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院の御子 第一章 畿内編

一、父と子

 永万元年(1165年)、ある夏の夜――。激しい雷雨で、京(みやこ)の夜空は青く瞬いている。
 雷鳴の轟く中、泥をはね上げながら男は馬を走らせる。宮城の外、桂川のほとりで馬を降りると、激しい雨が叩きつける地面に抱えていた包みを置いて、太刀を抜いた。
 目が痛いほどの光を放って稲妻が空を走る。包みの中には赤子がいた。激しく泣く赤子の喉元に、男は切先を向ける。雨が、男の整った鼻先からいくつも落ちる。
 息は荒く、切先は彷徨う。何度も太刀を下ろそうと試みる。が、不意に力なく太刀を捨てると、男は苦しそうに唸り声をもらし、赤子を胸に抱きしめた。
 男の、女のように美しい顔が、苦悩に歪んだ。 
 


「御子(みこ)様! お部屋で暴れてはなりませんと、あれほど申し上げましたのに!」
 庭にはりだす釣殿のつやつやと磨かれた床の上に、童女と、その乳母子である十五歳の仲影(なかかげ)、八歳の當子(とうこ)は並んで畏まっていた。仁王立ちの乳母大和御前との間には、無残に割れた宋渡りの壷が転がっている。と、童女は、はっと首を伸ばし、中門の方を見た。
「父様(ととさま)だわ」
 その言葉に、仲影と當子も耳を澄ましたが、わからぬ風で顔を見合わせた。童女は裸足のまま庭に飛び降り、駆けてゆく。その背中を大和御前の声が虚しく追った。
「御子様! お庭は横切るものではございません!」
 中門の車寄せには、しつらえの華やかな牛車が停まっている。
「藤原 成親(なりちか)様、ようこそお越し下さりました」
 案内の女房がそういうと、牛車から降りた男は、優しい衣擦れの音をさせて女房に従って歩く。ふと足を止めて、庭に目をやるその顔は、日の光も嫉妬するほど美しい。
 九条院 呈子(しめこ)の邸は、元皇后だった人の住まいとは思えぬほど簡素で整然としていた。ひっそりとした小さめの築山に、その前を流れる鑓水の清らかさ。暑い夏の昼もとうに過ぎた頃合い。陽の光を鑓水が乱反射させる。そのすんなりとした細身の優しい佇まいの成親は、しばし感慨にふけっているようだった。出仕からの帰りらしく黒の衣冠に蘇芳(すおう)の指貫という姿で黒と赤の対照が際立って目を引く。
 成親は、我に返った様子でまた足を進めた。と、渡殿にさしかかったところで、
「わあ!」
 と元気のよい声とともに、目の前に童女が逆さまの顔を現した。渡殿の梁に足をかけてぶら下がっている。成親は一瞬、はっと肩を縮めた。が、次の瞬間には、童女に負けぬ悪童のような光を眼に宿して童女を逆さまのまま抱えた。童女は、きゃっきゃと小さく声を上げながら、成親の腕を使ってくるりと身を翻し、床に足をつくと、すぐさま成親の腰に抱きついた。成親は、腰を落として「よっ」と声をかけて抱え上げる。
「まあ、御子様、なんてはしたなきこと。成親様まで」
 振り返った女房の驚嘆をよそに、成親と童女は楽しそうに微笑みあう。
「父様、お久しゅうございます」
「しばらくお会いせぬうちに重うなりましたなぁ、御子様。おいくつになられまするか」
 御子、と呼ばれた童女は、幼い掌で成親の頬を撫でた。
「八つになります」
 成親はふふっと息を漏らして、薄化粧の、艶やかな美しさで微笑んだ。そして、御子を抱えたまま渡殿を歩き、廂を通る。女房たちが掲げる御簾の下をくぐって、九条院呈子の居室に入った。九条院は、薄紫の衣に尼頭巾をかぶっている。その頭巾に縁どられた四十半ばとは思えない童女のような優しく丸い頬で、感慨深そうに成親と御子を見た。
「母院様、父様が来てくださいました」
 御子は成親の腕から滑り降りると、九条院の前で行儀よく居住まいを正した。
「ようお越しくださいました」
 九条院は深々と頭を垂れる。膝の上の小粒の数珠が音を立てた。成親も礼を示した。
「御子様がもう八つにおなりとは、歳月の経つのは速うございますな」
「ええ。この頃は、小さいお手ながら琴(きん)も細やかに弾くようになりましたし、手習いなども覚えが早くて。御子、成親様にお見せしてはいかがですか」
 御子は少々恥ずかし気だが、女房が用意した文机と硯を前に、おずおずと筆をとった。
《成親》
「おや、御子様は私の名をお書き下さいましたか。男手を上手にお書きになりますね」
