。遊ぼうよ」
 やっぱり、さだはあっさりとしている。わさびとわらべも、
「確かにそうだね!」
「どこ行こうか!」 
 と、軽く返してくれた。
 こうやって引きずらず、あっさりとしているから、俺は居心地が良い。
 俺はこの3人が好きだ、と改めて思った。
 今も俺たちを囲む空気は、あの春の匂いだ。
 花と、期待と─不安な匂い。
─side宵宮氷  3月13日  15時
 あれからみんなで一緒に遊んで、幸せな時を過ごした俺は帰宅して、着替えをしていた。
 黒色の、作務衣。
 日向は紺色の作務衣をすでに着終えていて、ばあちゃんと話している。
 俺たちは、これからばあちゃんが経営する銭湯の手伝いだ。俺の幸せな時間2つ目。
「─おーい、着替えたよー!」
 俺が声をかけると、日向は「早く行こ」と手を引っ張った。
 ばあちゃんが「今日も頑張ろうねぇ」と言いながら、カウンターでなにやら準備し始めているところを通り過ぎ、大浴場へ向かった。
 俺たちがお客さんが来る前にすることは、浴場、脱衣所、サウナルームの掃除とお湯を張ることだ。
 俺は、日向の分と自分の分の雑巾を絞り、浴場の壁の端で位置につく。
 俺たちは、無言で目を合わせ「よーい、、、」と呟く。そして、「スタート!」という声で、一気に駆け出した。
 日向と競争をしながら浴場の床を掃除していく。5分後、俺は見事に拭き終え、勝つことができた。
 俺が日向と遊べる、3つ目の幸せな時間ということもあって俺は張りきっていたからだろう。
 日向は「明日は絶っっ対勝ってやる!」と悔やみながらも笑顔だ。
 次は、湯を張る。
 俺は、お湯を出すことができる機械のスイッチを入れに行った。
 その間、日向はサウナルームの掃除をし、水風呂の浴槽に水を張る。
 このお湯を入れる機械は、しばらく見ていないとお湯の温度が変わったり、古いため、壊れてしまうことが少なくない。
 俺は30分ほど見張りをしている。
 ばあちゃんはこのお湯の水質検査、温度検査をしてくれる。だから、引っ掛からないように見ているのだ。
 俺はお湯が流れている様子をじっと眺めていた。
─side宵宮氷  3月13日  15時50分
「─今日のお湯も合格だね」
「やったっ!」と二人で声を合わせる。
「あとは、冷凍保存ボックスのスイッチを入れるだけ?」
「そうだねぇ。開店10分前だし、そろそろ良い時間だ」
 俺たちはフロントの方へ歩く。
 店が開くのは16時、10分で完全に冷たくなるから、ちょうど良い時間だろう。
「日向、押していいよ」
「じゃあ押すねー」
 ポチっと音がすると、ビーンという電子音が鳴り始め、ボックス内が冷たくなっていく。
「これでフルーツ牛乳も冷えるねー」
「そうだな!、、、あ、ばあちゃん今日も終わったら飲んでもいい?」
 もちろん、お客さんの声をもらうのもありがたいが、昔からばあちゃんの手作りのフルーツ牛乳を目当てに頑張ってきたのだ。
 ばあちゃんは、「頑張ってくれたらねぇ」と言った。
 俺たちは顔を輝かせて、カウンターに立つ。
 そして、古い時計の鐘の音が鳴り、16時を知らせた。
─side宵宮氷  3月13日  16時
「シャンプーとカミソリください」
「フルーツ牛乳って何円ですか?」
「タオルが足りないんですけどー」
「すみませーん、いますかー?」
「サウナルームのドアが開かなくて、、、」
 俺たち3人は、さっきからこのフロアを右往左往している。
 お客さんが言うものは、俺たちが丁寧に解決していったはずなのに、いつも足りないところがある。
 これは今日も考えなきゃなぁ、と感じた。
 それでも、できる限りのことはやっていく。
「シャンプーとカミソリですね、250円です!」
「フルーツ牛乳の値段は書いてある、、、あ、剥がれてますね、すみませんこちらは300円になります」
「タオルは今補充するねぇ」
 お客さんのために最善を尽くす。
 それはどんな企業でも同じだろう。それでも、少人数でここまでできるのはすごいと思っていた。
