村田森×村上隆の話@トノトが面白かった
10月20−21日、京都の トノトで開催された、村田森の2日間だけの展示販売と、トーク「2019年の整理整頓」。自分の備忘録として、お話を書き起こしておきます。(そのまんま引用はしないでね)
人気陶芸家だった村田さんは、思うところあってここ数年、これまでのギャラリーとの関係を断っていた。ギャラリーの注文品をつくることへの疑問だったという。悶々とする日々の中「発表する場も演出も自分で作るしかない」と場を準備し始めた。そんな矢先にガンが見つかり、この展覧会も開催を迷われたが、沈黙していた期間の悶々とした時間と汗を感じさせる、うず高いうつわの山は完売。トークショーでは、村田さんとの出会い以降、陶芸について考え商売にもしてみた村上隆さんが、いまこの「業界」に見えているものを話した。
村上さんからみた陶芸界は「ギャラリーがリスクを持たないひどい業界」で「作家は好きなことだけをやって、頭の中がお花畑みたいな人ばっかり」。たしかに、商売っ気がない、純粋である、我々と違う未来を見ている(ような)ところが、焼き菓子と一緒に器を並べてニコニコしてるクラフトフェア作家たちの魅力ではあった。
村上さんは、表現の世界は、若者のヒッピー的な「もやっとした」初期衝動に、大きな価値を置く、若さを求めている点ではアイドルビジネスと同じ、と言う。しかしキャリアを積んだ村田さんのような作家は「そこからアウトして」、世界に誇る懐石料理のための器で、世界の頂点に立つしかない。これが、世界の村上が日本のニッチな陶芸界に飛ばす檄だ。
日本の器は、世界のトップブランドになれるか
「作家性のあるうつわ」の量産とブランディングである。村田さんが脚光を浴び、そして沈黙したここ10年、うつわはブティックの隅に置かれるトレンド商材に昇格したが、陶芸作家をめぐる環境は変わっていない。「お花畑」を卒業する年齢になったら、サバイバルするためのビジネスに創造性を注がないと持続して行けない。ギャラリーも、購買層と作り手のモチベーションが変わってきたことを受けて、作家と一緒に、あらたな売る環境を模索していけば?と思うのだが、多くの作家やギャラリーにビジネスという発想が、どうやらあんまりいない。
陶芸作家にビジネスを考えさせない、お花畑の罠
陶芸畑が「お花畑」とはいわないが、聖域であることには違いない。日本文化、伝統、精神性、食とコミュニケーション、など、崇高な大義が、住人の自尊心をくすぐってくる。このトラップにかかるのは「お花畑なお年頃」の若者だけでない。「子供部屋おじさん」ならぬ、「ディープお花畑おじさん」が、桃山陶とか六古窯とか、炎と土のロマンとかいいながら、作務衣を着て独り言をいっていたりする。お花畑の住人たちは、ビジネスの話を蛇蝎のように嫌う。金が介入することで、そこがお花畑であることがあきらかになってしまうからだろう。ギャラリーはお花畑おじさんたちを褒めたりおだてたりして、そこから出すまいとしているようにも見える。陶芸ギャラリーの人から「やきもの屋の良心」「工芸家としての自覚」といった言葉を聞いたことがある。ディープお花畑用語であるが、内面化できるなら、さぞ気持ちのいい言葉だろう。
そんな陶芸界の居心地に違和感を感じてしまうのは、村田さんの繊細さだ。日本のやきもののスーパーブランドの創出は、個人的には楽しみだが、映画「アートのお値段」でみた、100億円の作品をニタニタしながら量産できる化け物アーティスト、ジェフ・クーンズと、シャイな村田さんは、あきらかに同じ生き物ではない。無理はしないでほしいとも思う。
村上さんは「もやっと」をアウトするしんどさを知っている
村上さんは、いま「いいですねー、もやっとしてる若い人は」と半ば突き放して言ってるようだが、本人も「中村と村上」時代には相当、もやっとしていた。1990年くらいだったか大阪のラブホテルの屋上で作品展示して、そこでおこなわれたトークショーでの村上さんの「何言ってるのかわからなさ」は、記憶に鮮やかだ。いまの村上さんがあるのは、自分にもあった「もやっと期」を完全に(根性&努力で)「アウトした」から。だから、もやっと感でもてはやされた生活工芸の人たちが、それを完全に脱することでなく、もやっとをそのまま価値や権威にスライドしようとする気配に、村上さんは敏感に反応するんだと思う。
