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187年前に死んだゲーテに会いにドイツに行ってきた②

前回:187年前に死んだゲーテに会いにドイツに行ってきた①

行程

前回は勢いで書いてしまったために、肝心の旅行の期間や訪問場所を総括するのを失念していた。整理する意味を含めて、書いておこうと思う。

日程は5泊7日で、フランクフルト→フルダ→アイゼナハ→エアフルト→ヴァイマール→ライプツィヒの5都市を順に回った。

上の地図を見てもらえばわかると思うが、ゲーテ街道はドイツを横断するような路になっている。たしか全長400kmくらいだったと思う。
日程に限りがあったため、立ち寄る場所は最小限に絞っているが、それでも一日に3都市動くこともあったためかなり弾丸であった。

フランクフルトはもちろんとして、ヴァイマール、ライプツィヒ辺りはよく聞く名前だと思うが、それ以外は馴染みのない都市だと思う。
それもそのはずで、これらはあまり観光地として発展しているわけではない。

今回の記事はフランクフルト(2泊)を発ってからのフルダ、アイゼナハ、エアフルトがメインになるため、マイナー都市紀行文としては多少面白みがあるかもしれない。

ちなみに、移動はすべて鉄道を使った。
ドイツには「ジャーマンレイルパス」という期間中乗り放題のチケットがあるため、それを使えば自由に往来ができるため大変便利である。
日本で言うところの新幹線にあたる高速鉄道で、ゲーテ街道の各都市を乗り換え無くバンバン回れる。
一人旅に優しい国である(EUの国はどこも大体こんな感じ)。

フルダ

フルダはゲーテが旅の途中でこの街に常宿をとっていたことで知られている。古くからの建築物が並び整然とした趣を漂わせながらも、生活感も垣間見えるこじんまりとした街である。

フランクフルトを朝早くに後にした私は、あまりにも早くフルダに着いてしまった。

日曜日だったためか、歩いている人もほとんどおらず、街は静寂に包まれていた。

しかし、さすがに歴史ある街だけあって、街並みを見ながら歩いているだけで澄んだ気持ちになる。

フルダには有名なスポットがいくつかあるが、その中でも私が見たかったのは「大聖堂」と「シュロスガルテン」だった。
上の写真は駅からそこに向かう途中、あまりにも空気が透き通っていて、思わずシャッターを切ってしまったときのものだ。

シュロスガルテン。
林の小道を真っ直ぐ抜けた先に現れる。
視界が開けた先に出迎えるそれは、開放的な心地を抱かせながら、整然とした美しさをもって屹立していた。
この庭では噴水の水ですら「歓喜の歌」のようだった。

大聖堂。
正式には聖ザルヴァートール聖堂(フルダ聖堂)と言うらしい。
写真では小さく見えるかもしれないが、実物はとてつもなく大きい。広場がそもそも広いので、相対的にそこまでではなく見えるかもしれない。
日曜ということをうっかり忘れて、教会に入ってしまったために白い目で見られてしまった。申し訳ない。
白を基調とした内部は外観の比にならないくらい美しかったのだが、写真が撮れなかったためどうしようもない。
私は教会が好きなので色々見てきたが、その中でもかなり印象に残っている教会だ。

街から一線を引きながら存在を示すこの教会は、一体どれだけの時間、この街の悲喜交々を見てきたのだろうか。
ベンチで鳩をぼんやり眺める私の前をミサに向かう人々が通り過ぎていく。
少女がふざけて聖書を振り回しながら、老女に連れられて教会に入っていく。
これがこの街の日曜日なのだ、と丸くなる気持ちをそっとしまった。

ホテル ゴルデナーカルプフェン(Goldener Karpfen)。
ゲーテがかつて宿をとっていた場所は現在もホテルとして変わらず旅人を迎え入れている。
質素ながらも草花を綺麗にあしらい、小洒落た外装をしたこのホテルの趣は、たしかに虚飾を嫌うゲーテが気に入りそうであった。
残念ながら、この宿に泊まることはスケジュールの都合上省いていた。時間があればレストランでランチだけでも、と思っていたが後ろが詰まってしまうため立ち去らざるを得なかった。

