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「大丈夫?」という言葉がけ。
もうずっと前から、この言葉をかける相手とタイミングには気をつけようと思ってきた。
シンプルだけど、こんなに責任重大な言葉を、(わたしも含めて)世間の人は皆、挨拶のように使っている。
「大丈夫?」と聞かれたら、何と答えるか。
十中八九の人が「大丈夫」と反射的に言葉を返してしまうのではないのかな。
本当はしんどくて助けてほしいのだとしても。
わたし自身、「大丈夫?」と口に出してしまうこともあるけれど、
本当はしんどくて助けてほしい気持ちを察して、もっと具体的な声をかけるようにしようと、日々心がけている。
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先日、日本で活動している社団法人のズーム会合があった。
そこでとても衝撃的な発言があった。
(いや、わたしにとって衝撃的だっただけで、もしかすると、彼の意見の方が一般的なのかもしれない。。。)
そもそも、その団体を立ち上げた時(正確に言うと、代表がその団体を立ち上げようとした時)、まず「助けて」の言葉を伝えたのはわたしだった。
もっと正確に言うと「助けて」の声をあげたのはわたしではなく、わたしの書いた書籍を舞台化してくれた団体だった。
そこからの「助けて」を、わたし一人ではどうしても消化できなくなって、代表に相談したのが始まりだった。
後日訴訟沙汰になった内容なので、ここで核心に触れることはできないけれど、簡単に言うと、詐欺事件と恐喝事件に及ぶ大問題だった。
そこで立ち上がってくれた代表と理事たちが、水面下でことを運んでくれた。
「大丈夫」じゃないからこそ、解決策を一緒に考えてくれた。
(事情を伝えられない状況のなか非難され、一方的に絶交状を突きつけてきた友人がいたのが非常に残念で、そのことはまたいつか詳しく書きます。)
話を戻すと、
ズーム会合で衝撃的だったのは「人間がする行動はすべて自分の責任であるから、どんな状況でも自分で責任を取るべき」という発言であった。
例えば、誰かが結婚相手とうまくいかないとしたら、そこは相手を選んだ自分の責任だと。
例えば、子供が引きこもりになったら、そういう教育と環境を与えた親とそこにマッチできなかった本人の責任だと。
となると、わたしがアメリカに移住したのは自分の意思、自分の責任。
その結果、障害を持った娘が生まれたのだから、そこは自分で何とかするべき。
誰かに「助けて」と言えないのは当然だと。
確かに、当時のわたしは、そう思っていた。
自分で選んだアメリカ生活で、障害を持った我が子が生まれたからといって、家族や親戚に「助けて」なんて言えなかった。
小さな鬱を繰り返しながら、ずっと手探りで、何年も何年も模索してきた。
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そして、今ではわかる。
わたしはあの時「大丈夫?」と聞かれたから、「大丈夫」と答えるしかなかったのだと。
「大丈夫」という言葉には、魔法と呪いが隠れている。
とても心配な時、不安な時、「あなたは絶対に大丈夫だよ」と言われたら、それが気休めでも、本当に大丈夫な気がしてしまう。
安心感をもらう、魔法の言葉になる。
でも、明らかに「大丈夫」という返事を予期しての「大丈夫?」の返事に、人は戸惑うのだ。
それを発した人に他意はないけれど、きっと当人自身が解決するだろうからという、単なる声がけ、社交辞令のようになってしまう。
当人は「大丈夫じゃない」なんて、とても言えなくなってしまう。
助けてと言ってはいけないという思い込みの呪い、これは深い。
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世の中に埋もれている声を拾い上げ、少しでもチカラになれたら良いと活動を進めている。
「助けて」と声をあげることができない人が、少しでも誰かに救いを求めようしている時、そのサインを見逃さないでいたい。
「大丈夫?」じゃなくて、「大丈夫だから、話してみてね」。
そんな風に声がけができるようになるだけで、世の中はもっと優しくなる。
「大丈夫」という言葉の魔法と呪い。
いつも、ちょっとだけ、心の片隅に。