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突然の別れ~哀悼の意~

休日の朝、突然訃報が飛び込んできた。

人生において影響を受けた人を挙げるとしたら、その一人に彼を挙げるだろう。

大学の恩師を通じて知り合った彼は、タイの少数民族出身だった。
「勉強したいならいつでも僕のところに来なさい」と気軽に声を掛けたという恩師のもとに、時を経て前触れなく突然日本にやって来た。そんな彼の行動とともに、声を掛けたことすら忘れていた恩師が「誰?」と返す、ドラマチック且つ、超適当師弟エピソードは私たちの伝説だった。

日本で農業を学んだ後は、故郷に戻り村のために尽力していた。大きな計画のひとつに、いわゆるアグロフォレストリーの実現があった。聡明である傍ら、性格は穏やかで天然というか、やっぱり適当でどこか安心できる人だった。在学中は彼のアテンドで民族の村を訪れたし、彼が来日したときには集まりに参加させてもらったりしていた。

彼の周りにはいつもたくさん人が集まった。集まりの一員ではあったが、意志がある学生でもなく、その他大勢代表のような自分のことなど覚えていないだろうと当初は思っていた。

深く考えず面白そうだからと彼らの村を訪れた。今思えば勉強不足のうえ、大切な歴史や文化に土足で踏み込むただの輩だ。でも、彼は少しも偏見をもたず、温かくむしろ積極的に色々浅く甘い自分にかかわってくれた。

Satheesh SankaranによるPixabayからの画像

話の途中だったことがたくさんある。

最後に会ったころには、婚活に勤しんでいた。ようやくできた恋人に速攻振られたと言うので「どうした?」と聞いたら「他族とは難しいんだ」と言った。(お相手は他の少数民族出身者だった)

村の子供たちの教育について話した。例えば日本からの支援を受けるとしたら、一人に対し年間3万円ほど(当時の円)の支援があれば大学まで就学させられると言うので、だったら積極的にその支援を募って一人でも多く就学させるべきだと安易に意見したら「そうするの簡単だが、それは僕たちの願いとは違う」と言った。

歌とお酒が大好きだった。酔っぱらってはアコギを抱え、どこの何かも分からない曲を口ずさむのは良いが、壊滅的に音痴だった。なのになぜそんなに人前で歌い上げることができるのか、いつか聞いてやろうと思っていた。

村の代表格で彼の右腕のような人物がいた。あの人は元気かと尋ねたら「死んだ」と言った。「なんで!」と聞いたら「デング熱だ。仕方ない。」とドライに答えた。厳しい自然とともに生きる彼らの、自分たちとはかけ離れた死生観に言葉を失いそれ以上何も聞けなかった。

村を訪れたのはちょうど雨季だった。激しいスコールが過ぎた日の夜、寝ていたところをたたき起こされ外に来いと言われた。
不貞腐れブツブツ言いながら出ていくと、今まで(恐らくこれから先も)見たことのないような星空が眼下に広がっていた。ミーハーな日本人の学生なら、すぐに写真に収めたくなるシチュエーションにも聞こえるだろうが、そんな気になる人がいるのだろうか。呆気にとられるような、息を飲むとはこのときのためにある言葉なのではないかというような。それほどに美しい星空だった。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

いつでも話の続きはできると思っていた。だってまだ若いし元気だった。 

コロナ渦の村の様子は気になっていた。村には医者がいないし、物資が手に入る町に下りるには1日かかるような僻地だった。国からの支援なども当てにならず、村を封鎖するしかなかったと聞いた。100戸ほどの小さな村だ。「ひとたびウイルスが入ってしまうと村はなくなってしまう(全員死んでしまう)」と緊迫した様子だったという。

村の代表者だった彼は、そんな過酷な数年を闘っていたのだろうと想像する。

思えば、彼はひたすらに村の未来を夢見ていた。個人的な幸せより村の将来が大切だった。そのために全てを犠牲にしていたというよりは、それありきというか、心から望んでナチュラルにその覚悟を持っていた。

度々会ったり話したりする訳でもない関係性の中で、自分の中のどこかに彼の存在があったのは、迷いのないそんな生き方に憧れていたからだろうと思う。日常の中で「なんだかな…」という思いに打ち当たるたび、ある意味恵まれて暮らしていても空っぽに生きていることに気づかされる存在だった。

自然との共生を望み一切ブレなかった彼らの試みは30年に及んだ。それによる物質的な大きな変化は一見分からない。でも村の人たちや子供たちの笑顔は健在だし、何もかもが違う日本で暮らす私たちの心も動かす何かが間違いなくそこには存在する。

理想を追い求めることは困難を極めるものだ。彼の思う計画はほんの僅かしか進まなかったかのもしれない。でも、彼らの文化を守ることを絶対前提に進んだその試みは、村人の誰一人置き去りにしなかった。

志し半ばで旅立たなければならなかったことをどう思っているのか。色々考えるとやっぱり苦しくなる。

でも、彼の人生が果てしなく続く澄み渡る青空のように、どこまでも真っ直ぐで甚深で愛に溢れたとても美しいものだったことだけは断言できる。

最後に何を話したんだっけ。もう一度会ってちゃんとお礼を言いたかった。

大切な出会いを追いやり、忙しいと乏しい日常にかまけていたことを後悔する以外に今はない。

 森で育ったコーヒーは本当に美味しかった。
民族の子供たちが愛読していた日本の絵本。
「汚れてるなぁ」と汚れを払ったことは覚えているが、
写真に収めていたことは忘れていた。
(菊田まり子.いつでも会える.学研プラス.1998)
一旦色んな荷物を下ろして、気楽に村のどこかで
子供たちや皆のことを見守っているような気がする。
恩師に彼はどんな教え子だったのか?と尋ねたら
「あほです」と答えたことを思い出し涙を堪えた。

เราโอบกอดคุณไว้ในใจของเรา และคุณจะยังคงอยู่ตรงนั้น
We hold you close within our hearts and there you will remain.


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