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京都・美山の田歌舎で知った、「生きものを食べものへ変える」狩猟・屠畜の尊さ

美山にある田歌舎は、循環農法や狩猟で自給自足を営むコミュニティで、若い研修生がそこで働き、学んでいる。宿泊棟やレストラン、ジビエショップもある。一般の訪問者にもオープンだ。

ずっと取材したかったのだが、教祖みたいなナチュラリストか、スピの入ったヒッピーおじさんが出てきたらどうしよう、となんとなく敬遠して先延ばししていた。しかし、お会いすると代表の藤原誉さんは、そのどっちでもなく、言動濃いめのエネルギッシュ兄貴だった。

訪問した時、教育系の大学生たちと「いのちの授業」の研修として、鶏をつぶす実習をしていた。首を落とし、血を抜いて、湯につけて羽をむしる。鳥の死骸が、徐々に肉屋にある丸鶏になってゆくのだが、この時、誉さんが言った言葉が印象的だった。

「『クソとミソと一緒にするな』、という言い方あるやん? それと同じで、クソまみれで生きていたこの鶏が、いま処理されて料理の世界、ミソの世界に行くわけ。だからここから先は、この鶏は食べ物として、衛生に気をつけて扱わないといけない。地べたに置いたりは絶対にダメ」

これを聞いて、今まで狩猟や屠畜に感じていたモヤモヤ感がサッと晴れた。目から鱗とはこのことだ。

「生き物が食べ物になる」、なんとミラクルなプロセスだろう。
肉は、野生から台所へと、勝手にやってはこない。
私たちが口にしている肉は、サバンナでライオンが狩って食べているクソまみれの生き物とは違う。しかるべき処理を経て、ミソの世界=人間の料理の世界にもたらされた、清潔で栄養のある食べ物だ。

そこには、尊い命を、同じく尊い食べ物に変えるという奇跡のような仕事がある。そう気づいた時に、猟師や屠畜人が、全く違って見えてくる。

誉さんはミュージシャン志望だったと聞く。鶏を処理しながらきっと、「ミソとクソのブルース」が鳴り響いてるんじゃないだろうか。

いま流行りの「いのちの授業」は、どう教えられているのだろうか?
「かわいそうだけど、動物の犠牲によって私たちは生きています」という文脈で語られていたら、ちょっと残念だ。「いきもの」の命をいただいている、は間違いではないが、私たちが食べているのは、職人の仕事によって、いきものとは一線を画したものになった「食べもの」だ。

「クソからミソへ」のマジックと、人類の歴史の中で、屠畜の技術とそれを担ってきた人への共感が、「いのちの授業」にあったらいいなと思う。


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