 書いたその字を覗き込んで、成親は感心したように眉を上げる。
 御子は頬を上気させて、「もっと書けます」と得意げに、「善戦者、見利不失、遇時不疑」とすらすらと書いて見せた。
 成親は息をのみ、九条院を見た。九条院は頬をこわばらせている。成親は紙を手にし、
「善く戦う者は、利を見て失わず、時に遇いて疑わず……。私は、弓箭の道に明るくありませんが、これはいずれかの兵法らしい。一体どうして……」
 成親がそう言うと、九条院は、はっと顔を上げて取り繕うように成親に微笑んだ。
「実は、遠縁の童が、時折こちらに参っては、御子と遊んでいるのです。その折にでも、教わったのでしょう」
 九条院は優しく微笑んで見せたが、明らかに当惑している様子である。成親はその様子をちらりと見たが、何くわぬ微笑みを浮かべた。
「私の名をご覧に入れます」
 大人二人の様子に気づかぬままに、御子はそう言って、「ミコ」と書いた。九条院は身を縮めるようにした。成親はその字をじっと見つめると、御子の髪を撫でた。
「御子、というのは、こう書くのです」
 成親は小さい手から筆を受け取って、「御子」と記す。
 御子は、目を輝かせて成親を見上げ、「私の名がこのような字だとは、初めて知りました」と嬉しそうだ。しかし、成親は寂しそうに微笑み、
「御子様、御子というのは、御名ではございませぬ。単なる呼び名でございます。御子様が私を父様とお呼びになるのと同じですよ」
「じゃあ、私の名は何なの」
「それは……あなた様の本当のお父上がいつか必ずつけてくださいますから、その時までお待ちください」
 御子は、つまらなそうに口を曲げた。
「父様はいつもそれね。いつか本当の父上がお会い下さるというけれど、いったいいつになればお会いできるの。私の父上はどなたなの」
「成親様を困らせ申しあげてはいけませぬ。成親様がお父上代わりなのですから、よいでしょう。それとも成親様ではご不満ですか」
 九条院は御子を嗜める。
「父様は大好きです。でも、気になるのですもの」
「こういうことは、時機、というものがございますからね」
 成親はやはり美しく微笑んで、御子の髪を撫でた。
 九条院は、成親と話があるといって御子を自室に引き取らせた。御子は女房に連れられて自室に戻ったが、気になって、足音を忍ばせて寝殿に戻った。
「先程、御子を抱いてあなたが入ってこられた時、八年前の嵐の夜を思いだしました。あの時に知った恐ろしいことを思えば、かの御方と会わせたくないのです」
 九条院は静かにそう言うと、深くため息をついた。
「女院様のお気持ちは分かります。しかし、御子のお立場もありますし、世の情勢を見てお引き合わせするのが筋かと存じます。それより肥後守殿の方は、その後いかがですか」
「一度、御子をお引き合わせしたいとは思うのですけれど……。御子が生きていると知れば、手元に引き取りたいとお考えになるかもしれないし」
「それはなりません。あちらはご身分も低く、養育には九条院様が最善。いや、ようお育て頂きました」
「いいえ、子のない私としては本当に慰めになります。あの当時のこと、世間ではいかなる笑い種になっていようかと。そういう気鬱さえ、御子は吹き飛ばしてくれます」
「笑い種などと……。九条院様のご懐妊は、京中の期待であっただけに落胆が大きかった。ただそれだけでございます。誰一人として、笑う者など……」
 几帳の裏に身を潜めている御子の肩を叩く者がいた。驚いて振り向くと、そこには水干姿の少年が立っている。
「牛若の兄様」
「しっ」
 牛若に手を引かれて、御子は自室に戻った。
「立ち聞きとは、穏やかではないな」
 今年十五になった牛若は、いまだ元服もしておらず、後ろに束ねた長い髪を庭からの風に揺らめかせた。いつの間にか空は夕日に染まり始めている。
「本当の父上様のことが何かわかるかもしれないと思って……。だってもう、本当の母上様はお亡くなりだと聞くし、私の血の繫がった方は、その本当の父上様だけなのですもの」
 牛若は、そうか、と小さく頷いて、「そのうち嫌でもわかる。父と子の縁など、そう容易く切れるものではないから」と言った。
 牛若には父がいない。四年前に鞍馬に入山するまで、牛若は父の仇である平清盛こそが自分の父であると教え込まれていた。しかし、真実は暴かれ、父と仰いだ清盛が実父の仇と知った牛若は、鞍馬でおとなしくするどころか、こうやって時折、母の縁を頼りに九条院邸に来ては、御子の遊び相手をしながら、世の情勢を観察していた。