多くの人は大聖堂に気を引かれて立ち寄らないであろうが、隣接してミヒャエルス教会がある。
この教会はドイツで最も古い教会の一つであり、実に1200年前に建造された教会である。
私はこういう教会に立ち寄るとたまらなく嬉しくなる。
過去にイタリアのオルヴィエートという街に行った時にも、町外れの中世初期につくられた教会で同じ感動を覚えた。
絢爛な装飾は一切なく、ステンドグラスすらない。壁画も彫刻もなく、昼間でも薄暗い。そこは「単に」祈りの場である。
人間が人間であることを始めてから、最も敬虔である瞬間が繰り返された場だ。
そこには宗教が権威を得て、人々がそれを「生活」にする以前の原初的な信仰が息をしている。

アイゼナハ

フルダを昼前に出て、アイゼナハへと向かう。高速鉄道を使って1時間30分程度で駅に着いた。
落ち着いた街だ。フルダ以上に観光客のいなさそうなのんびりとした雰囲気である。

アイゼナハの街並みは、整然としたフルダとは少し違い、色彩豊かでかわいらしい。歴史を感じつつも、それが厳か過ぎない。時間の流れがゆっくりに感じる。

アイゼナハに着き、ホテルのチェックインを済ませ、荷物を軽くして早々に出かける。
目的はヴァルトブルク城の見学である。

ヴァルトブルク城は1067年に築城され、その後増改築が繰り返され今の形になったそうだ。
ドイツの城というとノイシュヴァンシュタイン城が有名だが、あちらは気狂いのつくった悪趣味な城で、歴史的な蓄積はないに等しい。
一方、ヴァルトブルク城には、絢爛さや華やかさこそないものの、かつての宮廷歌人の歌合戦の舞台であったり(ヴァーグナー『タンホイザー』の舞台でもある)、19世紀にはブルシェンシャフトの民主運動の集会場所となっていたりとドイツの歴史を文字通り「見守ってきた」場所である。

ヴァルトブルク城に向かう途中の山道。この古城はテューリンゲンの豊かな森林を見下ろす形で建っているため道中も自然に癒やされながら進むことができる。

ヴァルトブルク城は森林を登りきったところで唐突に姿を表す。
歴史の重みを一身に受けているかのような質実剛健なその外観に思わず見とれてしまった。
「節制」という言葉がこれほど似合う城もあるまい。

城の内部。飾り立てのない装飾が心を落ち着かせてくれる。

フルダで長居できなかったのも、アイゼナハのホテルから早々にでかけたのも、理由がある。それはヴァルトブルク城の建造物内にはガイドツアーでしか入場できず、かつそれが16時の回で終了してしまうからだ。
ヴァルトブルク城は郊外にあり、バスも驚くほど本数が少ない。汗をかきながら走り、ぎりぎり最後のツアーに間に合ったときは心から安堵した。
しかしながら、ガイドはドイツ語である。周りには日本人はおろか、アジア人すらひとりもいない。若干の心細さを感じつつも、手渡された日本語のパンフレットを見ながら様々な部屋を見て回る。ガイドはずっと喋っていたが何を言っているのかは微塵もわからなかった。
写真は「祝宴の間」である。前述したブルシェンシャフトの集会が行われたのもこの部屋らしい。左側に写っている「黒・赤・金」の旗は、後に国旗に引き継がれるブルシェンシャフトのものらしい。かつての歴史とのつながりを思い起こさせる。

何といってもヴァルトブルク城を語るに当たり避けて通れないのが、マルティン・ルターだ。彼は贖宥状の発行で短期的利益を稼ごうとする教会権力に断固反対し、ローマ教皇から破門にされる。国外追放となった彼はこの城に身を隠し、聖書のドイツ語訳という歴史的偉業を完遂した。
写真は実際に彼がドイツ語訳の作業を行っていた部屋である。あまりに質素で環境の悪いこの部屋で、それでも自身の使命に身を捧げた彼の執念がまざまざと見えるようである。
ちなみに、聖書の翻訳をしている際に、悪魔にそそのかされたルターが、インク瓶を投げつけたためにできたという染みは今でも残っている(写真下)。