以下、トークショウのことばの書き起こしです。
まずですね、僕は知らなかったんですが、うつわ業界というのは、どんなうつわ作家に対しても作品の価値というか、普遍性というか技術を頂点までもっていくこととか、そういったものに対して、非常に真摯に対応してる人たちだと思ってたんです。
なぜだかというと、彼ら(陶芸家たち)とお話ししていると、必ずギャラリーとかの不平不満が出てくるんですね。それだったら僕は、自分でギャラリーをやったらいいと。それをやる際に、頂点を目指すには、ものすごくお金がかかる。それには、制作から販売にいたるエコシステムを全て変えないといけない、と説明したんです。とくに、究極のブランドビジネスをやらないと。あなた方がやってるような、全員にいい顔をして「お前、儲かってるじゃないか」といわれるリスクがないような、、、僕はリスクを全て受けているんですけどね、、、ことでは頂点を目指せない、じゃあどうしましょうという話をしていて。だいたい、僕が今一緒にやってる作家さんは、陶芸家と陶芸出身で3人くらい。村田森さんと上田勇児と、大谷工作室。大谷工作室はもう現代アートの方にいってしまったけど。
(うつわ販売の)取り分が、陶芸家が6でギャラリーが4。ギャラリーはリスクをおかさず、陶芸家がリスクを持つわけです。しかしその売れ残った作品は送り返してきたりする。良心のあるギャラリーは、いくつか買ってくれることがあるけれど。リスクはアーティスト持ちで6:4である。しかもその支払いが時として、手形払いで半年後に手形が落ちないことがあったり、ということもある。これは村田さんから、会ったその日に聞いた。「それは、ひどい業界ですね」と。僕らの現代アートの業界もひどいけど、変わらないな、とか、そんな話をいたりしたんですけど。
僕も陶芸屋さんをやってみて、よーくわかったのは、得するのはお客さんだけだなと。陶芸家もお店も、あんまり得しない仕事でした。それで僕が2年目くらいに「こりゃダメだ」と思って。で、お店に陶芸家作品は出さず。僕のスタジオには、世界中から現代アートのお客さんがやってくる。ごちゃごちゃした倉庫があるんですが、そこに作品置いておくと、お金持ちっていうのは世界中にホテルとかレストランチェーンを展開している人とかがいるんですね。「それじゃあ、これ4000個みつくろってください」とか、「この作家、気に入ったから500個、300、3000個」とかお話ししてくれて、それをアーティストに注文したりして、販売していました。それでかなり元がとれるようになってきた。その時わかったんだけど、それに対応できないんですよ、陶芸家が。そのスケール感に。対応できないんです。そして、注文されたもの、同じものをつくるということに対するストレスが、ものすごく強い。
(ギャラリーに対して)文句言ってたんだけど、実はアーティストたちは、自分の好き勝手に作ることしかやってなかったので、やりたいことをやりたいときにやりたい数だけやるということしかやってなかったので、それで注文、、、その、、、たとえば、柳宗悦なんかの言うような「無名性」とかなんかみんな偉そうなこと言うんだけど。零細な陶器の工房の人たちは、ずっと同じことやってたわけです、でも、そんなことはできず。
ずっとみんな理想をいって、夢見てるだけで、頭がお花畑みたいな。だいたい、それが日本のクリエイターですよ。僕はオーダーをして、村田さんにストレスを与えてしまいましたよね、と言ったのは、いい意味でもあり、悪い意味でもある。僕的には、アーティストの責任じゃないかと思う部分が7割、8割だとおもうんですよ。でも僕は村田さんの実力を知らずに、そういう労働を課してしまったのは、悪かったと思うところはちょっとある。でも、頂点を目指すと言ったからには、目指すんだったら、その方法しかないだろうと思うんです。