「焦らぬことだ、御子。さ、それより今日も例の書を持ってきたよ」
 牛若が懐から巻物を一巻取りだして、御子の前に広げる。すると、いつの間にそこに控えていたのか、後ろで當子が首を伸ばして巻物を見ようとしているのに、御子は気づいた。
「こちらへいらっしゃいな。仲影はどこにいったの」
「兄は、九条院様のお使いでつい先ほど出かけました。数日は戻れないのだそうです」
 時々仲影は姿が見えなくなる。ぼんやりしていることも多いし、あちらこちらよく怪我をしている。それはたいてい、九条院様のお使いとやらで、長く家を空けた後だった。気になっていくら聞いても、「秘密の使いなので」とすげなくあしらわれるのだ。
 當子は、牛若と御子の間に頭を入れた。牛若は、漢籍を指でなぞりながら読み始める。御子は横に紙を開いて写す。時折意味の分からぬものがあると、御子も當子も熱心に牛若に尋ねていた。
 殿舎の奥から人の近づく足音があり、三人は急いで巻物や書写したものを隠す。と、女房が現れた。
「あら、牛若殿。お見えであったか」
「はい」
 女房は、菓子でも持ってこようかといいつつ、御子が後ろ手で隠している書写した紙をすばやく取り上げると、目を釣り上げた。
「やはり、牛若殿、そなたが御子様にいらぬ知恵を。女院様に叱って頂かねば」
「え、いや、たまたま読んでいただけです。それに、いま行っては成親様のお邪魔に」
「成親様は、すでにお帰りになりました。成親様がお見えであることを知って、こそこそとこちらへ訪ねたのではないでしょうね。さ、こちらに参られよ」
 牛若は仕方なく女房についていき、九条院の前に畏まった。九条院も、居住まいを正す。
「お前の母御前の常盤が、以前私の雑仕女だった縁から、思いがけなくもここを慕って、お前がこうやって時折訪ねてくれることは、私にとっては楽しみの一つです。が、これとそれとは話が別。御子様に無思慮に近づきすぎです。ましてや漢籍をお教え申し上げるなど。あれは、何だったのでしょう。善く戦う者は……」
「六韜三略という兵法書です。鞍馬で思いがけず手に入れたので、つい……」
「まあ……あなたはご自身の立場をお忘れなのですか。兵法などいけませぬ。入道相国清盛殿の耳に入りでもしたら、恐ろしいこと。はやく出家して御仏にお仕えするべきですよ。それこそがあなたの生きる道、常盤の母心を無駄にしてはなりませぬ」
 いつもは穏やかな九条院の語気が、少し厳しくなった。牛若は小さくため息をついて夜の庭を眺めた。まだ、蛍の出るほどに夏は熟しておらず、初夏の心地よい夜風が、牛若の頬を撫でる。
「九条院様、私は、御子がかわいいのです。利発だし、まるで実の妹のような気にさえなってくる。その妹が、九条院様を母と慕いはするものの、本当の母にも死に分かれ、本当の父上様に会えぬと嘆いている。いったい、御子をどうなさるおつもりなのですか。九条院様は、御子が愛おしくはございませぬか」
 九条院は、静かに視線を膝の上に落とした。そして、ややあって、静かに口を開いた。
「残念ながら、近衛帝と私の間にはお子は授かりませんでした。赤子が欲しくて欲しくてたまらなかったあまりに、思いが募って腹は膨らみましたが、産み月になっても出てこず、懐妊自体が誤りだったと気付いたときには、もうこの身がはなかくなってしまえばいいとさえ思ったものです。その私が、思いがけず御子を育てる幸いを得ました。どうして愛おしくないことがありましょう」
「いったい、御子様はどなたの子です」
 九条院は、十五歳になったばかりの若者の、何の思惑もない真直ぐな眼差しを見た。
「それは、今は言えぬのです」
 九条院も苦しんでいるのだろうことは、その表情から牛若にも見て取れた。
「……申し訳ございませぬ。出過ぎたことを申しました」
「いいえ、御子を案じてくれるその気持ち、ありがたい。母御前に似て、優しいことです。しかし、御子にあまりいろいろなことをお教えしてはいけませぬ。女子ですし、立場上、不要な知恵をつけるのは良くないのです。成親殿のご方針では、そう言ったことよりも器の大きい子になるようにと、書、和歌、楽の先生方に来ていただいていますからね」
 牛若は思いをめぐらしてみたが良く分からないまま頭を下げた。
「承知いたしました。以後は気をつけます」