「お兄ちゃん、男湯の脱衣所の掃除お願い!」
「あぁ、任せろ!」
 ま、そんな気持ちに浸るのは後でいいか。
 俺は男湯に急いで向かった。
─side宵宮氷  3月13日  22時
「─おー疲れぇ!」
 俺と日向は、ベランダでフルーツ牛乳を乾杯する。
「今日も頑張ったね」
「あぁ!」
 フルーツ牛乳を口に含むと、爽やかな甘味が口いっぱいに広がった。
「フルーツ牛乳、美味しいね」と、日向が呟くように言った。
「な、やっぱ変わんねーな!この味」と俺も返した。
 変わらない。
 それは、良い意味でだ。
 あの時の美味しい甘味が今でもここにある。
 ものは、必ずしも変わらないわけじゃないのに。
 例えば、この眼前に広がる愛知の風景。静かで、風が心地よくて、星が綺麗に輝くこの町は、昔、黒い瓦屋根がどこまでも連なる、江戸風景だったのかもしれない。もしかしたら、藁でできたテントが点々と、いや、ここは海だったかもしれない。と、だんだん時が流れるにつれて、変わっていくものだ。
 しかし、変わらないものだってある。
 例えば、このフルーツ牛乳もそうだし、各地の伝統工芸品だってそうだ。
 それに対して愛があって、この先何年も継いでいきたい、ずっとこの形で残していきたい、この良さを知ってほしい、という人々の想いが未来に届いて、現世にある。このフルーツ牛乳も伝統工芸品も、全て人々の想いの形そのものだ。
 じゃあ─と、俺が勝手に思ってしまう。
 じゃあ、ずっとこのままでいさせてほしいって願ったら、その願いは形になって神様に届くのだろうか。
 みんなで願えば、叶うのだろうか。
 変わらない、と言える日は来るのだろうか。
 そう思ってしまうのも、今日のわらべが言った言葉が、今も心にあったからだ。
─「いつ遊べなくなるか分かんないじゃん」。
 それが頭に浮かぶ度に、ポジティブな俺が狂いそうなくらい、不安になる。
「─なぁ、日向」
「何?」
「銭湯の仕事、好き?」
 何気なく、訊く。
 日向は、不思議そうな顔をして俺を見、また前を向いて爽やかな顔で言った。
「もちろん、好きだよ?」
「それならいいや」
 なんか、良かった。
 なんとなく、俺の自信が復活してきた。
 ずっと、一緒にいたい。
 届きますように、と願う。
「そろそろ戻る?」
「そうだな!」
 俺たちは、部屋に入る。
 春の、あのみずみずしいな花の香りと、不安と、期待が入り交じった匂い。
 今でも微かに鼻を掠める。
 だけど、その匂いは俺を不安にさせる要素が多く含まれていたことに、眠りについてからようやく気が付いた。
─side宵宮氷  3月14日  3時
「─氷を連れ戻しに来ました、ここから引っ越すために」
「何を言う!この子は私が大事にしてきたのだ!」
「お母さん、お願いだから─」
「じゃあ日向も連れていきなさい!なぜ1人置いていく?」
「あの子はまだ小さいから─」
 なんの、声だろうか。
 これは─と、頭の中で考える。
 これは。これは、父さんと母さん?
 ここに預けられて6年、ずっと会っていなかったのに。
 つまり、6年ぶりの再会、ということだ。
 なのに、心底喜べない。
 別に会いたくない訳でもなかった。ただ、このままだと俺の幸せな時間が壊れてしまう、と感じていた。なんとなく、そんな感覚がした。
 なんて、崩れるわけないじゃないか。どうせまた会えるだろうから、心配しないで前を向け!氷。
 ─っていつもなら、普通に前を向けた。
 でも、今日は違う。
 俺が思いたいことと、この現実は噛み合わない。
 本当に、本当に離されてしまうのか?
 ここから、この幸せから。
 すると、戸が乱暴に開いた。
 俺は目を開ける。
 目の前にいたのは、6年前より男らしさを増した、父の姿だった。
「─氷、父さんたちに会えて嬉しいだろう?」
「、、、は、何言って、、、」
「何?びっくりしているのか?それなら─」
「おい、来るなって、、、!」
「これを食べて落ち着いたらどうだ?」
 気持ち悪いほど、優しい声で迫ってくる。
 差し出されているのは─ラムネか?