世界史やキリスト教の歴史に馴染みがない人には、聖書のドイツ語訳がどれだけ意義のあることかあまりイメージできないかもしれない。
当時は、聖書はラテン語か古代ギリシア語で書かれているものしかなく、それらの言語を学ぶことができるもの=聖職者や貴族のような上層階級の人間にしか読むことができなかった。これは恐ろしいことである。
自らの信仰の根拠になっている原典を、実際のところ庶民は全く知り得なかったのだ。為政者や権力者が勝手な解釈を振り回しても気付くことすらできなかったのである。
ルターは、それはおかしい、キリスト教は民衆のためのものであるから開かれていなければならない、と考えた。
これには、もう一つの重要なポイントがある。当時はまだドイツ語という言語自体がきちんと定まっていなかったのである。あくまで民衆言語の域を出ず、正式文書には使用されてすらおらず、正書法は地域によってバラバラだった。
その状況下でルターは聖書をドイツ語に訳すという苦難を敢行した。
結果は歴史で示されているとおりだが、聖書の翻訳というだけにとどまらず、彼の仕事によってドイツ語の国語としての道が拓かれたことも忘れてはならない。以後数百年に渡り、彼の定式化したドイツ語は常に聖書とともに範とされることになったのだ。
有名な話ではあるが、後にドイツ語の発展の精神はロマン派文学者グリムに引き継がれ、彼が編纂したドイツ語辞典においては、ドイツ語の模範としてゲーテの引用が多用されている。
ゲーテは、ヴァイマール宰相時代からアイゼナハに多く訪れ、ヴァルトブルク城には決まって立ち寄っていたという。そして当時荒廃していたこの城を改修するように命じたという逸話も残っている。
ルターからゲーテに至るまでのドイツの「ことば」の歴史が、この城を共通項としてつながっていると思うと感慨深いものがある。

まさに、この城の体現するところのものは「ドイツ」そのものと言っても過言ではなかろう。

歴史のうんちくも良いが、それ以上にヴァルトブルク城の眼下に広がるテューリンゲンの雄大な森林は語るまでもなく美しい。遮るものがないゆえに、風が自然に吹き抜けていく。月並みな感想だが、来てよかったと思った。
今の私の心を誰も知りようもなく知ることもないだろうが、だからこそ私は自由だった。これ以上の幸福はない。しばらく忘れていたことだった。


宿は Hotel Kaiserhofにとった。1897年に建造ということで100年以上の歴史のあるホテルである。建物自体は古いのだが、それを全く感じさせない清廉さがある。ホテルスタッフのすみずみまで行き届いた管理によるものだろう。そして、その営みが建造以来、連綿と続いてきたからこそのものなのであろうことを思うと、質素な一人部屋にも染み渡る歴史の匂いがした。

エアフルト

翌日、ホテルで朝食を済ませ、早々にチェックアウトしアイゼナハを去る。
行き先はエアフルトである。
この街は、ゲーテが「テューリンゲンのローマ」と称したほど、街並みが美しいと言われている。
そのことは、到着してすぐにわかった。フルダやアイゼナハももちろんよかったが、地方の小都市といった具合で人口も少なくこじんまりとした雰囲気であった。
エアフルトは異なり、駅は広く人通りも多い。路面電車やバスが駅前を絶えず闊歩しており街には活気がある。
街並みは洗練されており、歩いた印象はプラハに近かった(プラハほどの大都市ではないが)。テューリンゲン地方の首都を担っていることもうなずける。

有名なスポットのクレーマー橋である。
外観だと分かりづらいが、橋の上に商店が無理くり並んでいる。
フィレンツェにはこれよりもっと立派で観光名所となっている商業橋があるが、歴史的にはこちらのほうが古いらしい。
ここだけぎゅうぎゅう詰めのごった煮で、あまり洗練されていないのが面白かった。
木造りでかわいらしいので、観光としてくるにはよいだろう。

大聖堂である。圧巻だ。
エアフルトが都市として成立したのは8世紀からであり、大聖堂はその時期から姿を変えつつもずっと存在している。
ヨーロッパの都市というのは面白いもので、いつの時期に最も栄えた(変動があった)のかが街並みでわかってしまう。
例えばパリであれば今の形になったのはフランス革命期であるし、ローマであれば古代ローマ時代であるし、ロンドンは産業革命期である。見れば明らかにわかるのだ。
エアフルトからは、明らかに中世の時代を感じた。調べてみると実際にそうらしく、エアフルトは中世期にとりわけ交通や交易の中心地となっていたようだ。
大聖堂も同様で、中世に流行した建築様式が取られているし、近代に足をかけながらも(おそらく改修の影響)やはり装飾は少なく質素である。
プラハに似ていると述べたが、より近い都市は、以前にイタリアで立ち寄ったトーディという小都市であるように思えた。トーディも中世から歴史を持つ街であった。