 牛若はそう約束しながら、御子が父に会える日が早く来るよう心の中で祈った。しかし、その後も三年の間、御子が本当の父親に会えることはなかった。

 成親は自邸の簀子縁で、一人、月見をしている。この三年の内に権大納言に昇進し、いよいよ後白河院の覚えめでたく、人もうらやむ地位を確立しつつあった。が、どこかもの寂し気に月を見上げる。襟を緩やかに開き、脇に置いた盃を傾けていた。そこへ、庭先で蠢く影が一つ、足音もなく成親に近づいてくる。
「なんだ、覚山坊(がくさんぼう)ではないか。久しいね。何をしに参った」
 成親が涼しい顔で言うと、影は簀子縁に上がって成親の横に腰を下ろした。ほの暗い燭台の灯に旅の僧の姿が浮かび上がった。
「待っておったくせに」
 髭面の僧は、成親の膳の上を指さした。そこには、盃が二つあった。
「ふふ、月と飲んでいたのだ」
「はっ、良く言うよ。わしが、後白河院に召されたことを存じておったのだろう。しかし、ずいぶん会わぬ間に、おまえが権大納言とは、恐れ入った」
「覚山坊は、相変わらずの旅暮らしか」
 二人は気心知れたように笑う。笑いながら成親は覚山坊に盃を持たせ、酒を注いだ。
「建春門院様の病は、治りそうか」
 成親がそう聞くと、覚山坊は鼻で笑った。
「わしに分かるわけがなかろう。明日から祈祷せよとのご下命があったが、いくら祈祷したところで、人の生き死になぞ、神仏のみぞ知る、だ」
「やれやれ、後白河院様も、とんだ男に祈祷をお頼みなさったものだ」
「ふはは、まったくだ。二条帝の件があるというのに、祈祷にわしをわざわざお召しとは。この顔を間近で見ても不吉がらぬだろうかと、わしは、明日が、ちと案じられるのよ。ところで、入道相国の方はどうしておる」
 清盛の名が出ると、成親はピクリと眉を動かした。
「あちらも明日は参るだろうね。なにしろ、平家から後白河院に入内なさった建春門院様に万一のことあらば、平家は相当危うくなる」
「そうだろうか。建春門院腹の皇子が、今、帝位におつきであろう。高倉帝とおっしゃったか。その帝が位についておられる限りは、平家方は安泰に変わりないのでは」
 成親は、酒の面に月を映しておいて、ゆるゆると盃を揺らした。月はちぎれたり繫がったりと危うく輝いている。
「高倉帝には、お子がお生まれではない。清盛の娘徳子が入内してはや四年、ご懐妊の兆しは全くと言っていいほどない。建春門院様がはかなくおなりあそばせば、皇太子の冊封が皆の関心事となる」
「なるほどな。以仁王はどうだ。あのお方こそ、院の皇子ともてはやされるに違いない」
 と言って覚山坊が顎の髭を指でなぞると、ぞりぞりと硬い音が鳴った。
 成親は小さく首を横に振った。
「あの方は、文武にたけて才覚余りある。さらに言えば御年も帝位に就くにちょうどよく、最も帝たり得るお方である。が、ゆえに、かえって立太子はないだろう。その証拠に親王宣下も戴けていない。後白河院が最も遠ざけたいお子の一人であろうね」
「阿呆か幼子、が、よいということじゃな」
「才あるお方は御しにくい。院は依然、王権をお渡しになることは望まれていないのだよ。それになにより……」
 成親は、覚山坊の顔をじっと見た。
「以仁王は、兄二条帝の面影に、たいそうよう似ていらっしゃる」
「ああ、なるほど……」
 覚山坊は、合点がいったように大きく肯いた。
「となるとやはり……」
 二人は不意に口を閉じた。夏の草いきれが匂うような夜風が、二人の首の辺りを漂った。
「いよいよだな」
 成親は、月を浮かべた酒をじっと見守ったが、一気に飲み干した。
 それから一月後の安元二年七月八日。加持祈祷の甲斐なく、建春門院滋子は亡くなった。

 庭の葉が、残暑の日に照り映えている。鑓水に反射した光が、九条院の居室の中でゆらゆらと揺らぐ。十一歳になった御子は、隣に座る成親の優しい横顔に眼差しを投げている。
「先日やっと床から起きあがれるようになったばかりなのです」
 まるで一人だけ冬のように、九条院は血の気のない顔だ。
「さようでございましたか。この夏は厳しゅうございましたからご負担だったのでしょう」
 九条院は成親を見、そして、御子に微笑んだ。
「御子、あなたの本当のお父上のことですが、近々、お引き合わせいたしましょう」
 唐突な発言に、成親は思わず腰を浮かせた。が、九条院はそれを目で制した。
