AIは歴史認識はちと苦手(平家物語の冒頭の続きを書こうとして)
人名は違うし、平氏と源氏の順序がおかしい。
が、これはこれで読める。
そして、春は桜が散るように去ってゆく。花は咲き誇り、風とともに去り、後には新緑のみが残される。また夏が来れば、花が咲いては散ってゆき、秋になれば葉が色づくだろう。秋の夕暮れに吹く風に、沙羅の木犀の香りを嗅いで、花も盛りのままではいられないのだ、と思うことであろう。
しかし、それはあくまでも「この世」のことであって、我々が住む世界はそうではない。我々にとっての世界とは、我々の心であり、意識である。だから、我々はこの現世で生き続けねばならないし、そのことは喜びでも悲しみでもない。ただ生きてゆくだけである。だが、この世に生きるということは、実は大変なことなのだ。なぜなら、生とは変化の中にあり、しかもそれが絶えず繰り返されているからだ。朝起きれば夜寝るまでの変化があり、日一日と老いてゆく。四季の移ろいがあり、昼と夜の違いがあり、雨や雪が降ることもある。病もあれば怪我もある。生命ある者には死がある。そうやって、この世界は絶え間なく変化を続けているのだ。
『平家物語』では、平清盛が死んだ後、息子の頼盛が跡を継いで平氏政権を築いたことを記している。ところが、その後を継いだ息子・重衡の代になって、平氏政権の腐敗が始まると、人々は口々にこう言った。「源氏の時代の方がよかった」と。確かにそうかもしれない。何しろ、源氏の時代は栄華を極めた。平安京という政治都市を作り上げ、天皇に代わって天下の政治を取り仕切ったのである。貴族達は権力争いに明け暮れていたとはいえ、世の中は平和だった。武士達も朝廷の権威を背景にして、それなりに暮らしていた。つまり、この時代こそが人々の理想とする世界だったのである。それに比べて、今はどうか? 源義経という男がいた時代の方が良かったのか? 頼朝という男がいた時代の方が良かったのか? いや、今こそ平氏政権の時代が一番いいと言う人も多いに違いない。それに、これから生まれてくる世代にとっては、むしろその方が幸せかもしれない。いずれにせよ、これは単なる歴史認識の問題ではなく、人間の生き方の問題なのである。人間は、自分の生きている世界がどのようなものであるかを知る必要がある。もし人々が、今の世を地獄だと思えば、人は地獄の中を生きていかなければならないことになる。逆に、今の世が極楽浄土だと思えれば、幸せな人生を送ることができるだろう。いずれにしても、自分が存在する世界をどう捉えるかによって、人生の楽しみ方も変わってくるはずである。
さて、私は以前、次のような文章を書いたことがある。
「仏教は本来、人の苦しみを救うために作られた宗教であるはずなのに、なぜ仏の教えを聞くことで苦しまなくてはならないのだろうか?」――と。しかし、よくよく考えてみると、そもそも苦しみというものは存在しないのだ。いや、存在していないと言った方がよいのかもしれない。なぜなら、苦しみというのは、いわば錯覚に過ぎないからである。
例えば、あなたはこんな経験をしたことはないだろうか? 突然、激しい頭痛に襲われたり、めまいが起こったりして、立っていられなくなったような場合である。あるいは、仕事や勉強をしている最中に、ひどく頭が痛くなって、どうしても集中できなくなったというような場合もあるだろう。このように、何か苦しいことや悲しいことがあって、それによって心がかき乱されてしまい、心の平静を失ってしまうことがよくある。そういう時、多くの人はこう思うのではないだろうか。「ああ、自分は何て不幸な人間なのだろう」とか、「何で自分だけがこんなに苦しむのだろう」とか……。しかし、このような考え方そのものが間違っているのだ。不幸だとか幸福だとか、そんなことはどうでもいいことなのだ。重要なのは、それをどのように感じるかということであり、その感じ方によってその人の人生が決まるということになる。
よく言われるように、幸せというものは相対的なものであり、絶対的ではない。一方、不幸せというのも相対的なもので、絶対的なものではない。どちらも人間が勝手に作り出した幻想にすぎないのである。その証拠に、あなたが本当に幸せを感じている時には、他の人がどんなに悲しんでいたとしても、何とも思わないではないか。反対に、いくらお金があっても、健康であっても、愛する人がいても、それでもやはり何も感じないはずだ。そんな時は、たとえ他人から見て不幸であったとしても、本人は決して不幸ではないのだ。だから、幸せも不幸せもないのである。
では、何を以て幸せと感じるかというと、それはあなた自身の心に他ならない。つまり、自分が幸せだと思うかどうか、ということである。そして、この思いこそが、あなたの人生を決めていると言ってもいいくらいなのだ。