20230825
「もう一軒行くよ」と彼女は言うが、僕はすでに七五二〇円という僕にとってはあまりにも偉大な額を使ってしまっていたから「もう眠いかな」と言ってそこで別れた。
大学の夏季休暇に入り、地元へ帰ってきた僕は駅から出て急な階段を登ったところの神社でタバコを吸っていた。「タバコを吸う前にお参りをしましょう」という張り紙に言われるままに、5円のお賽銭を投じた後だった。タバコを吸っている間、手持ち無沙汰だったので神社から見下ろす駅前の写真をSNSに上げたところ、懐かしい名前から「帰ってきてるの、飲もうよ」と連絡がきた。
彼女にはそれなりの恩義と罪悪があって、久しぶりで急な誘いに身構えたものの承諾することにした。「今、私バーというかスナックの店長やってて、今日も出勤だからそこにきてよ」と言われた。なるほどとは思ったが、同時になんだか嬉しくなったので僕は日が回ってから彼女の働くバーというかスナックを訪れることにした。
そのスナックは幼い頃よく言った公園へ行く途中の飲み屋街にあった。「高架下にある雑居ビルの一階で、すき家の近くで、まあ、分からなければ電話して。もうお客さんいないから。」と言われていたため雑居ビルについたタイミングで彼女に電話をかけた。「入ってきて左側にあるよ。分からない?まあ、私がドア開ければいいんだけどね」と言って彼女は電話を切り、振り返るとドアを開けて彼女は手を振っていた。
「久しぶりだね。でもそんな感じしないね。これがメニューで、これ、余ってるからあげるよ。あ、トマト嫌い?トマト嫌いそうな顔してる。トマト嫌いそうな顔ってなんだよって感じか。これって失礼?」
「いや、トマトは好きだよ。それにトマトが嫌いな人の顔の感じもなんとなくわかるよ。」
「そう?飲み物はどうする?」
「ハートランドでお願いします。なんだか面白いね。」
「そうでしょ。ごめん、私も飲んでいい?喉乾いちゃって」
「いいよいいよ。」
彼女はハートランドを二本手早く栓を抜き、両手を添えて乾杯を求めてきた。僕もそれに倣って両手で乾杯をして、目を逸らしてそれぞれハートランドに口をつけた。その時は何を話せばいいんだろうと考えていたが、ハートランドをそっとカウンターに置くとそれからは彼女がひたすらに話をした。その話たちはどれも輪郭が取れてひどく丸くなったもので、空白を作らないための緩衝材に過ぎなかった。卒業してから一度も思い出したことのない名前を彼女は挙げて、僕は大袈裟にそれを懐かしがり、その後はリボ払いが怖いだの、実は宗教2世で虐待を受けていただの、聞いてもいない(聞いてもいないから?)話を彼女はし、僕はそれに短い相槌を挟むだけだった。たまに僕が長い相槌をするのは、店内で流れているYouTubeの再生が途切れているタイミングが僕に回ってきた時だった。
「私、この店出勤するの2回目で、なんか分からないけどこの店で働いてるとそんなに飲んでなくてもすぐ気持ち悪くなっちゃうの」
「本当に?僕もこれしか飲んでないのになんだか気分が悪くなってきた」
「なんでだろう。テレビが大きすぎる?」
彼女の働く店は4席しかない小さな店で、それには見合わない大きさのテレビが天井から下がっていた。有線の代わりに、そこからは絶え間なくYouTubeのMVが流れていて確かにこれは画面酔いかもなと思った。
「消してみてもいい?」
「うん、いいよ」
僕の不快感は会話の空白への恐怖よりも大きくなっていて、乾いた唾が口を満たすほどだった。テレビを消すと、彼女は締め作業をすると言い、洗い物を始めたので僕はその唾ごと余っていた酒を飲み干した。カウンターに項垂れて休んでいる僕の横で彼女は小銭を数えながら、「上の階で働いてる先輩の誕生日が今日あって、シャンパンを入れに行かなきゃいけないんだけどついてきてくれない?」と言った。僕はシャンパンが好きではなかったし、画面酔いで草臥れていたが、なぜだかそれを了承した。「そういう送り合いみたいなのが、この界隈では重要なんだよね」という彼女の言葉の現実味が好きだったからだと思う。
彼女がゴミを捨てている間、雑居ビルの階段の下にトイレがあったので、僕はそこでゲロを吐いて便座を拭き、口を濯いで手を洗った。ちょうど彼女が戻ってきたので一緒に階段を登り、彼女の後をついて、彼女がドアを開けると矢継ぎ早に「わー久しぶり!」「来てくれたの!」と聞こえた。それと、知らない曲の男性客二名のデュエットも聞こえた。そのお店は彼女が働く店よりは広く、席数も8くらいあった。なすがままに座らされ、とりあえずビールを頼んだ後は僕は気まずくてずっと腕を組んでいた。男性客二名のデュエットが終わると、彼らは握手し、それから僕たちは彼女の入れたシャンパンで乾杯をした。店主と常連客らしい一人と彼女は知り合いのようで、男性客二人と彼女は面識がないようだった。男性客二人と店主と常連客はお互い顔見知りのようだった。だから僕たちは最初、店主と僕と彼女の三人と常連客と男性客二人の三人で島を作ってそれぞれ会話をしていたが、だんだんそれが崩れていった。島が沈んだ後、僕はひたすら黙って愛想笑いだけを振りまいて様子を見ていた。誰にどんな温度感で話せばいいのか伺っていた。一方で彼女はすぐに男性客をいじり始め、常連客と結託したり、今度は男性客と常連客を小馬鹿にしたり、溶け込んでいた。僕はその場に存在するための必要最低限の相槌を入れるだけで、後はひたすらタバコを吸っていた。彼女は僕に気を遣ってくれて「私、シャンパン入れに来ただけだからもうそろ行こうか」と言ってくれて僕はそれに甘える形で店を出た。
「もう一軒行くよ」と言われた時、僕はまさかと思った。彼女はシャンパンで2万円近くお金を落としていたし、僕は七五二〇円も使っていた。だから僕は「もう眠いかな」と言って、すると彼女は「今度はちゃんと奢るよ」と言って、別れた。
同じ町で生まれ育った彼女と僕は、もうすでに離れた場所にいて僕にはそれが嬉しくもあったが切なくもあった。僕はその後、コンビニに寄って水を買い、坂を登って家まで帰った。
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