「ずっと会わせて差し上げられなかったのを、本当に申し訳なく思っています。お父上様はね、あるお考えに囚われておいでなのです。お強い方ではあるけれど、それゆえにご自身のなさったことが強く周りに影響してしまうので、時々臆病になられるのです」
 御子には何のことかわからない。九条院は、成親に向き直り、静かに頭を下げた。
「どうか、成親殿。御子をお引き合わせ申し上げてください。このままでは、私は不安で浄土へなどいけませぬ」
「浄土……!」 
 成親は身を反らした。
「何と不吉なことを。それに、お二人を引きあわせることに、反対なさっていたはず」
「自分では分かるのです。この頃は非常に体が重く、息をするのにも気力がいります。私が生きている間に御子のことを託し申し上げねば。でなければ、死んでも死に切れませぬ」
「母院様、嫌なことをおっしゃらないでください。先日は確かにお体を悪くなさったけれど、今はこうやってお元気になられています」
 御子は、九条院の手をとった。九条院はその手を両手で包みこむと、悲しげに微笑んだ。
「ほんに、美しゅうおなりです、御子様。お父上様もきっと受け入れてくださいます。すでにお文は差し上げておりますゆえ、きっとお運びくださるでしょう」

 それから数日後の、ある秋の日――。
「御子様、お父上様がお見えになります。お着替えを」
 女房たちが持ってきたのは、半裾(はんきょ)とよばれる童の衣装だった。いつもそばにいるはずの仲影も當子も遠ざけられていた。
「なぜ、男の子の姿をするの」
 御子がいくら聞いても、女房たちは着終えたらお教えしますとばかり言って、誰も答えはしない。衣装を整えた頃に、成親が入って来た。
「父様!」
 不満を抱えた表情で飛びつこうとする御子を、成親は手で制した。今までにない成親の反応に、御子は身を固くする。成親は、女房たちを下がらせると、御子の前に静かに歩み寄って腰を下ろし御子の手を握った。
「御子様、本日はおめでとうございます。本当のお父上様が、この九条院邸に御渡りになります」
「父様、なにゆえ半裾を召さねばならぬのですか」
「良くお似合いです」
 成親は、みずらに結んだ御子の髪を優しく撫でた。
「実は、あなたのお父上様は、お立場が大変難しく、男の子をお望みなのです。女であればいらぬとおっしゃっています」
「……そんな。しかし、どうあがいても、男にはなれませぬ」
「ええ、もちろんです。しかし、本当のことを申し上げるのは、もう少し時間が経ってからでなければなりません。とにかく今は、お子であることを認めて頂かなくてはならぬのです。認めて頂かなくては、何も始まりませぬ。ですから、今は我慢です。決してご自身が女であると申し上げてはなりません。お子として認めて頂き、慈しんで戴きましょう。さすれば後々、女と告げてもきっと手放すことはなさいませぬ。しかし今認めて頂かなくては、もう二度と、お父上様にはお会いできないのです。機会は今日が最初で最後とお心得ください。良いですね」
「……そんな、でも……」
「いくらご不満でも、これしか我々には術がないのです。とにもかくにも、今日だけは、男の子であるようにお振舞いください」
「でも、父様、私は……」
 御子がなかなか首を縦に振らないので、成親は居住まいを正し、御子の前に手をついた。
「この成親、御子様に納得いただけぬとあらば、ここで命を絶つよりほかありませぬ。あなたが女子であると現段階でお父上様に知れれば、この命など風前の灯」
「父様!」
 御子は驚きのあまり目を釣り上げ、声を荒げた。
「やめてください! なんてことをおっしゃるのですか。わかりました、父様の言う通りにします。だから、死ぬなんておっしゃらないでください」
 御子の目に涙が浮かび上がるのを、成親は厳しい顔をしてみた。
「男は、かようなことで涙など流しませぬ。この成親の命を思うて下さるのなら、そのようなお振舞いはなさいますな」
 御子は、ぐっと涙を呑み込んで、歯を食いしばった。
 その日の九条院の顔色は白く、気力だけで身を起こしている様子だった。御子は、九条院と共に最も格式の高い寝殿の広間に腰を下ろした。
 客人の到着を待つ間、女院が御子の手に鳳凰の舞う姿を描いた衵扇を持たせた。
「これは、私からの贈り物です。今日の記念に」
「ありがとう存じます」
 御子は、複雑な心境で笑みを作った。母院でさえも、男装については何も触れられぬ。どうやらこれは自分の逃れがたい運命であるらしいと思った。
