正しさ
「性善説」という言葉がある。
人間の本性は善であり、可能性の塊である。だからこそ良いところを伸ばして立派になり、悪にならないように生きるというものである。
「性悪説」という言葉がある。
人間の本性は悪であり、怠惰な怠け者である。だからこそ悪いところを改善していけば立派になり、善になるように生きるというものである。
この2つの説、あなたはどっちを信じ、どちらを信じているだろうか?
私は性善説を唱えることが出来るほどに幸運に恵まれてなどいないし、立派な性格などしていない。
純粋無垢だと言われている子どもは小さな虫を踏み潰すだろう。
募金をするごく少数の人間はきっと承認欲求を持たずしていることはないだろう。
あなたにとって優しい人間はどこかで誰かの悪口を吐いているだろう。
私は個人が掲げる正義など一つも信じていない。何故ならそれは、正義とは個人で勝手に決めれるほど小さい物ではないからだ。
個人の掲げる正義などは周りが賛同しようと所詮、自身の行動を正当化する為の物にすぎない。
罪ある女に石を投げることが出来る罪のない者など誰もいなかった。
そんな話を殆どの人間が知っている。
だが、そんな話を知っていても人は石を投げたがる。己に恥ずべき所がないと思っている人間も、己の恥ずべきところを自覚している人間も全員石を投げたがる。罪のある者に石を投げたがる。
しかし、罪のある者に直接石を投げる人間は殆どいない。(石を投げ始める者がいない場合)
厳密に言えば、皆、罪のある者の顔写真が貼られた看板に石を投げる。
そうすれば、彼らは厳密には石を罪のある者に投げていないことになる。そうしていく内に看板は壊れ、また彼らは別の罪ある者を見つけ出して看板を建てる。そしてこれを繰り返す。
中には壊れた看板にしつこく石を投げる者もいるが、そんな人間も飽きて別の看板を見つけ、たまに壊れた看板に戻ってきては石を投げる。
この行動に意味もない。目的もない。底もない。
彼らはただ、気持ちよくなるために、賛同者を得るために、罪を見ないために石を投げる。
快楽に終わりはない。
そして罪のある者本人に石を投げた訳でもないので悪気も反省もない。仮に投げたとして彼らは正義の行いとして聞く耳を持たないだろう。
だから私は性善説を信じない。
心酔している者は正義だと思っていても、私にはそれが善性を持つ人間の行動とはとても思えない。
人間は結局、自身の都合の良いようにしか物事を考えず、生きる生物なのだと私は思う。
自身に都合の良い物は正義、自身にとって都合の悪い、またはどうでもいい物は悪として見ていると常々思っている。
では、正義とは何だろうか?
それを決めるのは、何処にもいない。
自然現象も、歴史も、全て正義だと、善とは言い切れない。
自然によっていくつ動植物が、平和になるまでも、なった後も、いくつの不必要な死が生まれたのか、それを考えてしまうと私は、正義の定義などとても決めることは出来ない。
強いて言えば、憲法や法律だろうか。
あれらもまた、人間が考えた物ではある。
だが、私はその書かれているルールには納得が出来る。それを当たり前として生きている。意識して破ることも、意識して守ることも考えたことがない。
あなたは性善説と性悪説、どちらを信じるだろうか?そしてあなたにとって正義とは何か?ぜひ今一度考えてみて欲しい。
それでは、ありがとうございました。