サイドナヤ刑務所から浮かび上がる人間の残虐性―小松由佳氏の記事を手がかりに
今朝、小松由佳さんの記事を読んだ。
人が人に対して、どうしてこうも残虐になれるのだ。
しかしこのようなことは、歴史を振り返ればどの時代にもどの国にもある。自虐史観だなんだ言っている人がいるが、日本にもある。そもそも公文書の証拠隠滅をはかる国はそれだけで信頼に値しない。
小松由佳さんの記事について感じたことに戻る。人が人に対して、どうしてこうも残虐になれるのだ。集団心理がこのような常軌を逸した残虐行為を可能にするのだろうか。
個人的な恨みによる復讐として拷問をしているのではない。思想の違い、政治思想の違いで逮捕されたごく普通の武器を持たない無辜の民が、独裁政権下で拷問に遭い命を落とした。
無秩序な環境では、人々が自らの行動を正当化するために「敵」に責任を押し付ける傾向がある。宗教や民族、思想の違いを理由に敵視し、虐殺を正当化する動きが生じる。
敵対意識が強まると、「相手を殺さなければ自分たちが殺される」という認識が生まれることがあり、それは国家対国家では戦争、国内であれば内戦、もっと小さな組織で言えばヤクザ(マフィア)間での抗争、地域のブロックなど。
戦争や混乱時には、個人が極度のストレスにさらされる。
その状態では冷静な判断力が失われ、暴力行為が発生しやすくなるのは理解できるが、なぜこのような目を覆いたくなるような拷問が日常的に行われることになるのか。
まず同調圧力
アメリカの社会心理学者ソロモン・アッシュの実験では他者の意見に引きずられて誤った答えを選ぶ人が多いことが示された。「みんながやっている」という理由で、残虐行為に加わることが正当化される。「みんながやっている」については日本人は特に注意が必要だ。
責任の分散
集団の中では、個人が責任を感じにくくなる傾向がある。自分一人が行ったことではないと感じることで、道徳的な葛藤が軽減される。これも「みんながやっている」に近い思考だ。
非人間化
対象を「敵」や「異質な存在」と見なすことで、相手を人間として認識しなくなる。ナチスドイツもそうだし、大きな主語(◯◯人は等)でジャッジをする人は戦時下でなくともいくらでもいる。戦争や内戦では敵対する集団を「害虫」「悪魔」と呼ぶプロパガンダが多用される。日本も言っていた。
鬼畜米英と。
戦争に反対をしていた人に対しては非国民と。
結果、被害者への共感や罪悪感が失われ、残虐行為がエスカレートする。
権威への服従
スタンリー・ミルグラムの実験では被験者の多くが権威者の指示に従って高い電流のショックを他者に与えた。拷問や暴力が「上からの指示」である場合、実行者はそれを正当化しやすくなる。
集団極性化
集団で議論することで、個人の意見がより過激になる傾向がある。暴力を容認する集団内では、暴力が「必要な行為」とされ、残虐な手段に走る動機が強化される。
感情の麻痺
繰り返し暴力行為に接することで、感情的な反応が薄れ、残虐行為が平常化する。初めは嫌悪感を抱いていた行動が、時間とともに「普通の行動」と認識されるようになってしまう。
報復と正当化
「自分たちが被害を受けた」という感情が、残虐行為を「正義」として認識させる。その結果、自分たちの行為を正当化し、加害行為が過激化する。
人類を諦めたくなる気持ちもわいてくるが、世の中には信じられないほど心優しい人たちもいるし、信じられないほど高潔な人たちもいる。
ではどうしたらよいのか。
すべては人間の弱さからくる不安と恐怖に基づくものだ。
教育の徹底
非人間化のプロセスや同調圧力への認識を高める。
道徳の授業で何を教えてるのだか子がいないので詳しくは知らないが、数年前わたしが見かけた日本の道徳の教科書には「”同じ”を見つけて喜ぶ」があった。
”違う”を見つけて理解する教育も入れねば片手落ちだ。
権威へのチェック
権力者が暴力を助長しない仕組みを作る。自らの罪や責任を逃れるための公文書、証拠隠滅が出来ない仕組み、しっかりと検証反省できる仕組みが必要。
責任の明確化
個人が自らの行動に責任を持つ文化を育む。被団協の方がノーベル平和賞受賞のインタビューで次世代に託したい未来を聞かれた際、
「自分で考える未来」
と答えていたが、さすがである。
世界はなだらかなグラデーションで出来上がっている。国境を境に人間が人間でなくなるわけではないし、国境を境に文化がまるまる変わるわけでもない。
人間の屠殺場と呼ばれるサイドナヤ刑務所。世界でどれだけの人がこの場所で起きたことを知るだろうか。とても重い内容の記事を読み、人間について、人類について、改めて考えてしまった。