返送されたシーバス・リーガルと青色の石ころについて
タトゥー、喫煙、交通事故、自殺。例えば、僕が求めているのは不可逆性だった。なぜだろう?恋人に二十日で振られた。それでも、いや、そして、僕がこうして考えている間に僕のベッドで現在の恋人は昼寝をしている。そういえば洗濯槽洗浄を行なっていたのだった。洗濯機を見に行ってみると外まで泡が溢れている。洗剤の分量を間違えてしまったのだろう。元はと言えば洗濯槽用の洗剤ではなかったのだ。それでも泡を掬い上げ、床を水拭きしてしまうと後は洗濯機が泡を蓄えているだけになった。この泡も時間が経てば消えるだろう。大体のことは元に戻そうと思えば戻せてしまう。そして、僕はその前後に何があったか、洗濯槽から泡が溢れて床に溢れたこと、を忘れてしまう。あるいは、二十日で去った恋人のことを。二十日で僕を振った恋人と現在僕のベッドで昼寝している恋人(何か寝言を言ったようだが聞き取れなかった)をどちらも恋人として同一視するのは間違いだろうか?倫理的に言えば、多くの人はそれを間違いと呼ぶだろう。そして多くの人が間違いと呼ぶことを倫理的な間違いというのだろう。でも果たして僕にとってそれは間違いなのか?僕と恋人は何らかのきっかけで出会い、何らかの過程で親密になり、恋愛関係になる。映画を見て、キスをして、映画を見て、セックスをして、映画を見て、理由を教えずに去っていく。これの繰り返しに過ぎない。老犬が死んだ翌週に新しく子犬を買ってくる老夫婦と恋人と別れた翌月に新しい恋人と付き合う僕。僕にとって恋人とは箱であり、その中に何が入っているのかはさして問題ではない。ただ、名誉のために断っておくと僕も相手にとって同じように箱の中身として謙虚に振る舞うし、それなりにうまくやっているはずだ。そう、僕は僕を取り巻く状況であったり僕の所有するものは全てが代替可能的な存在で、それを失っても僕はいずれ元の人生に戻るのだと見做してしまっている。見做そうとしている。何より僕自身が代替可能的で周囲に可逆的にしか関わらないようにしている。(なぜ?傷つくのが怖いからだ。そしてその近道行動としてこのようなスタイルをとってしまうのだ。)そうして失ってしまったものは失ったものとして記憶に存在するが、いずれ記憶からも失われていき、多くのものを失った。失われていないものの中で僕は生きていく。失われていないものの中、日々の生活、昨日と同じベッド・天井・香水・恋人。それは昨日のリプレイのような毎日である。毎日コピーアンドペーストを繰り返しているから、最近はかなり画素の荒い一日を過ごしている気分だ。そんな繰り返しの螺旋階段を登って、僕はどこに向かっているのだろう?そもそも僕はその螺旋階段を登っているのか降っているのかさえ自信がない。
返送されたシーバス・リーガルと青色の石ころ。
親友と連絡がつかなくなって一年が経った。大学が同じだった彼は大学を卒業後、都内で働いていて同じく東京で働いていた僕との親交も続けられていた。やや暗い色である彼の職場は彼の性分と合わず、彼は程なくして沖縄へ移住した。理想的な反動だった。そこで彼は憧れだったシュノーケリングをし、家庭教師などのアルバイトで金を稼ぎ、穏やかに暮らしているのだと彼からの手紙に書いてあった。そうだ。彼からの手紙は僕への誕生日プレゼントであるチョコレートのリキュールに同封されていて、そのチョコレートのリキュールを僕は誕生日前日に自分で買っていたのだった。そうだ。チョコレートのリキュールだ。今度酒屋に行ったらあのチョコレートのリキュールを買おう。そうだ。彼の誕生日は僕よりも二ヶ月ほど前だから僕が彼にポム・ド・イヴを送り、そのお返しにチョコレートのリキュールをくれたのだ。そして、ふいに彼と連絡が取れなくなり、翌年に僕が送ったシーバス・リーガルは届かなかったのだ。後になって彼が死んだことを知った。シーバス・リーガル。まだ返送されたままの箱の中にある。
中学生の頃から大事にしている石ころがある。全体的には青色と呼んで良いのだが、細かく黒い粒々がちょうどうずらの卵のようにあり、形は歪だ。一度岩石に詳しい友達に見せたが、石の名前は分からなかった。ただの青い石ころなのだろう。それでも僕はその石ころに強い魅力を感じていた。そして、大切に持っている。確か、中学二年生の頃、中学受験の翌日に学校に行くと自分の机にその石ころが入っていた。受験生が忘れていったのだと思った。しかし、なぜ石ころを持ってきて・机の中に入れて・忘れていったのだろう?当時の僕にはうまく理解できなかったため、とりあえずそれを自分の制鞄にしまった。その大事な石ころは高校に進学して制鞄がリュックサックに代わっても、リュックサックの中に入れて持ち歩いていた。もしかしたら僕が石ころを持っていることに勘づいて持ち主が突然現れるかもしれないと思ったためだ。もちろん現れなかった。大学生になっても、社会人になっても僕はその石ころを持ち歩いた。そして、もしかしたら、と思うようになってきた。もしかしたら、この石の持ち主もそのように石を手にしたのではないか。つまり、小学校受験をしたその持ち主は小学何年生かの時に受験の翌日に自分の机にその石が入っているのを認め、自分が中学受験をするときにそれを手放したのではないだろうか。そしてそれを受け取った僕はその流れに気づかず、いつか愛着を持ち、ここまで持ってきてしまった。石ころ。まだ鞄の中にある。
彼が受け取るはずだったシーバス・リーガルと誰かに届くはずだった青色の石ころはまだ僕の元にある。いつかはシーバス・リーガルを飲み干し、青色の石ころをどこかの受験会場に置き忘れなければいけない。僕に分かることはそれは今ではないということだけだ。自分に有利に捉え過ぎてしまった。それは今はまだできないということだ。まだそれらを失う勇気はない。
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