従道さん関係のあちこちメモ
従道さんを追っかけて那須旅行した際のメモやら、昨年訪ねた場所のメモやら
西郷別邸跡(栃木県那須塩原市)
西那須野駅から徒歩5分ほど。
現在の永田公民館の表に那須塩原市による史跡解説がある。屋敷自体は昭和の時代に解体されており現存しない。
従道は従兄の大山巌とともに那須野が原の原野を購入し、故郷・加治屋町の名を冠した『加治屋開墾場』として共同経営した。のちに二人は「自分たちがいなくなったあと子孫が揉めないように」と土地を分け、それぞれ西郷農場、大山農場として経営。西郷農場の敷地にこの別邸が建てられた。
晩年、胃癌を患い余命宣告された従道はこの地で静養したものの、病状はますます悪化し、治療を望む夫人の希望で東京へ戻ることになった。
従道は東京へ向かう鉄道の車窓から那須の風景を何度も振り返り眺めていた。従道と大山は「ともに加治屋の土になろう」と約していたという。このひと月後、目黒の私邸にて薨去する。
大山もまた晩年の多くの時間を那須の別荘で過ごし、西那須野町に埋葬されている。
西郷神社(栃木県大田原市)
従道薨去の翌年、従道を慕う加治屋の農家の人々によって建立された従道を祀る神社。目黒の従道邸にあった神社の分社という形だが、本社にあたるものは現存しない。
石造りの社殿は石工・小松布孝の作と伝わる。かつて従道が雲照寺(那須塩原市)の観音像を見て感銘を受けたとのことから、その観音像の制作者である小松へ制作を依頼したのだという。
ご神体は従道の狩猟用の上衣と防寒靴下、短刀の三種。従道は大山と共に加治屋での狩猟を度々楽しんでいたため、従道の狩猟上衣はこの地の人々にとって彼を身近に感じられる品だった。
大祭日は従道の命日である7月18日のひと月後にあたる8月18日。現在は毎年8月の第三日曜日に祭典が執り行われている。また境内には戦没者慰霊碑があり、祭典と同日に慰霊の儀が行われる。
かつて西郷神社は那須塩原市に属し、同市内の乃木神社(乃木希典夫妻を祀る)の管轄だったため、乃木神社神官の手で祭祀が行われていた。その後、昭和30年に加治屋地区が大田原市に編入したことで乃木神社の管轄を離れた。こうした経緯から今も社殿の中には乃木神社のお札が納められている。
境内にはヌマスギの大木が7本生えている。西郷神社を研究されている公民館長様によると、このヌマスギは従道が副総裁を務めた『フィラデルフィア万国博覧会』の際に苗木を持ち帰って自邸に植樹し、加治屋開墾に際して西郷農場へ移植され、さらに神社建立時に農民たちが境内へ移植したのではないかとのこと。また本殿の向きやヌマスギが植えられている方角を辿ると、雲照寺、目黒の従道邸、そして従道の生まれ故郷である鹿児島県加治屋町をそれぞれ指しているのではないかと語られていた。加治屋の人々には故郷に対する強い信仰心があり、故郷やゆかりの地を拝む向きで建てられた神社や祠というものが他にも複数存在するそう。神社を建立した人々の従道に対する敬愛の情が偲ばれるお話だった。
那須でお聞きしたお話
加治屋で農業をされている方から
「西郷さん(農場を継いだ息子・従宏さん)は自分の農場内の57の農家を自作農にしてくれた。もちろんただで土地をあげたというわけではなく、米や野菜と引き換えに。そのおかげで戦後農地を国に取り上げられなかったから、自分たちは今も変わらずここで農業ができている。
それで言うと、大山さんは土地を農家に与えず自分のものとして経営していたから国に没収されちゃった。大山さんが悪いってわけじゃないけど。こんな風に言ってると大山さんの従弟の西郷さんに怒られちゃうね。
