2020/08/06
8月6日・9日・15日をはじめとする「戦争」にまつわる日付が私にとって大きな意味を持つようになったのは恥ずかしながら2年前からでした。去年からの1年間で自分が考えたことなど振り返りつつ、今の時点で私が考える平和について述べます。
(約)1年間の振り返り
2年前~去年のPN!でたどりついたのが、「対話」が平和につながる、ということでした。
それがより深まった(迷走したともいう)のと同時に、「やっぱ政治、デカいな」という想いが確固たるものとなりました。
なにがデカいのかというと、政治は人間の命を生かしも殺しもするということです。コロナ禍、とくに10万円給付金のあたりで実感しました。自粛に伴う給付を行い人々の命と生活を守るという役割を果たす政治、ほんとに見ないふりしてていいのかなって怖くなってきた部分もあります(GoToやらイソジンやら最近のことを言い出すときりがないので省略)。
政策と社会のあり方というのは相互作用の関係にあります。政策は枠組みみたいなもので、それに合わせて人々が生活すればその枠組みは当たり前のものになり、社会のあり方を表すものになります。逆に社会のあり方が政策を変えることだってあります。
でも私たちが作りたい社会を作っていけるとして、どうやって私たちはその意見を表明すればいいのか?色々あると思うけど実際ハードルが高いのが現状ではないでしょうか。
私は全然顔見知りじゃない人とフォローしあってるTwitterアカウントでは全然つぶやけるけど顔見知りの人しかいないところでは全然つぶやけません。不思議ですけどめちゃくちゃ躊躇します。それで割と発信することをあきらめます。
みなさんが政治をどういう心境で見てる/見てないのか分からないし、正直、それを聞くのもチキンなので怖い。でも話せるようになりたい気持ちもある。むずかしいね。模索はやめないでいたいです。
政治の話はここらへんにして、「対話」がどう深まった(迷走した)のか、という話をします。
人との会話の中で「共感」と「尊重」があれば、意見の方向性が違っていても対等な立場で対話ができるかもしれないと思い始めました。私なりにそのふたつを定義してみます。
「共感」は、相手の主張や想い・およびその思考回路に同意できて、自分が相手のやり方と同じものを持っている(と思える)時に発動する。「わかる~それな~」って感じ。
「尊重」は相手のベクトルが自分にとって理解・納得できないものであったとしても、「相手の考え」として大事にできること。「わかんないけどわかる~」って感じ。
どっちも大事だけど、より柔軟に機能するのは「尊重」だと思う。共感は「自分と同じもの」が基本的に必須(なくてもできちゃう人もいるとは思う)。人同士が関わっていく中で、いつかはどこかで「自分と違う」部分が出てくる。そういうときに「共感できないから合わない」ってなると、しんどいです。
じゃあ「尊重」ってそんな簡単にできるかって言われるとよく分からないし自分ができるばっかりでもないので保留。お互い何でもかんでも受け入れることが平和につながるとも思えませんし、理不尽なことには声を上げたいし抵抗したい(願望)。
「違いは間違いじゃない」って以前通ってた教会の牧師さんに言われたことがありますが、「しかし相性はある」という言葉も付け加えたいです。「分からないけど分かろうとしたい気持ち」が「尊重しなければならない呪い」になってしまっては意味がありません。
そういう意味で自分の気持ちを大事にすることが他人を大事にできる土台になる、といえるのかもしれない。
ちょっと別の話
ところで、平和について語るとき、それぞれ「ごはんがおいしい」とか「やりたいときにやりたいことができる」とか自分なりの言語化したものがあると思うんですが、自分が発言したり誰かの意見を聞いたりする中で、少なからずもやもや引っ掛かりポイントが発生していました。
それは、「自分さえよければいいのか?」ってとこです。2年前・去年のPN!でも「私にとっての平和」と「私たちにとっての平和」はなんか違うのではないか、というところに(自分が)こだわっていたので、ここに対してなんか…しっくりこない…と思っていました。
現時点での私の答えは、「自分がいいと思うものは、それはそれで超いい。でも、それを得られない人がいるかもしれないことを、ちょっとでも想像してみることが必要なのではないか」
思想、職業選択などを含めた個人の生き方・あり方全般において、「多様性」「選択の自由」が振りかざされがちです。ですが、実際人が選べる選択肢は置かれた環境によって多くも少なくもなるし、選ぶことすらできない場合もあります。