「九条院様、お見えでございます」
 しゅるりしゅるりと衣擦れの音と共に、灰色に近い鈍色の法衣を纏った男が現れた。鼻は鷲のように高く、目は獲物を狩るように鋭い。もう老齢に入ろうというほどで、頭はすっかり剃っていた。
 九条院と御子は頭を垂れて迎える。男の、重くもあり刺激も少し含まれた薫香が広間に沈むように漂った。男の後ろから、出迎えに行っていた成親も緊張の面持ちで現れた。
 上座に法衣の男、その前に九条院と御子、そして成親は少し端近に腰を下ろした。
「後白河院様、長らくお目にかかりませんでした。このような粗末な邸に御幸いただきまして、この九条院、恐悦の極みでございます。建春門院様が身罷られてまだ一月と経たぬというこの時期に、よくぞ私の無理な願いをお聞き入れくださいました」
「九条院、久しゅうお会いしませんでした。ご病状芳しからずと漏れ聞いておりましたが、見舞いすることもかなわずにおりました。決してあなたのことを忘れていたわけではない。ただただ悲しみに暮れ、日々翻弄されることが多うて」
「御心に留めて戴いていたとは、畏れ多きことでございます」
「お顔の色が優れませぬな。大事になされよ」
 後白河院は、その鋭い眼光に似合わず、優しい言葉を九条院にかける。
 御子は、ずっと会いたかったはずの父上が目の前にいて、そして初めて声を聞いた幸せに、半ば酔うたような、しかし半ば不安な心持になった。
「ところで、こちらのお子は」
 後白河院は真直ぐ御子を見る。
 とたんに、御子の喉元で心の臓が早鳴った。どくんどくんと、喉が詰まりそうだった。
「実は、本日御幸願いましたのは他でもございませぬ、この御子を院にお引き合わせしたかったのでございます」
「ほう……」
 後白河院は、食い入るように御子を見た。その眼差しは、いったい何者なのだと訝っている様子であった。我が子と気づいてくれるかもしれぬと、ふと期待したが、後白河院の眼差しにその色はなく、御子は少なからず落胆した。
「十二年前、琴の上手として名高い肥後守藤原資隆殿の息女が、女房としてここ九条院邸に仕えておりましたのを覚えてらっしゃいますか」
 その名を聞いた後白河院の顔は、見る見るうちに険しくなった。
「まさか、あの時の子、では、ありますまいな」
「その、あの時の御子でございます」
 すると、後白河院は突然立ち上がった。
「なんとする九条院、無礼である! 事情の知らぬ者ならいざ知らず、あなたがこのようなことをなさるとは」
 まさに逆鱗に触れるとはこういうことを言うのだろう。
 後白河院の荒ぶる大声に、御子は身を縮めた。九条院は、しかし、負けまいとするように、声を張り上げた。日頃のしとやかな九条院からは想像もつかぬ力強さだ。
「お許しくださいませ。ただただ、御子が不憫でなりませぬ。どうか、その腕に抱いてやってくださいませ どうか、どうか名を与えてやってくださいませ」
 後白河院の激しさは空気を伝って辺りを痺れさせるようではあったが、さすがに病身の九条院に怒りをぶつけることはできぬと思ったのか、その鋭い眼差しは成親に向けられた。
「成親! 貴様、朕の命に背いたのだな。男ならば仏門、女ならば殺してしまえと申したではないか」
 御子は、あまりの言葉に、手にしていた衵扇を取り落とした。しかし、後白河院は御子には目もくれず、いや、あえて見るのを避けるように成親を蹴り飛ばした。
「院!」
 九条院は咎めるように声を上げたが、後白河院は一向に構わぬ様子で、蹴り倒した成親を何度も足蹴にする。成親はただじっと、その怒りを身を固くして受け入れているだけだった。
 御子は思わず成親と後白河院との間に割って入った。その途端、後白河院の足がぴたりと止まった。もう少しで御子の顔が蹴とばされるというところだった。
「そこをのけぃ!」
「嫌でございます。父様は私を本当の子のように慈しんで下さった。その方がこのような目にあってなさるのに、どうして黙っていられましょうか」
 後白河院は、鼻の穴を膨らまして震えている。
「なにゆえ、私をそこまで厭わしくお思いですか、お父上様」
「父などと呼ぶな、不吉な!」
「何が不吉なのですか!」
 後白河院は、荒々しく肩で息をしながら御子を見下したた。成親を庇って自分をキッと見上げるその御子から目を反らすことなく、鋭く。しかし、その眼は小刻みに揺れている。
「なんということだ……」