今も田んぼに『西郷家』と彫られた石碑が残っているところもある。
昭和の町村合併の頃に西郷神社のある市も変わったし、この辺りの町はだいぶ地名が変わったけど、従道さんがつけた『加治屋』の名前はちゃんと残したんだ」
西郷従道の家系のご当主様から
「来月(9月)鹿児島で隆盛の忌日の祭典があり、その前に西郷家の集まりがある。親族が200人(100人?)ほど集まる予定」
「『ツグミチ』読みは間違い。自分が家系図を管理しているが、従道の子孫にツグなんて読む名前の人間はいないし、「名前の漢字を説明しようとした時にリュウコウ(当時の本名は隆興)をジュウドウと聞き間違えられた」という経緯で生まれた名前なのだからジュウドウが正しい。ネット上にあるツグミチ表記も訂正したいと思っているがなかなか無くせない」
(個人的なメモ:公文書のローマ字表記に出てくるツグミツとは何なのか?ローマ字でのJudo表記が分かりにくそうなので避けた…?いつか見解を伺ってみたい)
目黒区菅刈公園、菅刈公園和館展示室(東京都目黒区)
かつて従道が所有していた土地の一部を目黒区が公園として整備したもの。目黒にあった従道邸の庭を遺構から再現した庭園と、従道にまつわる西郷家提供史料などの展示室がある。また鹿児島県や従道の子孫の方々から寄贈された樹木が公園内に多数植えられている。
政変で下野した隆盛をいずれ東京へ呼び戻し共に暮らしたいとの願いから、従道は隆盛好みの景観が望めるこの土地を購入した。その願いは叶わぬまま翌年西南戦争が勃発する。
西南戦争後、この地に建てられた迎賓用の邸宅(のちに本邸となる)の一部は後年愛知県の明治村へ移設され、重要文化財として現在も保存、公開されている。
菅刈公園内には、史跡名勝天然記念物保存法により建てられた『明治天皇行幸所西郷邸』の碑が存在する。この行幸は恩赦により隆盛の名誉が回復された後実現した。庭で相撲や薩摩踊りが披露されたという。
近くには菅刈小学校がある。従道はこの小学校へ校舎の建設用地を譲っており、その縁から菅刈の小学生たちは遠足で従道邸の庭を訪れていたという。
西郷山公園(東京都目黒区)
菅刈公園から徒歩10分ほどの位置にある。
元はこの二つの公園がある場所も含め、辺り一帯が従道の所有地だった。それがあまりにも広大だったために人々から「西郷山」と呼ばれるようになったのが現在の地名の由来。西郷家が土地を手放した後に所有者がバラバラになったため、公園も飛び地になっている。
高台にあるこの公園からは目黒の街が見渡せるほか、冬の晴れた日には美しい富士山が見られるそう。
(公園内にあるカフェ『Green Cafe Saigohyama』のキーマカレーがすんごく美味しい!西郷さんにちなんで『つん』と名付けられたさつま芋チーズケーキも提供されている)
多磨霊園の西郷家墓所(東京都府中市)
多磨霊園内で最も面積の広い墓所。遠目にも分かるほどの巨木が西郷家の墓所を守るように佇んでいる。
西郷家、従道さん、清子夫人、夭逝した長男・従理君の墓石が並んでおり、従道さんの墓石には『元帥海軍大将大勲位功二級従一位侯爵西郷従道墓』と刻まれている。
従理君はロシアにて洗礼を受けていたため、墓石には洗礼名『亜歴世』の文字も刻まれている。また従道夫妻は息子の信仰を尊重し、日本で初めて正式な正教会式の葬儀を営んだ。このことは「日本の信教の自由の小さな礎となった」とも評されている。
多磨霊園には隆盛の従者だった永田熊吉夫妻のお墓もある。西南戦争後は従道が雇い入れ、目黒の従道邸の庭造りや那須野が原の開拓にも深く関わっている人物。