 真っ白な球状の物体だ。
 でも、ラムネがこんなに丸いわけない。
「いや、いい、いらない!」
「早く食べなさい」
「だからっ、、、!」
「食べろと言っているんだ!」
「、、、!」
 ごく、と喉がなった。
 噛む間もなく、食道を通っていった。
 俺は、何を飲み込んだのだろう。俺、さっき何してたっけ。俺は─。
 意識が、だんだんと遠のいていく。
 このまま終わるのか?
 幸せな時を共有できないまま終わるのか?
 最悪だよ─
 俺の視界が黒く染まっていく。
 次第に捉えていた音も、聞こえなくなる。
 何もない世界で、脳裏に「氷!」というばあちゃんの声が浮かんだ。
 そして、完全に意識が途切れた。
─side宵宮氷  3月14日   9時
 ─教室。
 俺は今、多分教室の椅子に座っている。
 目の前に机があるから。
 、、、教室?
 さっきまで俺、どこにいたっけ。
 俺は思い出そうとする。階下から聞こえてくる怒号。乱暴な、ドアの音。気持ち悪い、男の人の声。
 ─そうだ。
 俺はさっきまで部屋にいたんだ。
 部屋で日向と一緒に寝てたんだ。
 それで、急に男の人が入ってきて、ラムネを口の中に入れてきて、それで─
 ここにきたのか?
 顔を上げる。
 普通の、教室だ。
 暖かい日差しが、俺の顔と机を優しく照らす。
 使い込まれたような愛のある古い匂いと、木材の優しい匂いが、俺の鼻を掠めた。
「、、、」
 それはどこか俺の通っていた小学校と、似ていた。でも、それ以上に優しかった。
 と、突然扉が開いた。
「お?氷くん、かな」
「、、、え」
 そこに現れたのは、俺とかなり容姿の似た男子高生くらいの人だ。
 というか、普通に声が出せた。
 いつの間にか、音も聞こえ始めている。
「誰、、、?」
「俺はひょう。よろしくね」
「あ、よろしくお願いします、、、」
 俺と同じ名前。
 同じ見た目で、同じ名前。
 この人は、一体なんなんだ?
「というか、、、ここって何処ですか?」
「お、気になる?」 
「はい、、、」
 すごく、面白そうな、わくわくしている顔だ。
 そんなに驚くことが?と、俺は期待をし始める。
「ここは─夢の中です!」
「、、、は?」
 夢の中?
 ということは、俺はあれを食べたあと寝ていたということか。
 じゃあ、つまりあのラムネは睡眠薬?
 にしても、リアルな夢だ。
 声が出せて、動ける。自分の意志がある。
 すごい、と思った。
 嘘とか関係なく、ただ純粋に。
「あれ、信じがたい話な気がするけど─もしかして信じてくれた?」
「あ、普通に信じれました」
 すっと、頭に入ってきて、普通に理解できた。
「でも、なんで呼んだんですか?」
 俺は訊いてみる。
「それはね、、、」と俺に顔を近付ける。
「君を、助けにきたんだ」
 
 次の瞬間、俺は車に揺られていた。
「え」
「あ、氷起きたの?」
 父さんと、母さんの声。
 それに吐き気がしてきた。
 さっきまでの安心感も、優しさも、余韻も一欠片も残っていない。
 ただ、記憶だけが頭にあった。
「もうすぐ着くからね」
「は、着くって、、、何処に?」
「シズオカだよ」
 シズオカ、、、?