ここでいう価値というのは何かというと、株と一緒です。日本人は株式市場とか、大っ嫌いですけどね。資本主義とかまったくわかってないのが日本人ですから。でもイギリスで生まれた資本主義が、ずっと世界を回しているわけです。そのときに株というのがあって証券市場があって。 株とはなにか。なんとかいう経済学者が、美人コンテスト投票?と一緒ですといってる。美人コンテストとはなにかというと、時代との添い寝であって、気分なんですね。だれが美人かなんて、時代的に変わるじゃないですか? 基本的な美人て、いるとおもいますよ。しかし、端正な顔立ち、ど派手な顔、目が大きいとか、それは時代によって変わるもので、誰にも決めることができない。時代のムードというのは株と一緒であって。芸術の価値というのも、ファッションのように、株と同じように時代のムードを反映すると、そういった形なんですよ。
僕が、非常に好んでかかわっていたのは、たぶん生活工芸といわれるジャンルだと思います。それはだいたい90年代バブル崩壊以降、そして、これ大事な話ですけど、つい先日、生活工芸は、僕、死んだと思います。完全に死んだと思います。殺した本人たちは、生活工芸の張本人です。怒られてもいいと思いますけど、菅野康晴さん、これは新潮社で生活工芸を牽引してきた「工芸青華」の編集長。その方と三谷龍二さん、生活工芸のリーダーです。この方たちが、松屋銀座?で「工芸批評」という展覧会をやりました。ここで終わりました。
なぜか? 時代のムードが、美人コンテストは、工芸の価値なり批評なりというものは求めていないんです。今一番「工芸的」なものを購入している人が求めているのは、完全に、新しいヒッピー系の、もやもやした、、、実は生活工芸がはじまったころのムードにそっくりなんだけど、、、三谷さんなりがやったこととそっくりなんだけど。三谷さんたちは、技術的にもコンテンツ的にも、時代の寵児になって、どんどん成長していったことによって、ほかの同時代のクリエイターたち、表現者たちとはちょっと違う風景がみえてきて、つまり、彼らの考える価値の頂点に駆け上がるための金も手に入れた、金がないと向かっていけないんですよ。成功を手に入れたことによって、挑戦ができるようになった。挑戦してみたら、違った風景が見えてきた。その違った風景が、じつは自分が見たかった風景なんだということを「工芸批評」として伝播し始めた。
そこに行くしかないのはわかりますよ。でも、それが、現代の美人コンテストの美人ではない。それが明確になってしまったのは2019年だと思う。今の美人は何だろうか? ほんとにグダグダで、、、。それで、武さん(トノト)がいいなって思うのが、武さんのお話とか、ぐにゃーとしてますよね。何を言ってるのか? でも若者は、ぼんやりしているうちに、ああだこうだと言いながら、見聞を広げて、本当の価値にたどり着く。それが、いまいちばん美人コンテストの株価が上がって行くエリアなんですよ。
武さんの「トノト」は、いまからリーダーシップをとって行くお店の一つだと思います。生活工芸の三谷さんの文章を読むと、常にアメリカ文化の話をするんですよね。常に自分の履いてきたジーンズの話をするんですよ。つまり、戦後の貧しさの中からアメリカにあこがれた、アメカジのようなものが、たまたま田舎暮らしにあった。あのころのヒッピー的な文脈だった。それが、そうではなくて日本固有の称えられるべき文化であると彼らが歌い上げて旗を降り出したとたんに、僕は求心力を失うと思うし、事実、僕は絶対、失ってゆくと思います。本当に時代は武さんのような若い方の、、。
ここでみなさん来ていただいている人、お客様、若い人たちと、そうでないひと半々ですが、ぼくら芸術芸能の世界はほとんどが、皆さん感じてないと思いますけど、実は美人コンテストとおなじく、若い人を欲しているだけなんです。だからアイドルビジネスと全く一緒なんですよ。なので、陶芸家が、若いうち、たとえば村田さんもイケメンでした。見目麗しい男ですよ。そういう男性、もしくは女性がつくっている。それは価値がありますよね。だんだんトウがたってきて、見栄えも良くなってくるし、つくるものにも飽きが来て、だんだんそれは低迷して行くのはきまってる。一所懸命価値だとか言ったところで、覆い隠せることはできない。
