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2023年が嫌いだった

2023年が嫌いだった。
それはもう、骨の髄から。

radwimpsの「tamaki」の「あなたが嫌いだった」は色んな深い意味が込められた「あなたが嫌いだった」だけれど、私の「mikan」の「あなたが嫌いだった」は正真正銘の不快の意味が込められた「あなたが嫌いだった」です。

助産師2年目という生き物は実に憐れな存在でありまして「人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ」というモロの言葉が身と心に染みる。

「熟練にもなれず、新人にも戻れない」
つまるところ、私はサンだった。

では、私のアシタカはどこにいるのか。
このまま助産師3年目に突入していいのか。
2024年、その船に乗っていいのか。
それはタイタニック号ではないのか。

私が求めているのは、安心保障・送料無料・アシタカなのだけれど。甘ったれたことを言うなとモロの叱咤が聞こえる。お願いだから優しくして欲しい。「そなたは美しい」と誰かに言って欲しい。だがしかし、何も聞こえぬ。そんなのおかしいじゃないか。

2023年の何がそんなに嫌いだったんですかと聞かれれば、私は首を傾げてしばらく考え込む。掴んだと思ったら全く掴んでいなかった、そんな感情。在ると思っていたのに、まるで存在していなかったような、そんな感情。

しゃぼん玉に触れたらしゃぼん玉は弾けて消えると初めて知った時の指先のような。

月は自ら光っているのではなくて、太陽の光によって光っていると初めて記した時の理科室のノートのような。

11歳の誕生日、手紙は届かず、自分はマグルであることを思い知った時の冷たいポストのような。

あるはずが、なかった。信じていた事実が、全くの思い込みだった。叶うと思っていたことが、まるで叶わなかった。そんな感情が何度も何度も波に揺られて押し寄せてくる。その中には「死」なんてものも混ざっていて、大切な命は宙へと浮かんでいく。手は届かない。動けなくなる。

湯気もくもくの湯舟で「これが試練というものかしら」と肩までちゃぷんと浸かりながら一人呟いてみたり、氷がからんと音を立てる麦茶の入ったコップをゆらゆら揺らしながら「助産師を辞めろってことかしら」と一人呟いてみたり、温かい布団の中で天井を見上げながら「生きるってしんどいわ」と一人枕を濡らしてみたり。

2022年よりも、2023年のほうがはるかにずっと暗くて寒かった。
助産師1年目よりも、助産師2年目のほうがずっと怖くて震えてた。
経験年数を重ねれば重ねるほど、生きやすくなるのだとばかり思っていたけれど、実際実態なんとも言えぬ。

9月にはツイートもしたくないと思うようになり、何を書いても無理をしている気配が止まらない。あんなに文章を書くことが好きだったのに、苦痛になって、殻に閉じこもりたい欲求が止まらない。

誰にも何も伝えたくなかった。
誰にも何も伝わらないだろうと思った。

12月に入ってクリスマスの気配が街を侵略し始めて、2023年が終わる気配が漂い始めた頃から、私の世界は安定し始めた。
「あいつ(2023年)がやっと終わる」
「もう絶対に顔を合わせたくない」
「そして絶対に許さない、何が何でもだ」と
私は拳を硬く握りしめる。
2024年に私は手を合わせて拝んでる。
「どうか、私にご慈悲を。願わくば、幸福を」

そんなこんなの相も変わらず、
缶詰のように甘ったれみかんです。
助産師を続けるかは相も変わらず迷ってます。
向いている気配は一向にしませんが、向いてるとか、向いてないとか、断言できるほどこの仕事のことも自分のことも分かっておりません。

助産師を辞めても後悔すると思うし、
続けても後悔すると思うのです。
なんのこっちゃ。どうしろと言うんだ。

他のことに挑戦してみたい気持ちもあるし、
助産師を続けたい気持ちもあるんです。
なんのこっちゃ。どうしろと言うんだ。

でもどうせ長く続く人生ならば、若いうちにしてみたいことを全部してみればいいじゃないと思ったりもするんです。

オトノナルホウへなんて歌もあるわけでありますから。心の音が鳴る方へ視線を向けて歩いたっていいんじゃないかと思うわけです。

でも変化って怖いでしょう。
現状維持ってなんだか安心するでしょう。
人間関係も変わらず、職場の暗黙のルールなんてものも大体分かって、何もかもが現状維持。
無難なんです。助産師を続けることは怖いけれど、一つのことを続けるって美徳とされる世の中で。助産師の仕事にやり甲斐や喜びを感じる日もあるわけで。

結局私は何をしたいのか、
何が何だか分かりません。
こんな自問自答をずっと続けてる。
いつ辞めてもおかしくないし、
いつまでも続けるような気もしてる。
恐ろしいです、己が。
怖いです、未来が。

でも、外れた路地裏のような小道を歩くことがどれほど楽しいかということも私は知ってる。晴れた日の野良猫と路地裏と風鈴の音はいつだって懐かしい夢が混ざってる。とめきくなら、高鳴るなら、大通りを抜けて路地裏へと歩いてしまえばいいと思ったりもする。答えは出てるのかもしれない。出てはいるけれど、行動に移せないだけなのかもしれない。名残惜しいのか。手放すことが口惜しいのか。

完璧に環状線です。
お手上げです。
降りる駅も、その先も、見当たらない。
でもきっと2024年に答えは出る。
どんな答えになっても、
どんな未来になっても、
どーんと構えて参ろうと思う。

兎にも角にも、2023年がもう少しで終わる。
その事実が今の私にとっては、
何よりも心地良くて嬉しいんだ。












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