前に書いたとおり、私は派手な装飾よりも、「インスタ映え」しない、大衆人からすれば「地味な」教会を愛してやまないので、大満足だった。中世の時代から生きているこの教会の雰囲気は、何故か心を落ち着かせてくれるのだ。

大聖堂の祭壇を前に、この街の1000年に想いをめぐらす。その長い時の流れに比べれば、私はあまりにも矮小な点に過ぎなかった。
点に過ぎないこの静寂を、噛み締めていたい欲望が私からしばし離れなかった。

大聖堂の丘から見た景色もよい。調和のとれた美しさだ。余談だが、エアフルトはその街の小ささとは不釣り合いなくらい教会が多い都市として知られている。80近くあるらしい。確かに歩いているだけで何度も教会に出くわした。教会好きとしては喜ばしい限りである。

歩いている途中で撮った名もない街並み。小川の音が心地よい。

マインツ選帝侯国総督邸(現テューリンゲン州首相官邸)だ。
ここはかつてゲーテがナポレオンに謁見した場所である。ナポレオンはゲーテの愛読者であったため、会えたことを喜び「ここに人あり」という有名な文句を残した。
中には入れないため、外観で当時を想像する他ない。
ゲーテは権力や名声の欲望とは生涯無縁であったため、賛辞は人並みに嬉しかったであろうが、類まれな感動を覚えたりはしなかったであろうと思う。
実際に彼がこのときのことに言及する文章はほとんどない。

ライプツィヒ

エアフルトの後に、実際の時間軸ではヴァイマールに行ったのだが、記事の構成の都合上、次回に回すこととする。
この日の道程は、アイゼナハ→エアフルト→ヴァイマール→ライプツィヒということである。
また、その翌日にもライプツィヒからヴァイマールにもう一度行ったため、ヴァイマールは2回訪れている。
その2回を次回の記事でまとめて書くことにしたい。
したがって、到着日と最終日のライプツィヒについて今回の記事で先に書いておく。

そもそも、なぜ2回に分けて訪問したのか疑問に思われるかもしれない。これはライプツィヒに宿をとったことに起因するが、ヴァイマールに宿泊できなかったのは事情があった。ヴァイマールには空港がないのである。旅行の日程が極めて絞られていることもあって、最終日にごたごたしないためにライプツィヒを起点にせざるをえなかったのだ。

エアフルトからヴァイマールに立ち寄り、その後ライプツィヒ中央駅についたときには既に薄暗くなっていた。
中央駅すぐ隣のホテルでチェックインを済ませる。
一日中動き回り、あまりにも疲れていたためベッドからしばらく動くことができなかった。実は前日くらいから体調もあまり良くなかったのだが、モンスターエナジー(欧州の規制なし版)をがぶ飲みして無理やり身体を動かしていたのも祟ったようだ。
本当は、「アウアーバッハスケラー」というレストランで夕食をしたかったが、身体が追いつきそうになかったのでカップヌードルだけ食べて就寝した。

翌日、ヴァイマールから戻り夕食のためにアウアーバッハスケラーを目指す(写真はさらに翌日の朝に撮ったもの)。
店を構えるパッサージュの入り口には写真のようにおしゃれな店の看板がでている。

アウアーバッハスケラーは、ライプツィヒで最もゲーテにゆかりのある場所である。ゲーテは学生時代にライプツィヒに住んでいた時期があり、その際にアウアーバッハスケラーをよく利用していたという。

その証左として、戯曲『ファウスト』第一部に「ライプツィヒのアウエルバハの酒場」というド直球の章がある。文字通り、アウアーバッハスケラーを舞台に一悶着起こるシーンである。
写真の「MEPHISTO」という通りの名前を示す看板は、『ファウスト』に登場する悪魔メフィストフェレスからもってきているのだろう。ゲーテとの繋がりをこういう細かい部分にも感じる。

店の前には、道をまたいで2つの像がある。前者はメフィストとファウスト、後者はファウスト一行が魔術で弄んだ学生達であろう。憤って今にも襲いかかりそうである。『ファウスト』のシーンがよく表現されている。

