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死の床にある父の夢をみた

不吉なタイトル。私の夢の中の父は死を目前にしていた、という意味と、現実の父もすでに死の床についているのかもしれない、という両方の意味。

夢の中の父は、死が目前という設定で、泣いたり笑ったり怒ったりしていた。迫る死を受け入れようとしたり、嫌だと駄々をこねたり、自分の生き様を否定されて腹を立てたり。どれも見たことのある父の顔。この数年で、もともと涙もろかった父はさらに泣き上戸になった。それはもう人目を憚らず、感情が抑えられなくなってしまい、よよよと泣くらしい。私は母から話を聞くだけだけれど、その場にいた人は当惑してしまい、母はその場を回収するのに必死になると。この夏、父の入居している施設に家族全員を連れてお見舞いに行った時も、夫の顔を見てやっぱり泣きそうだった。「来てくれてありがとう」と。

夢の中の父は、最近は眠れなくて、考え事ばかりしている、と言っていた。本当はこんなこともしたかったんだ、と笑い泣きしながら話してくれたり。かと思えば、場面が一転して、何やら取り乱す父を、私はつい昨晩息子にしたように、抱き抱え、背中をさすりながら諭すように話をしたり。見事に現実が織り込まれている、にも関わらず、この情景の荒唐無稽さがいかにも私の夢。

そもそも、現実の父はもう話ができない。一日おきに見舞いに通っている母から、父とは簡単な会話にも小一時間もかかってしまうと聞く。発話が不明瞭で何を言っているのか全くわからないので、手の仕草でイエスとノーを示し、文単位の発話は文字盤をゆっくりゆっくり指差しながら行う。一文を作り、こちらから質問し直し、また一文……という作業をくり返す。事務連絡以外、会話のない日々を過ごしている父から発される言葉は、(母にとっては)突拍子もないことが多く、一文を聞いただけでは何を言いたいのかわからない。途方もない時間をかけて、やっと会話の意図がつかめるらしい。

父は、認知症などはほぼなく、顔面を含む全身の麻痺と嚥下の問題が一番大きかった。言葉が出ないので、何を考えているのかわからないけれど、頭ははっきりしているのだとしたら、何もすることもなくほぼ毎日寝たきりの状況で何を思うのだろう。色々な思いが頭を巡っても、それを口にすることも、書くこともできない。だれにも伝えられない。誤嚥の危険が高いため、水を口に含むことすらほぼなく、水分・栄養補給は鼻から通した管から行う。体も思うようには動かない。進行性核上性麻痺は目を開けていることも難しいらしいので、目もすぐに閉じてしまう。そんな状況を想像すると、ぞっとしてしまう。父は日々何を思っているのか。夢の中の父は、私が想像することを体現していた。駄々をこねる子どものような父は、私の勝手なイメージ。癇癪を起こす父は子どものときからの記憶に基づく。涙もろい父は最近の父。私が勝手に想像しているだけで、父の本当の思いはわからない。それを知るための術はすでに失われてしまった。現実とは正反対に、夢の中の父は饒舌だった。

父に残された時間がどのくらいあるのかわからない。余命宣告なるものもされていない。でも、経鼻栄養だけで人間はそう長くは生きられないらしい。遠く離れている自分にできることはあまりなく、父のケアを全面的に請け負ってくれている母を労り支える努力をするくらい。父はまだここにいるのに、もうすでに失われてしまったような気さえしてくる。面会に行ったとき、何かを訴えるようだった父の目。何が言いたかったのか。何か伝えたかったのか。自分の思うように動かなくなってしまった身体の中に父の魂が閉じ込められているよう。どんな思いでいるのだろう。

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