アイドルがデビューして、自分はどういうふうに芸能界で生き残って、女優として生き残るために、なにか手を変え品を変え、生き残っている術を作んないといけないです。それはぼくたちの陶芸やアート業界にはなかなかできない。なので、結構、苦しいところに来ているってことは、生活工芸やってる人自身が一番わかってるとおもう。そうではなくて、批評なんかをするんじゃなくて。もののいい悪い、うるさいことをいうのではなく。もやっとしている、もしくはフレッシュなものを輸入してきたりする、そういうものをうまくコーディネイトしたところが生き残る。
でも村田さんはそういったところとは違うんですよ。要するに、懐石料理を作る人の美意識というのは、いまだに魯山人の作品を買っているので、魯山人マーケットというのは、いまグイグイ上がってる。いまたぶんバブル経済前夜まであがってるとおもいます。料理人たちは、本当のうつわを欲しているんですよ。で、日本の最高の文化というのは何かというと、料理人なんですよね。料理を作ってる方たちが世界最高峰。この世界最高峰の芸術家たちが、器を欲しているんだが、それに対応するうつわ作家さんはあんまりいないんですよ。事実として。という話を、村田さんがしていたので、村田さんご自身、村田さんのお店で販売する人は、そういったプロの懐石料理や、今度、外国で日本料理屋さんを展開したいような人。本格的なお皿をやるには、どういった文脈のものをそろえていけばのがいいかという、そういう人に対応できる、そういう店をつくる、というのがゴールといいうから、僕は「儲かる」と思ってるんですよね。これから日本料理は世界にワーと広がってゆくから。僕的にはビジネスチャンスだとおもってる。もうひとつは、村田さんの、美人コンテストじゃない、ようするに名男優となるような本当の意味での芸術性をつきつめる方向性に賛同した。金にもなるし、チャレンジも面白いと思った。
だが、ここは、アジア圏の特徴なんですけど。僕アメリカで大成功して日本で大失敗してるんですけど。すごいんですよ、嫉妬が。儲かってるやつは悪ですから。別に、それでいいんですよ。しかし、芸術はですね、みんな琳派とか光悦とか、素晴らしいっていうじゃないですか? あれは、みんなお金持ちが投資してできた「雫一滴」ですからね。それがどうやってできてきたか? 金も必要、権威が必要だし、時間も必要。死屍累々という奴隷システムが必要なのが芸術なんです。それを無視して、上澄みだけでいいなら、安くてフレッシュで無責任なうつわを買っていけばいいし、それか、今からの新しいトレンドに、たぶん特化して行けばいい。それはしょうがないですよね。
僕や村田さんはそこからアウトして、本格的な女優業、俳優業のようなものを、日本でなく、世界に向かってアプローチするしかない。なぜなら日本人は飽きやすいし、お金が儲かってるというと嫉妬して潰そうとするし、いいことなんて何にもないですよ。
だが、ストレスが与えられてしまって、村田さんがガンになったのかもしれない。ま、そんな意味で、今回はフレッシュ極まりない画商さん、武さん、、、、さっき、新しいお庭のインスタグラム、すばらしいですね。どんどんやってほしいですね。若いって美しい、見てるだけでいいですね、一方で、年をとって、つきつめようとした途端、振り向きたくなくなるような現実がある。人生って次々トラブルがあっても人生にはいいわけにならない、価値を突き詰めるという信念を持って向かっていくしかない。お客さんには関係ない。それを突破して、なおかついいものを見せるには、環境を整えるしかないんじゃないか。ロートル軍団がいて、僕とか村田さんとかがいて、そんなものに全く関係なく、もわもわもわ〜として「いいねー」というひともいる。いろんな生き方がある。でもまあ、時代の移り変わりを、皆さん、絶対感じているわけじゃないですか。大変なものをつくれるかどうか、僕らの商売で。