偽五月病と休日
月曜日の朝、起きたら体が動かなかった。
「おっと、なんだこれは」と思った。
意識はある、手足も動かせる。
でも倦怠感がのんすとっぷ止まらない。
幸い、休日だったので午前中はまるまるベッドの上で過ごした。
目を閉じて重たさが空中へと消えてくれることを待つ。
ひたすら待つ。
12時を過ぎるころ、身体がふっと軽くなった。
今なら動ける気がする。
そう思ってゆっくり上半身を起こす。
いつもの自分の部屋だった。いつもの私だった。
というわけで、友達に電話をした。
「なんかね、体が動かなくてさ。疲れてるのかね」
「それは、あれじゃない、五月病じゃない?」
「五月病って連休後の体調不良のことでしょう?
私にGWは存在しておりません」
「んー、じゃあストレスだね」
「うん、ストレスだな」
ストレス。
便利だけど、不便な言葉。
次の休日の予定を頭の中で描いた。
完璧な休日にしてみせよう。
そしてこのストレス、駆逐してみせよう。
次の日も、その次の日も仕事には無事行けたので、
私はこの体調不良を偽五月病と名付けることにした。
そしてきたる休日、偽五月病の討伐を行う。
待ちに待った休日の朝、目が覚めたのは7時。
これじゃ仕事の日と何ら変わらないと思って二度寝を決意。
次に目が覚めたのは9時。まあ及第点かね。
洗濯機を回す。遅めの朝食、
もしくは早めの昼食とも呼べる食事を喉に通す。
洗濯機が鳴って、いそいそとベランダに干す。
5月下旬の空と気温と湿度は、どうしたって気分がいい。
洗濯物の香りと相まって気分の良さはシャボン玉の如く、ぷくぷく空高く浮かび上がるのです。
ミッションは2つ。
「休日の己にスコーンと映画を」
今日は私を幸せにするための一日だった。
うむ、任せろ。
私のPERFECT SATURDAYは始まっているのよ。
スキンケアとメイクを普段よりも丁寧に。
好きな色を纏った服に袖を通す。
イヤホンを耳に突っ込んでお気に入りの音楽を流す。
鞄に財布と日記帳とペンを入れる。
うむ、完璧。
まずはスコーンを探さねば。
幾つか候補のお店が思い浮かぶけれど、
映画館の近くにしようと考えてスタバに決める。
スタバは思いのほか、混んでいなくて安堵する。
3階に上がって着席。
スコーンを食す。うんまい。
1つ目のミッション、コンプリートです。
私は心の中で親指を高く突き上げる。
私が生きている理由はスコーンにも詰まっていた。
映画の上演時間まできっかり1時間。
鞄から日記帳とペンを取り出す。
日付を書いて、今日のスコーンをしたためる。
「今、スタバ。今週の目標が美味しいスコーンを食べることで、今その目標を果たした」
「店員さんに名前で呼ぶから、名前を教えてと言われた。スタバにそんなシステムがあったのね。そういう時って苗字なのか、名前なのか、どっちが正解なんだ」
こんなことがつらつら書いてある。職場の愚痴、現時点の私の感情と未来のこと、考えていることを書いていく。不思議なもので、この日記には私の感情が散らばっているのだけれど、それは生き物のように姿やカタチを変えるのです。だから読み返すと実に興味深い。数か月前の私は、今の私とは別人のようだったりする。ここ数年の私の悩みや葛藤はもっぱら仕事のこと、人生のこと。20代は沢山挑戦して失敗して恥をかくと決めているけれど、まあしっかり挑戦して失敗して恥もかいてる。「こんなはずじゃなかったんだけどね」と溜息をつく夜も少なくはないけれど、自分と対峙しようと思っている。己の感情の機微は見逃したくない。どれもこれも私が幸せに生きるためのヒントやきっかけが潜んでいるはず、そう思うようにしている。じゃなきゃ、こんな恥だらけの時間を送ることができるわけない。
日記に思う存分、自分の感情を記して私は満足して日記を閉じる。
伸びをすると肩から変な音が聞こえた。
時間を見るとそこそこ良い時間になっていた。
スタバの席も埋まってきたので、
外に出ると涼しい風が気持ちよかった。
日差しは果てなく柔らかい。
映画館に到着する。
私はここの映画館を心底気に入っているのです。
天井がとても高いこと、ふかふかの座席が私の身体に優しいところ、穏やかで落ち着く時間の流れはなんとなく図書館を思い出す。
チケットを発券して、飲み物と共に私は座席に深々と座る。
ずっと楽しみにしていた映画の上演を待つ時間は「この世で存在する幸せな待ち時間ランキング」の上位に位置することは間違いないと思う。予告編を見る時間も好き。まだ私が観たことのない映画は山ほど存在していて、一生をかけたって全てを観ることはきっとできなくて。それでも私は運良く巡り会えた映画を観続けていくのだろうと考えたりする。
「PERFECT DAYS」が始まる。
平山さんの生活をこっそり覗き見しているような映画っぽくない映画。平山さんはとても静かな人だけど、視線の先には子どもや老人、木々や風景など周囲をよく見ている人。一見寡黙な彼は、よく見ると、よく笑う。でも、彼はあの拭かれた子どもの手を見て何を思ったろう、彼女の視線に何を感じたんだろう、その言葉の温度に何を汲み取ったろう。完璧な日々は「全てが幸せ」というわけではないようだった。少なくとも彼は傷ついているであろう、怒っているであろう、戸惑っているであろう場面が幾つかあった。「満ち足りている感情」と「満ち足りていない感情」が何層も重なっていて、その双方があってこその完璧な日々という意味なのかしら。彼の最後の表情は、何層も重なった彼の感情を、日々を表しているのかしら。満ち足りた感情、満ち足りない感情、どちらかに偏った日々は完璧ではない。不安定さ、不完全さが織りなす日々こそ完璧なのだよと言ってくれているのなら、救いの映画だなあと思った。分からんけど。
映画を観終わった私は大変満足していた。
ミッションコンプリートです。
静かな音楽を聴きながら自宅に戻る。
映画を観終わった後の、映画の延長線上に自分の日々が存在するようなあの感覚が私はとても好き。映画の中に浸るのです。今日はひたひたになって過ごすのです。あとはシャワーを浴びて、夜ご飯を食べて、録画していたドラマを観て、小説を読んで、布団の中に潜り込んだら、私の完璧な休日は終わる。
少なくともその時の私は幸福の最中にいた。
きっと来週も傷つくこと、不快なこと、悲しいことは決して少なくはないのだろうけど。今日のような一日が存在するのなら、私のPERFECT DAYSはしっかり輝いてる。偽五月病の正体が一体何だったのかはよく分からんが、きっと何月であろうとあの感覚は時々私を襲ってくるのだろう。そして私はその度に自分をうんと甘やかそうと思う。お気に入りのものに囲まれていたら、あたたかい温度は戻ってくる。
朗らかに大きく手を振ろう。
偽五月病よ、しばしの別れ。
また会ってあげないこともない。
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