 漢字を探して当てはめてみる。
 静、岡。静岡。
 あ、愛知の隣の静岡。
 だから、隣の県にきたのか。
「てか、日向は?」
 そうだ。いつも、隣には日向がいた。旅行する時はもちろんのこと。あの3人と行くときでさえ、一緒にいる。のに、今日はいない。
「あぁ、日向は置いてきたよ」
「は?」
 その言葉が、俺の頭を強く打った。
 俺の、大切な人を、幸せな時間そのものを置いてきたというのだ。
 俺は、身を乗り出して母さんのシートを殴った。
「、、、ふざけやがって、、、!」
「氷、やめなさい」
「だいたいここに来たいなんて言ってねぇよ!」
「氷」
「勝手に連れてきやがって、、、!」
 俺は怒りに任せて思いっきり立ち上がった。と、シートベルトにロックが掛かり、俺の身体は元に戻った。完全にロックされ、俺の上半身は固定される。
 俺は小さく舌打ちをし、不機嫌に窓の外を眺めるしかなかった。
「サッカーも辞めなきゃなんねぇし、日向にもばあちゃんにも、わらべたちにも会えねぇし、銭湯も手伝えねぇし、、、」
 俺は、そうやって苦々しくつぶやく。
「新しい地での経験も大事だろ?」
「、、、理由の後付けなんていくらでもできるんだよ」
 力なくつぶやいて、また眠りについた。
 こいつらのせいで全てを捨てなければならない現実に、現実を変えられない自分に、嫌気が差してきた。すごく、悔しい。
 ─覚えとけ。
 俺は頭で、シートに涼しい顔で腰かけている2人の顔を黒く塗りつぶしてやった。
─side黄昏わらべ  3月14日  10時
「─なぁ、2組の氷ってやつ転校だって」
「、、、は?」
 俺は、友達と遊びに行くために持っていたボールを床に落とした。
 弾みながら廊下を転がっていく。
 今朝、さだとわさびと俺で氷のことを待っていたのだが、来なかったため、遅刻だろうと置いてきたのだ。
 その後で日向くんのことを思い出したのだが、日向くんは欠席だと保健室の先生から聞いた。
 そんな氷が、転校?
 俺らに秘密で、静かに?
 そんなはずない─と冷静になる。
「ははっ、なんのドッキリだよ、やめろよ急に─」
「静岡だってよ、あいつ」
「隣の県だし、変わんねぇのになー」
「てか、お前知らんかったの?」
 目の前が一瞬、真っ暗になった気がした。
 あいつが、静岡?
 そんな遠くにいるのか?
 いままで、隣にいたのに?
「、、、わらべ?」
 友達が俺の顔を心配そうに覗き込む。
「安心しろよ、俺らがいるしさ」
 そうじゃない、と心の中で言う。
 氷は、お前らより何倍もいいやつで、何倍も大切にしてきた相棒だ。
 氷は、自ら行きたい、と言ったのか?
 それとも連れていかれたのか?
 でも日向くんは愛知に残っている。
 そんなことあるか?
 何より、俺らはこれからどうすればいいのだろう。 
 あいつのおかげで仲良くなれたのに、お前がいなくなったら─。
「、、、先、行ってるからな」
 みんなは、そう言って廊下を駆けていった。
 俺は、膝に力が入らず片手を着く─というところで、誰かが俺を支えた。
─side師走わさび  3月14日  10時
「わらべ、大丈夫そ?」
 彼が崩れ落ちる前に、手を差し伸べることができた自分を褒めつつ、その場に座った。
「おーい?顔が暗いよー?」
 久々に見た、暗く、病んだような表情。色のなくなった目。
「そんなに悲しいの、何かが?あ、もしかしたら、あいつら─」
「転校だって」
「え?」
 私がしゃべっていた時に、そう言われた。
 転校って─もしかして。
「、、、氷のこと?」
「、、、」
 黙って頷く。
 私は、思わず目を見開いた。口を手覆った。
 あの、氷が?
 一緒にいたのに、急にそんなことあるのかな、と私は信じられずにいた。
 でも、わらべの表情でなんとなく分かった。
 氷は、愛知にはいない。
 遠くにいる。
 本当の話だ。
「嘘、、、」
 そりゃ、こうなるだろう。
 相棒がいなくなるんだから、立てなくなるのも当然だろう。
 私だって、さだがいなくなったらこうなってる。
「、、、あいつ、嫌がってたのかな」
「、、、!」
 無理矢理、ということか。
 日向くんは休みのはずだから、おばあちゃん家にいるはず。
 となると、氷と誰かと?
 あ、ずっと会ってないって言ってた親と、かな。
 そしたら、もっと嫌だ。
「助け、求めてたのかな」
 わらべが俯いたまま話し出す。
「救えなかった、、、!」
 深く嘆く。
 私も、助けられなかった。
 氷、ごめん。
 心の中で謝る。
「わらべ、、、」
 私はただ、わらべの横にいるしかなかった。
 氷、本当にごめん。
 私も下を向く。すると、
「なーにやってんの?」
 と軽い声が聞こえた。
─side薄明さだめ  3月14日  10時15分
 ま、どうせ氷のことだろうけど。
 そんなの、見ればだいたい分かる。
 けど、そんなに悲しいか?
