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60代の私のストーリー#3

ガラスの教会で結婚式を挙げ、1男1女に恵まれ憧れの西海岸に住み、フラワーアレンジやお料理のクラスに通い、広い一軒家を購入し庭でBBQパーティを開いたり・・・

ココまで書くとまるで絵に描いた様な生活で、何不自由ない幸せそのもののシンデレラストーリーっぽいのですが。

長男の反抗期が始まると、それがガラガラと音を立てて崩れていくのでした。

幼い頃は笑顔が可愛く、人見知りもせず明るい子だったのですが、小学校高学年の時に担任の先生から

「ADHDかもしれないから検査をした方がいい」

と言われ、確かに多動的なところはあったり、癇癪を起したりしていたので知り合いの神経内科のドクターに診て頂いたり、カウンセラーにお世話になったりしていました。

が、「ADHD」という診断にはならずボーダーライン、という結果。

この時の私はムスコがADHDと診断されてお薬を処方された方が楽!!と思っていました。兎に角学校の先生の話は聞かない、友達との良い関係も築きにくい。当然家での態度も悪くなってきます。

アメリカの学校と日本人学校と両方に通っていて、彼的にもストレスもあったのかもしれませんが、その時の私は子どもの全てを認め、見守るなんて女神の様な考えは出来ず、何故これが出来ないの!何故私のいう事を聞かないの!とコントロールしようとしている暴君の様な母だったかもしれません。

その頃Ottoは今まで勤めていた会社の部署そのものがなくなってしまい、新たな仕事を見つけなければならない状況に陥ったり、悪い方向へまっしぐらでした。

小学生の頃はまだちょっと態度が悪い・・・くらいでしたが中学になると登校拒否も始まり、家のドアを壊したり壁に穴をあけたり、まるで積木崩しの世界。

態度の悪いムスコに比べると5歳下のムスメは叱られるようなことはせず、Ottoはムスメを溺愛。

どれだけ溺愛かというと・・・

そんなムスメもいけないことはすることもあるわけです。それを私が叱ると「何そんなことで怒ってるんだ!!!」と私を責めるのです。え?悪い事をしていたから叱っていたのに?同じことをムスコがしたら激怒!するのに。

父親からの愛情が欲しい♡

そんなムスコの気持は私にもわかります。

「妹ばかり可愛がってる!!!」

と泣いて叫んでいたこともありました。


が!父親にはわからないまま。。。

そんなOttonと私も話したくない。用事はメールでやり取りだったり、机にメモを残して筆談だったりの時期もありました。

今では笑って

「筆談夫婦だったのよ~~~^^」と言えますが、あの当時はほんとに右も左も全て闇でした。ふたりの子どもなのに、ふたりで話し合ってどうにかしようという動きはなかったです。

不登校が続き、どうしていいかわからず学校の先生にも相談しました。アメリカの学校は小学校まで「担任」の先生がいますが、中学からは「担任」の先生はいないので、副校長先生と話し合います。

日本人としては先生が家まで来てくれたりしてサポートしてくれるのを望んでしまいますが、こちらはそういうサポートはないのです。学校に行かないからどうしたらいいでしょう、と相談しても

「とにかく学校に連れて来て下さい。そこで話します」

と言われるだけ。

だから~~~!!!

學校に行きたくないって言ってるし、昼夜逆転の生活になっているから困ってるの~~~!!!その子をどうやって学校に連れてくの???

え?そんな事を⁉️

日本人としては考えられない方法です。。。OMG!


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