結婚した
やっぱり今日のことは書いておこうと思う。
結局、僕たちは結婚した。
大きなトランク2つとリュックとともに彼女が飛行機に乗ってきたのは、ヴェネツィアのバック・トゥ・ザ・フューチャーをモチーフにしたカクテルがあるバーで決まったことだった。
ディズニーシーが閉園する時と同じように、夜になるとヴェネツィアにいた人々は皆同じ方向へ歩き出す。僕たちはその流れから離れてバーに入り、窓際の席で横並びになってその人々の流れを見ていた。カクテルは頼むのが恥ずかしいようなロマンチックな名前のもので、ふざけたふりをしてそれを頼んだ。味は奇抜で、温かいアルコールで少しむせた。店内に客はいなくて、気さくな店員がカウンターで何かして物に対しても気さくに振る舞っていた。
後から知ったが、東京ディズニーシーはヴェネツィアをモデルに作られたそうだ。僕はヴェネツィアよりも先に東京ディズニーシーに行ってしまっていたから、ヴェネツィアに着いた時に、東京ディズニーシーみたいだなと思った。よく整理された交通網に可愛らしい街並み、適切なアトラクション、高価な飲食物。
僕は彼女に目を遣った。ただ日々を懸命に生きていた彼女も、ただ日々をやり過ごしていた僕も、特にこれからやることはなかった。僕はなんとなく大学を卒業する気でいて、そのためにあと二年くらいは京都にいるだろうと話した。彼女はもうすぐ今住んでいる家から引っ越さなければいけないと話した。だから僕は、じゃあ一緒に住もうか、VISAが必要なら結婚しようかと言った。けれど、僕は彼女が結婚というコンセプトを嫌っていて、したくないと言っていたのを覚えていた。やはり彼女は結婚はしたくないと言って、店員はまだ物に愛想を振り撒いていて、人々は同じ方へ歩いていた。どうして僕がそうしたかったのかは覚えていないが、僕は詭弁で彼女を説得した。結婚というコンセプトを嫌うなら、嫌っている時点で負けているんだ。本当に嫌いたいなら結婚を軽率にやってしまって、結婚を馬鹿にするべきなんだ。VISAのための結婚なら問題がないはずなんだ。僕は必死に論理っぽいだけの何かの枠組みに言葉を当てはめて話した。
「パリ、テキサス」という映画を見た時に初めて、片方が喋っている間、片方は黙っているんだと言うことに気がついた。
旅が終わり、僕は手続きのことを調べ、彼女は彼女の友達や家族を会いに巡って、彼女は飛行機に乗ってきた。数多の手続きをこなしてVISAを取得するためには時間の余裕がないことは知っていたので、僕たちはひたすら書類を作り、送り、待った。
そんな生活の中で、僕にはやり過ごすべきことがたくさんあったが、彼女にはするべきことは何一つなかった。僕には何となくこうなるんだろうなという自分の予想があったが、彼女にはなかった。彼女はここにいることを苦痛に思い始め、彼女はここに居続けることを望まなくなった。VISAが取れるまで彼女は就学も就労もできず、VISAが取れるまでの時間を耐えられそうになかった。VISAが取れても、彼女がやりたいことがここで見つかるかは分からなかった。彼女が居た場所でなら、彼女のやりたい方法でやりたいことができることを彼女は知っていた。彼女はただ僕と一緒にいるためだけにここに残るか、彼女の人生のために彼女の居た場所に帰るかを悩み始めた。
自分のことについて、書類に示すとき、今まで遠くに感じていた社会やシステムが急に目の前にいることに気づいた。
僕の職業は5(1,2,3,4のどれにも当てはまらない)だし、僕の本籍は僕の知らないところにある。たまに僕の知らない僕の居場所のことを考える。
僕たちは結論を持たないまま、手続きのタイムリミットが近づき、僕は彼女の居た場所に帰ることを勧めた。今ここに二人でいることが必ずしも僕たちにとっていいことでないと思った。だから僕は、それぞれのことをもう少ししてそれからまた二人で暮らせばいいと言って、彼女もそれで納得した。