 ふいに小さくそう呟くと、踵を返してそのまま去っていった。
 成親は唇から血を流しながら、院の後を追っていく。そして、車宿りの方で牛車の音がした。後白河院は帰っていったらしい。
 これが、御子と父後白河院との初めての対面であった。

 美男で評判の成親の顔はひどく腫れているらしい。九条院が再三召し寄せたが応じぬので使いの者に見に行かせると、とても外出できず、出仕も控えているとのことだった。
 日が落ち、夕餉の膳が下げられ、褥に入ってもなかなか寝付けるものではなかった。
――こんな時は牛若の兄様に会いたい。
 御子は胸の中が荒れてざらざらしたように感じた。牛若は、頻繁に来ては、さまざまな話を聞かせてくれたり書物を見せてくれたりしていた。ところがある日を境に、ふつりと来なくなったのだ。もう、二年も会っていない。牛若とともに遊んでいた頃は、自分にこのような困難が降ってくるとは思いもしなかった。今、牛若の兄様に相談したらどう言うだろうか、と御子は寂しさを募らせた。そして思いを巡らせると、ふいに當子を呼んだ。
「私の褥で寝ていてちょうだい」
 御子は無理やり當子に衣をかぶせた。
「どちらにお出かけですか。私も参ります」
「いいから、私の代わりをしてね、お願い」
 何事かを、當子が背後でまだ叫んでいたが、御子は足音を忍ばせて釣殿の端の方へ駆けていった。釣殿の横に大きな桜の木がある。御子はその木によじ登ると、脇の築地塀の上に乗る。そして東の小さな出入りの門の屋根にまでたどり着くと、柱を伝って外に出た。
 外はすっかり夜陰が垂れこめ、強い風が吹いていた。時々夜歩きの男車とすれ違うで、人の気配のない京の夜道だ。御子は人の目に触れぬように、裸足で砂を踏み、成親邸へと向かった。
 成親邸の周りをぐるりと巡り、忍び込めるところを探したが、築地に微々たる破れもなく、御子は意を決して門兵の前に立とうとした。が、後ろから腕をつかまれた。
 驚いて振り向くと、仲影が立っていた。
「御子様、こちらへ」
「帰らないわよ」
「分かっています。中へ忍び込みましょう。でなければ追い返されるだけです」
 御子は、仲影をまじまじと見た。
 同じ乳母子とはいえ、當子とは比較にならぬほどいつも遠慮がちな仲影が、自分を追ってここまで来た上に、なぜ味方してくれるのかはわからなかったが、言に乗らないわけにはいかなかった。
 仲影についていくと、築地塀の向こうに木が立っている所を見つけた。仲影は、御子を肩に担ぐ。御子は仲影の肩に立ちあがって、塀の上に乗ると、庭木を伝って中に降り立った。と、続いて仲影が飛び降りてきた。
「仲影、どうやって塀を越えたの」
 御子が驚いてそう聞くが、仲影は人差し指を立てた。近くの渡殿を女房が通っていくのが見えた。
「御子、寝殿の方へ行ってみましょう」
 御子は頷いて、仲影とともに腰を低くしたまま邸に近づいた。すると、明りが灯っているのが見えた。前栽に身を隠しつつ中を伺うと、顔を腫らした成親と小ざっぱりと美しい法衣を纏っている一人の僧が向き合って座っていた。
「父……」
 御子が声をかけて飛び出しそうになるのを、仲影が止めた。
「あの陰陽師安倍泰親がいらぬことを言うたばかりに、どうにもこちらは動きづらいわい」
 と、僧がそう言うのが聞こえた。
「きゃつは、内裏焼亡や惇子内親王のご急逝などを予言し、うっかり言い当てて重宝がられる始末。それに乗じて、他流の雑言悪口ばかりを院や関白に吹き込んでおるらしいではないか。まったく厄介者じゃ」
「いや、そうとも限らないさ」
 成親が、笑ったように見えた。
「かえって、このようになって良かった。あやつの言がなければ、院を手中にしようなどと思いつかなかったことだ」
「……まあ、なるほどな」
 と言って覚山坊がくいっと酒を飲むと、思いだしたように身を乗り出した。
「しかし、わしは少々恐ろしかったぞ。お前の祈祷は人を殺めるしか能がないとでも思われれば、この首なぞ簡単に刎ねられるからのう。が、後白河院は、建春門院の死が相当堪えたと見えて、わしら加持祈祷の僧どもに目もくれず、泣き崩れておった」
「ああ、さすがに哀れでいらっしゃった」
「哀れといえばお前さんの顔だ。まあ、前代未聞の男前になっとるわい。これだけの蹴りが出るということは、後白河院も少しは元気を取り戻しつつあるのかのぅ」
 成親は、覚山坊を見た。