店内。趣のある内装である。メニュー表にまでファウスト一行がいるのには笑ってしまった。店内は活気があり、程よい騒がしさだ。皆、食事をしながら楽しそうに会話をしている。
ここだけの話だが、料理は正直全然美味しくなかった。体調が悪かったのもあるが、のこしてしまったほどだ(申し訳ない)。機会があれば、別記事でそのことについても書きたい。

翌日。最終日。
空港行きのタクシーが迎えに来るまでの間、時間があったため早起きをしてライプツィヒ観光をすることにした。

上の写真はトーマス教会である。バッハが30年間ここで合唱隊を指揮したという教会である。
この教会は天井が素敵だ。見上げていて飽きない。
ステンドグラスから差し込む朝日も格別である。ほのかな古木の匂いが香しい。

ニコライ教会である。
特徴的なのは、シュロの木をデザインに落とし込んだ柱と天井のつなぎである。これにより有機的な自然美が表現されているため教会としては異質な空間を生み出している。
また、なぜかはわからないが、写真のとおり内部がライトアップされていて、教会自体が一つの芸術作品のようになっていた。
突然に、オルガンの音色が鳴り響く。そのダイナミックな音楽はライトアップされた装飾と一体をなすかのように、調和を織りなしていた。
あまりにも非現実的で自分を忘れそうになるが、この美しさだけは本物だと、他ならぬ私がそう感じていた。

旅に出る

ゲーテをめぐる旅も終幕が近い。
といっても今回はゲーテについての言及はあまりしなかった。
それは単に今回登場する都市がゲーテとの関係性が比較的薄いこともあるが、意図的に抑えた部分もある。
次回のヴァイマールは逆に100%ゲーテになるだろうし、第一回以上にゲーテの人生や作品についても言及することになる。
そのことは端からわかっていたため、記事を明確にわけることにした。

また、今回紹介した都市は、ゲーテに無理やりこじつけないほうがかえってそれらの魅力が伝わるのではないか、とも考えた。実際に訪れてみて率直に感じたことでもある。

フランクフルト、ミュンヘン、ベルリンといった観光都市も良いが、それ以外にも、というよりそれ以外のほうが「ドイツらしさ」のような精神を感じられる場所は多いのではないだろうか。

旅好きなゲーテは、このような言葉を残している。

人が旅にでるのは、たどり着くためではなく、旅に出るというまさにそれ自体のためである。

よく自分探しの旅、といってフラフラとどこかにいなくなる人がいるが、ゲーテに言わせればそういったゴール地点を目指すのは旅ではない。
「旅に出る」ことを目的にして、旅に出るのだ。理由はいらない。
これは旅好きにはよくわかる感覚ではないだろうか。
あらかじめ何かしら目当てを持って行くことはあるにしても、実際に到着してからは観光名所や行こうと思っていた場所よりも、何気ない街並みや風景、現地の人との取るに足らない交わり、そういったもののほうが心に深く沈殿している。
そしていつからかそういった「旅それ自体」の醍醐味を楽しむようになる。

何よりも旅のそういった喜びは、自国で自分を束縛するコミュニティや仕事、人間関係といったしがらみの固結びを解きほぐしてくれる。
かつてゲーテが逃げるようにイタリアに旅に出たように、私も逃げるようにゲーテの影を追ってドイツまで来た。

しかしながら、純粋に旅それ自体を楽しむうちに私の中のたくさんの固結びが減っているのに気がついた。
ゲーテの旅ではなく、少しずつ自分の旅になっていた。
一人旅であったため、孤独ではあった。しかし、他人を寂しさから求めることは旅の最中にはまったくなかった。
私は必要のないものを社会にいるだけでたくさん背負わされている。それと同時に自ら必要のない重荷を作り出してもいる。

旅は自分から距離を置くことでもある。自分を置き去りにして遠目から見ると正面からは見えなかった色々がわかってくる。
自分にとって本当に大切なものはなにか、ノイズにかき乱されずに掬い出すことができる。

これはいわゆる逃避である。逃避は忌避されることも多いが、私は人間に絶対的に必要なものだと思う。

生きているならば、楽しくてなんぼだ。生きていることなんてそもそも苦しいことばかりなのだから、隙間に少しでも楽しいことがないなら死んだほうがマシだ。
そのためなら逃避だろうと何だろうとしたほうがいいに決まっている。だから私はこれからも旅に出るだろう。ただ、悦びのためだけに。

つづく

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