大人になると心は死ぬのか
窓をあけて風を通して過ごす快適な季節は、近所の家の音もよく入る。
向かいのマンションの左斜下階あたりから、小学校高学年〜中学生くらいの女の子の声でなにかやわらかいもの(枕とかクッションとか)を殴りながら「死ねよ!死ね!死ね!」と物騒な声が周囲に響き渡る。
ボスボスとなにかを殴る音、物騒な叫び声のあと、うわーーーーーっと泣いている。室内に相手はいない模様。
学校でなにかあったのか、家庭内でなにかあったのか、それともSNSでなにかあったのか、理由はわからないけれど、うわーーーーっと泣いた数時間後、笑い声が響きわたった。
思春期っぽい喜怒哀楽の激しさがジョン・ヒューズ監督のブレックファスト・クラブみたいだなぁと思って外からの音を聞いていた。ブレックファスト・クラブに登場する生徒たちは皆、抱える問題や養育環境こそバラバラだが共通して持っている感覚があった。
親、あるいは教師など身近な大人を見ながら「あんな大人にはなりたくない」と思っているところ。
わたしにもそんな時期があったのかな。
死ね!と叫びながら、なにかを力任せに殴るような激しさ、あったかな。なかった気がするな。
アリソン(ブレックファスト・クラブの登場人物)の言う通り、大人たちは「心が死んでいる」ため、思い出せないのだろうか。
いやいや、登場人物たちと表現方法の違いこそあれ、わたしにもある。
個人に対して激しい怒りは感じなかったが、大きな塊(組織、学校、政府など)には不信と怒りがあった。納得のいく答えの返ってこないルールやダブルバインドに強い不満を感じていた。
わたしを傷つけようとした人に、傷ついた素振りなど見せてやるものかとふるまった。
小学生の頃、学校で担任の教師から毎日理不尽に殴られても、教室の中で屈辱的な言葉を投げつけられても、泣いたことがいちどもない。泣きそうになったことすらない。こんな下衆な人間の言動で、傷ついてやるものかと心のなかで必死に強がり嘲っていた。
激しい怒りの感情に蓋をしたわたしがそこで何をしたか。
学年主任である担任の虐待行為を告発する新聞を作り、校外で配布をした。泣きながら枕を殴りつける代わりに、わたしは無表情でペンをとった。
周囲の大人たちの反応はさまざまだった。
共感し称賛する人、陰ながら味方してくれる人、教師に逆らうなんてと眉をひそめる人、自分の子どもにあの子(わたし)とは遊んじゃいけませんという人。
暴力的な教師に対し、暴力を用いない方法での反撃を自分なりに考えて行動をおこしたのだが、いろんな反応があるもんだな、と思った。
10年以上前になるが、その元担任教師の名前を同級生からひさしぶりに聞いた。いじめ問題で、保護者への説明と異なる記載報告を出して新聞に載っていたのだとか。
そのニュースにはなんの意外性もなくて、「そうなんだ」としか言えなかった。
50半ばをすぎたわたしはブレックファスト・クラブの登場人物の生徒たちに自分の気持ちを代弁するような、感情移入してしまうようなキャラクターはやはり見当たらない。
共感できる登場人物は用務員カールになった。
ずいぶんと大人になったもんだなぁ。
用務員のカールがどんな人だったか知ってる?
校内が映し出されてゆくオープニングシーン。学校の外観、廊下、売店、ロッカー、ポイ捨てされたゴミ、トロフィー、落書き、そして“MAN OF THE YEAR”のプレートと共にかつて校内のスクールカーストでトップにいたであろう生徒の写真。その中心に写っているカール・リード。
用務員カールの若き日の姿である。
生徒たちの親でもなく、
バーノン先生でもなく、
カールに共感できる大人になったことを、じつはとても誇らしく感じている。
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