もうこれ以上
ここ何週間かの世界のニュース(そして今日はとくに11年を数える3.11の記事)に泣いている。
かの国にはかの国の、言い分があることはわかっている。ここ最近の、世界からの追い詰められかたは過去の大戦のドイツや日本に重なって恐ろしいとも思う。
政治や策略の世界では、一体誰が正しいことを言っているのか、わたしにはわからない。
けれど、民間人、とくに子どもが砲弾に倒れる様を見て、ぐちゃぐちゃな気持ちになってしまう。
あなたの言い分を、聞く気持ちがなくなってしまう。
◇◇◇
※以下は不思議系の話なので、苦手な方はここでストップしてください。
◇◇◇
わたしはかつて、不思議な、けれど自分にとっては疑いようもなく真実であると、確信を持って言える体験をした。
(そのときの旅の記録は、こちらから読めます。しばらく放置しているサイトなので読みづらいかと思いますがご容赦ください)
いわゆる集合的無意識に触れたと思っている。
魂と体で理解したのだ。
バババババーッとイメージが浮かび、体を突き抜けるような感覚で「悟った」。
自分自身の存在は、縦軸(過去、そして未来へ続く命の連なり)のなか、そして横軸(現在を生きる全ての人々との横の連なり)のなかにあり、その縦横の連なりがカチッと合わさったところにあるのが自分の命であることを。
そして、過去と未来に存在したすべての女性たち、いま現在も存在する世界中すべての女性たちの「哀しみ」に触れた。涙が溢れて止まらず、これは自分だけの涙ではないと思ったのだ。
―悲しい。
深い深い深い哀しみが足元からやってきて、一瞬のうちに全身を浸す。まるでこの体のどこかにある感情の蓋が大きく開ききったかのようだ。わたしはもう動けない。
―悲しい・・・
―悲しい・・・
―悲しい・・・
―悲しい・・・
―悲しい・・・
―悲しい・・・
―悲しい・・・
この哀しみはいったい誰のものなのだろう?
―悲しい・・・
―悲しい・・・
―悲しい・・・
―悲しい・・・
―悲しい・・・
この涙はいったい誰のものなのだろう?
泣きながら、それでも頭の一部分が妙に冷静に動いていた。
この涙はわたしの涙じゃない。この涙は―。
深い哀しみと絶望の怒りが嵐のように体を突き抜ける。唐突にやってきた確信が胸をつく。
この涙は、すべての女性の涙だ。
ひとを愛したすべての女性の涙だ。
愛するひとを―恋人を、子どもを、大切なひとを、あらがえない力によって失いつづけてきたすべての女性の涙だ。
―どうして生んでは奪われないといけない?
男たちがもっともらしく語る抽象的で大きな何かより、いつもただ目の前の愛する存在を守りたかった女たち。
わたしたちはこれからもこれを続けなければいけないのだろうか?
―どうして?どうしてまだ苦しもうとするのですか?
わたしたちがもう背負ったのに―。
はっと振り返る。
洞窟のなかではミサが行われている。
マグダラのマリアはそこにいる。
(南仏を旅した記録より抜粋。)
これ以上、奪わないでほしい。
これ以上、誰も死んでほしくない。
そう思うことは、愚かなことなのだろうか。
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