 人がいなくなったところで、自分達はそれでも生きなきゃいけないのだ。
 泣いていられるか?
 悲しくない自分を最低だと分かりつつも、笑顔でそんな思考を塗りつぶした。
 それもそうだが、この2人をどうすべきか。
 もうすぐ第一放課が終わる。
 移動させなければ、と思った。
「んー、空き教室でも借りる?話す?」 
 こんな時に限って、何も提案ができない。それだけは、自分の欠点だって分かった。
 数秒して、答えが返ってきた。
「いいよ、大丈夫。─わらべ、別のところ行く?」
 泣いた後なのか、目が充血している。
 わらべは、無言で立ち上がった。そして、「ちょっとごめん」とだけ言い残して、走り去っていった。
「あ、ちょっと!」
 わさびも追いかけに行った。
 自分も行った方がいいかな、と足を走らせる。でも、足が自動的に止まってしまった。
─だめだこりゃ。
「あーあ。こんな時どうすればいいんかなー、なぁ?」
 取り敢えず、空に訊いてみる。氷に届くかなって思って。当然、答えは返ってこない。そりゃそうか、と諦めて、自分はゆっくりと歩いていった。
─side宵宮氷  3月14日  10時30分
 車をバックさせる音で、目を覚ました。
 2列に複数の住宅が並び、周りは田んぼのところが多々ある。公園やスーパー、ショッピングモールなどが建ち、意外と栄えているらしい。田舎なのか、都会なのか怪しいところが親が気に入り、ここにしたらしい。俺は中途半端は好きじゃないから正直、他のところにして欲しかった。
「─さぁ、着いたし荷物運ぶか。氷、自分の荷物を運びなさい」
「あ?、、、俺、何も持ってないけど」
「この段ボールよ。私たちがまとめておいたわ。ほら、2階まで持ってって」
「、、、」
 言われたとおり、俺は階段を上り、自分の部屋であろう個室に段ボールを下ろした。
 あともう一つを持っていこうとしたところで、ふと窓を見た。
 日が照っている。春なのに、初夏っていうくらい暑くて、俺は手の甲で汗を拭った。
 この青空、愛知にも広がってんのかな、と思った。だが、そんな思考があったら人生楽しめない、と即座に塗り潰す。
 あいつらがいないのに人生楽しいか?ってなったけど、あいつらが必要だ、あいつらといたい、という感情は愛知に置いてきたとしよう。そうすれば、きっと俺は幸せになれる。
 何か違う気がしたけど、どうでも良くなってまた階段を駆け降りていった。
─side宵宮氷  3月14日  12時
「氷ー、昼食よー」と、母さんの声が聞こえた。俺は、
「いらない、食べていいよ」と、返した。
 正直、食欲は沸いていなかった。あんな人の飯を食べたいとは思わない。
 俺はベッドに身を投げる。
 そのまま、仰向けに転がる。
 横を向くと、段ボールに入っていた勉強机とランドセルが目に入る。
 そのまま下に視線をずらすと、サッカーボール、クローゼット、スポーツバッグが目に映る。
 ─サッカーも、もうやらないしいらないか。
 スポーツができるわらべに憧れて、始めてみたサッカー。やればやるほど楽しくなってきて、試合にまで出させてもらった。仲間と勝ち取った県大会優勝は嬉しかったな、と思い出す。
 しかし、そんな思い出だって色褪せている。
 机の上に置いてある、3人と撮った写真。
 それだってとっくに昔の話だ。多分必要ない。
 どうせみんな、俺に関わらないだろうし。
 そう思えてくると、少し寂しくなるが、なんでも良かった。
 もう必要なんてない。
 これから一人なんだろうな、と目を瞑る。
 誰もいらない。
 別に新しい出会いを求めることもしない。
 いままでを全部忘れて、一人になろう。もういっそ、一人になってやろう。
 その方が、楽だから。 
 悲しくなくて済むから。
 俺は目を閉じて、また深い眠りに落ちていった。

 そうして、俺は10カ月を静かに過ごした。
 
 続
 
 
 

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