「自分の意志」で決めたことの裏には、今まで育ってきた環境やそこで醸成された(ある意味、凝り固まっているかもしれない)価値観がとてつもなく影響しています。何年前だったか忘れましたが上野千鶴子東大教授も入学式のスピーチで進学における本人のスペックと環境の話をしてた気がします(ざっくり)。育ってきた環境が世代間で連鎖していくというのも、虐待や貧困などの諸社会問題の中で言われていることです。
何が言いたいかというと、「平和」「個人のよりよい生き方」を考えるうえで、自己責任論が議論の幅を狭めかねないということです。
変えたいことや起こってる問題の原因は個人にあるのではなく、社会のあり方や政治にあるって考える方が、実はアプローチの幅が広がるのではないか、と思いたいのです。
書きながら、こんなこと考えながら生活してる人おらんやろうな、っていう気持ちになってきた。笑 自他共に認める考えすぎの私だからこそ書けることがあると思って続けます(ポジティブ)。
まとめ「私の考える平和」
長々書きましたが、まとめます。
平和は、①自分(たち)が実現したい生き方・社会 ②それを踏まえて周りの人と築いていく関係 をよりよくしていけば、実現できます。
ひとりひとりの「私にとっての平和」や「私たちにとっての平和」があって、それをお互い大事にできれば、自分の半径2~5メートルくらいは、平和になっていくんじゃないでしょうか。
もうちょっと具体的に言うと、
「人の生き方・暮らし方を見えにくいところで動かしている政治や社会のあり方というものが存在している」ことに気付くところから始まり、そこから紆余曲折あったとして、結局は自分のやりたいことの実現に向けてみんなが何かしらアクション起こせるようになればいいな(何もしない、という選択肢も含めて)。
最初らへんで述べた「共感と尊重」が、一人一人のビジョンと人間同士の関係性を守るアイテムにもなると思う。 という感じです。
歴史教育とかももちろん大事だけど、学んだことが結局自分の生活にどう関わるのか、周りの人とのかかわりの中でそれをどう生かすのかってとこまで落とし込めないと、継続的なアクションにはつながりにくい気がします。
昨日もPN!で班員とつながってるグループライン動かしたけど、1年経つと勢いってもうなくて、反応も結構薄いんですよね(半年前班員が動かしてくれた時もスタンプだけの人が多かったりした、私はだいたいそういうときしゃべりすぎてしまう)。
「企画みたいな(ある意味わかりやすい)アクション」って単発になりがちだし、土台のないところにそういうのを作り出すのはすごい難しいから何もできてない、みたいなのもあるんじゃないかと思います(むしろめんどくさくて反応してないのならもうそれはそれでいい)。
企画のバリエーションを広げていくことも大事だし、もっと自分のリアルな生き方とか生活に平和学習が近づいていったら、もっと全体的に身近になるのかな、と。
極論言うとPN!に行ってこの1年何も企画らしい企画してません、自分でも戦争とか原爆とかに関する事柄一切調べたり考えたりしてません、とかでも全然いいんじゃないかなと思うんです。
でも、自分の人生を楽しめたり、周りの人といろんな関係を築いたり、その中であなたの根っこに「平和」はありますか?っていうのがむしろ気になる。今GI系に全然関われてないので超超想像でしゃべってますが。
どこに所属してるか・その範囲の中でどういう活動をするかっていうのも大事だけど、ざっくり言うと「人としての生き方」という観点から平和について考えるようになった、ここ1年の進捗まとめでした。こんな雑多な書き殴りを読んでくれてありがとうございます。
あとがき
この文章は自分が書きたくて書いてる自己満足の塊なので、みんなにアクションを求めるつもりで書いてません。読んでくれてる人の今日がその人にとっていいものであってほしいし、明日も元気でいてほしい、ありのままでよりよく生きていってほしいです、それが一番です。でも感想とか聞けるともっと嬉しいです。
就活の下調べみたいなのする中で福祉とかジェンダーとか社会保障とかいろんなことがつながって思えてきてTwitter見るのも本読むのも授業も楽しいし、これが将来何になるんかみたいなこと毎日やってる気がするけど楽しいしいいかなっていう感じで毎日過ごしてる私がお送りしました。
ちなみに写真は、去年の8/7にフィールドワークで広島大学旧理学部1号館を訪れたときのものです(顔は載ってないんだけどもし何かしら問題あったら差し替えます)。なつかしい、またひとりでもだれかとでも行きたい。
それでは、また。