クリシュナマチャリア師のバイオグラフィーまとめ
※写真は現地でもポピュラーなHEM社のお香
1888年11月18日
南インドのカルナータカ州チトラドゥルガ県に位置するMuchukundapuraで、正統派アイエンガーの家に生まれた
両親はヴェーダの教師
クリシュナマチャリヤは6人の子供のうち長男で、2人の弟と3人の妹がいた
◆学生時代〜38歳まで
6歳のとき、ウパナヤナ(学生期に入る入門式)を受け、父親の厳しい指導のもとサンスクリット語の会話と書き方を学び、ヴェーディックチャンティングを始めた
クリシュナマチャリヤが10歳の頃、父親が亡くなった
12歳前後の頃、曽祖父がいるカルナータカ州最大の都市マイソールへ行き、マイソール大学で曽祖父から指導を受け学び続けた
1906年、18歳の頃、ウッタルプラデーシュ州バナーラスの大学に入学した
1914年、バナーラスから離れてQueens Collegeで多くの教員免許を取得し、Patna Universityでヴェーダ哲学のṣaḍdarśana(6学派)を学ぶ
奨学金を得てアーユルヴェーダを学ぶ
1919年、2ヶ月半の道のりを経てカイラス山の麓にあるSri Brahmachariの学校に到着した
Brahmachariの指導の下、7年半をかけてパタンジャリのヨガ経典を学び、アーサナやプラーナーヤーマを学び、ヨガセラピーを研究した
その後、バナーラスに戻った
ラジャスタン州ジャイプールのマハラジャに呼ばれVidyā Śālāの校長になったが、大人数に教えることを嫌い、すぐにバナーラスに戻った
1925年、Namagiriammaと結婚し、事情によりハサン地区のコーヒー農園で働くことになった
1926年、マイソールのマハラジャKrishna Raja Wadiyar4世(1884-1940)が母親の60歳の誕生日を祝うためにバナーラスを訪れた折、クリシュナマチャリヤのヨーガ療法士としての学識と技術についてを聞いた
マハラジャはクリシュナマチャリヤに会って、立ち振る舞いや信頼性や学識に感銘を受け、自分と家族に教えるように依頼した
◆マイソール時代
マイソール宮殿でヨーガを教えていたが、すぐにマハラジャの信頼できる助言者となり宮殿の知識人であるAsthana Vidwanの認定を受けた
1931年、マイソールのサンスクリット大学に招かれ教鞭をとることになった
ヨガが病気を治すのに役立ったと感じたマハラジャは、クリシュナマチャリヤに学校を開くよう依頼し、1933年8月11日に開校した
1940年、マハラジャKrishna Raja Wadiyar4世が死去した
彼の甥で後継者のJayachamarajendra Wadiyar(1919-1974)はヨガに興味がなく、書籍の出版や周辺地域への教師派遣の支援は行われなくなった
戦後の1946年、インドの独立と同時に新しい政府が誕生して、マハラジャの権限が縮小された
ヨガ学校への資金援助は打ち切られ、クリシュナマチャリヤは学校を維持するために奮闘した
60歳(1948年)になったクリシュナマチャリヤは、家族を養うために広範囲に旅をすることを余儀なくされた
マイソールのヨガシャラは、マイソール州の初代首席大臣であるK.C. Reddyによって閉鎖が命じられ、1950年に閉校となった
マイソールを離れた後、バンガロールに移り住んだ
◆チェンナイ時代
1952年に有名な弁護士が脳卒中の治療でクリシュナマチャリヤに助けを求め、マドラス(現在のチェンナイ)に招いた
また、ヴィヴェーカナンダ・カレッジの講師の仕事を引き受けた
さまざまな背景を持ち、さまざまな身体状況の生徒を教えるようになり、それぞれの生徒の能力に合わせて指導することが求められるようになった
◆ヨーガセラピーと個人に合わせたヨガ
クリシュナマチャリヤのもとを訪れた人は、食生活の改善、薬草の作成、ヨガの実践など、さまざまな角度からその人に合った指導を受けることができた
ヨガの実践を指導する際、呼吸法とヨガのポーズ、瞑想を組み合わせて、目的に到達することの重要性を強調した
クリシュナマチャリヤは、ヨガはインドから世界への最大の贈り物であると考えていた
彼の指導は、ヨガは精神的な実践であると同時に、肉体的な治癒の方法であるという彼の信念を反映していた
クリシュナマチャリヤはヴァイシュナヴィズムに深く傾倒していたが、生徒たちのさまざまな宗教的信念や不信仰も尊重した
クリシュナマチャリヤはすべての生徒を「絶対的に唯一無二な存在」として接し、ヨガを教える上で最も重要なことは「その時々の個人の能力に応じて教える」ことだと考えていた
ヨガの道は人によって意味が異なり、それぞれが明確に理解できる方法で教えられるべきである
多くの人がクリシュナマチャリヤをヨガのマスターとみなしていたが、クリシュナマチャリヤは自分を生徒と呼び続けた
なぜなら、自分は常にヨガの実践を「研究、探求、実験」していると感じていたからである
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