不思議な手紙
友人のお母様が先日、九十歳で亡くなられた。
私は、そのお母様と面識はない。
しかし、亡くなられたあと、お母様が生前に残された俳句や短歌や詩やエッセイをまとめた冊子が送られてきた。
読み始めた私は、スグにその一面識もないお母様の文章の力に打ちのめされた。彼女は、作家でも俳人でもエッセイストでもなく、ただただ一人の女性である。
友人は笑った。
「母が亡くなり、遺影にする写真を選ぼうと実家に帰ったら、母の持ちもの何ひとつなかったわ。さすが、お母さん。お見事!九十年もの長い人生の荷物すべてを処分して、体ひとつで逝っちゃった」
北の大地に生まれ、北の大地でひっそりと、潔く人生を終えたその方がどのような気構えで日々を暮らし、どのような理想を追い求め生き抜いたのか……。
〈散骨は 深山に 雪の降る前に〉
覚悟のあった方なのだろう。
別に書かれた「秋冷」という題の詩の一説には、
〈生きることは現実 死ぬことは真実
秋冷の朝たたずめば 薄紅葉が片袖を濡らす
冷気は神楽を舞い 秋雨は横笛を吹く
秋冷は幻の一瞬 そして四角い紙風船〉
と、ある。
この詩を書かれたのは、八十三歳の秋である。
どれほどの覚悟を持って日々を生きてこられたことか、感じずにはいられない。
私なども、ぼやーっとではあるが「死」というものを自分の「生」の先に見るようになってきた。
恐いものではなく、悲しいものでもなく、私に与えられたこれこそ唯一の「真実」だ。
その「真実」に見守られながら、私たちは生きているのだと思うようになった。すると、とてもやすらかな気持ちになる。「死」は不思議な「真実」だ。
きっと、友人のお母様も私と同じようなことを感じていらしたのではないだろうか。
八十歳のときに書かれたエッセイ。
〈生死を分けた大手術が何度か続いた。病室で幻聴、幻覚を感じながら、指は動かせないため、頭の中で漢字を書いていた。漢字検定を受けるためである〉
驚いた! 私も人生の目標としてこのように有りたいと願ってはいるが、こちらは見事に実践中!である。
しかも、どうやら退院後に実際、漢字検定三級を受験し、不合格だった由。
〈それでもあきらめない。何とか元気にどうしても三級を。毎日少しずつ勉強している〉
と、締めくくっている。
又、二年後の八十二歳のときには、
〈何一つとして世の中に役に立つことなく生きてしまった。私なりにたくさんの夢もあったのに。取り柄のないこの身が、このままあの世とやらに行くのは何とも心残り。一つくらい世のため人のためにできることは無いものか。そうだ、点字を習おう。(中略)それでも私は何としても点字を習いたい。叶うだろうか、ささやかな夢。私は八十。〉
こんな瑞々しい、感性豊かな文章を綴っているのだ。
書くということは実に素晴らしい。
お顔すら知らない友人のお母様の文章が、未来の私からの手紙のように思えてきた。
神野美伽
2013年6月 MFC心の中の旅より