結婚を目の前にすると、思っていたよりも自分が結婚を重く捉えていたことに気づいた。思っていたよりもプレッシャーがあった。もともと苦手な手続きなのに、普通よりも複雑なプロセスを経なければ完了できないし、ストレスでよく喧嘩した。喧嘩するたびに、性格が合わないねという話で仲直りをした。結婚をするには関係性も感情も足りていないような気がする。けれど、料理をしているときに二人が好きな音楽が流れて踊り出して玉ねぎを焦がしたり、花を買って帰ったら彼女も花を持って待っていたり、そういうことがあると一緒にいたいと思ってしまう。僕たちが今一緒にいるには結婚することしかなく、何者でもない僕たちには今しかなかった。
離れることを決めてからの時間は苦痛でしかなかった。ここで離れてから、僕たちが次いつまた同じ場所に居れるか何一つアイデアがなかった。何をしてもそれは次会うまでの貯金のためになってしまう。何をしても寂しくなるから僕は布団から出ず、その時彼女が何をしていたのかは知らない。僕がトイレに行こうとすると、彼女は僕に声をかけて、この先どうするかは全て後で決めればいいから結婚しようと言った。だからもう一度、結婚することにした。
時間はなかった。僕たちは結婚しようと叫びあって、息が切れたらすぐに婚姻届を印刷した。同じ住所の友達に証人欄を書いてもらって、初めて行く役所で届出を書いた。役所に置いてある記入例は僕たちの例えではないので、検索して不安なまま書き終えて何度も調べ直した他の書類とともに提出した。出したらすぐおめでとうと言われて終わりかと思っていたが、確認をすると言われて、結局3時間くらい待った。追加でいくつか聞き取りや記入があった。追記する際に、夫の情報だとわかるように夫と書いてくださいと言われて驚いた。僕はどこかのタイミングで「夫になるもの」から「夫」になり、ようやくおめでとうと言われて、ありがとうと言って、次の手続きのために必要な書類をもらった。
バスで行った道を歩いて帰って、彼女のことを「妻」とか「家内」とか「嫁」とか呼んで、どれも納得できないなって笑った。そういうコントをした。日陰がなくひたすら暑い鴨川を下って、花屋に寄って「入籍してきたので何か買おうと思って」と伝えると観葉植物を勧められたのでたくさんあるモンステラの一つを買って、たくさんの小さなバラをもらった。そういうコントをした。
昔、彼女のいる場所に飛行機に乗って会いに行った時に、僕はその場所で花束を買った。その場所の言葉で、花屋のおばさんとコミュニケーションを取ろうとして、何とか伝わって花束を買った。僕は花束を前に抱えて彼女を待ち、彼女はアルバイトから疲れ果てて帰ってきた。僕は花束を机の上に置いて、彼女をベッドに寝かせた。
その後、僕は歯医者の予約があるので行って、彼女は昼寝をした。僕が歯医者から帰って買い物に二人で行く間、彼女は昼寝の時に見た悪夢の話をしていた。これからもまだ必要だからと彼女は石鹸を買っていた。僕は歯医者で勧められた形のフロスを買った。
彼女はここにきてからずっと川に行きたいと言っていた。僕はなんとなくめんどくさがっていたが、ついにこの前、川に行った。電車を降りて30分ほど車道を歩き、それから30分くらい川沿いの山道を歩いた。川の流れが穏やかで、深すぎないところを探して少し泳いだ。川の水は冷たく、僕たちの泳力は川の流れと相殺され、浅瀬で休んでいると小魚の群れがやってきた。
夜ご飯に二人で何度か行ったレストランに行き、ハウスワインで乾杯した。いつも「乾杯」というのになぜか彼女は彼女の母語で乾杯と言って、僕は少し恥ずかしがって呼応した。寡黙な店主がドリンクを頼んだからとサービスで前菜を出してくれて、それがとてもおいしかった。
家に帰って、僕は溜まっていたやり過ごすべきことをこなし、彼女はたぶん本を読んでいた。彼女は薬を飲んで寝て、僕はやり過ごすべきことをこなした。
僕はまだ少し不安で、その不安は確かに結婚というものと自分の不釣り合わなさに由来するが、それよりも強く、この社会を目の前に感じたことによるものだと思っている。僕が思っているよりもこの社会はこの社会としてあり、成り立っていることに気づき、慄いている。
本当はこんなこと言うつもりじゃなかった。このシステムを助長したり、無意味なレースに展開を作ったりしたいわけではない。けれど、実際に僕は少し困っているし、少し喜んでいる。
僕も薬を飲んで眠る。
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