「最愛の女院を亡くしたところへ過去を蒸し返されたのだ。よくあれだけで済んだと思っているよ。なんとも、申し訳ない気持ちにさえなってくる」
「申し訳ないなんて」
 御子はたまらず叫んだ。背後では仲影が焦っていたが、そんなことはどうでもよいことだった。御子は、成親のいる居室に駆け上がった。遠目でも顔が腫れているのは分かっていたが、近くで見るとかなりひどかった。左目の周りが腫れているために目が開けられないようで、形の美しい顎を上げて御子を見ている。御子の目に涙がみるみるあふれ出た。
「御子、どうやってここに」
「父様、なんというお顔に」
「いかにして邸に入られたのです。供もつれずに一人で来られたのですか」
 御子は涙を拭った。仲影が申し訳なさそうな顔をして、階にまで出てきた。成親はそれをちらりと見て、納得したように御子の肩に手を置いた。
「さ、もう泣くのはおやめ下さい。別に命を奪われたわけでもありません」
「後白河院は、なんて非道な人なのでしょう」
「ははは。あれでも、随分穏やかになられたのですよ。四宮とお呼ばれになっていた頃などは、もっと枠にはまらぬ自由闊達な御方でした。久方ぶりに昔の四宮様にお会いしたようでしたよ。たしかに、少々乱暴なところもおありですが、素晴らしい治天の君なのです。人の一面だけを見てきめつけてはなりませんよ」
「でも、ひどうございます……」
 御子は小さな手を成親の腫れたこめかみに添えた。
「父様、後白河院様は、なぜ、私をお嫌いになるのですか。父様をこのようにするほどに」
 成親は優しく微笑んだ。
「お嫌いになどなっていませんよ。ただ驚かれたのでしょう。御子だって、前からお聞きだったから後白河院がお父上だと言われても驚きなさらなかった。けれど突然、いないと思っていた人がこの世に存在していたら、びっくりするでしょう」
 御子の顔色が曇った。そして、じっと成親の顔を見つめた。
「なにゆえはぐらかしてしまわれるのです。後白河院様は、母院さまに事情を知っていて、とおっしゃいました。それに、私が生まれたこともご存じで、それが女であれば……殺してしまえと」
「ああ、ああ、御子様、いけません」
 成親は急いで御子の両頬を大きな手で挟んだ。
「あれは、お心が乱れておっしゃったこと。本気にしてはなりません」
「父様、お教え下さいませ。私ももう十一歳、早ければ二、三年の内に裳着をする年です。子供ではございません。何故、女であってはならぬのか。きちんとご説明下さいませ」
 成親は、少し口を開けたが困ったように閉じた。と、それまで黙っていた覚山坊が、急に口を開いた。
「そんなことは、後白河院本人にしかわからぬことでしょう」
「覚山坊」
 成親が咎めるように言ったが、覚山坊は御子の前に畏まって額づいた。
「御子様、わしは覚山坊と申す者。成親……あなたの父様の古くからの友です」
 御子は、訝し気に僧を見ながらも、
「父上様に、何故女なら殺すのか、問えというのですか」
「さあ、それはあまり、得策ではございませんなぁ。なんせ、御子が現れただけで成親がこうなるほどです。そんなことをきいて、無事でいられそうもありません」
「では、どうせよというのです」
「まずは、あなたをお子と認めさせることですな。あの御方も天魔ではありません、とても手放せないと思えるほど、後白河院の懐に入れば、きっと心を開いて教えてくださるでしょう。それまでは、ひたすらご尽力あるのみ、です」
 御子は、眉根を難しげに寄せて覚山坊を見つめた。そして、答えを求めるように成親に視線を移す。
「覚山坊の言う通りです。くやしくとも、それしか方法はございません。とりあえずは、あなた様がこの世にいらっしゃるということは、後白河院様にはお知らせ出来たのです。あとは、子として認めて頂くより他、ありませぬ」
――うそだ。後白河院は、まるで父様に裏切られたかのように激昂なさった。父様は、きっと何かご存じのはず。なのに、私にお明かしにならない……。
 御子は、言いようのない寂しさを喉元に蓄えた。父様と呼んで慕っていた人が、ふいに、他人のような感覚にさえ陥った。
「さあ、九条院様が心配なさっているかもしれない。早くお帰りなさい。仲影、頼んだよ」
 これ以上の質問を避けるためか、或いは本当に御子の身を案じてか、成親は、御子を牛車に載せ、腕の立つ随身を二人つけて、九条院に帰した。
「なんという愚かなことをしたのです」
 帰ってみると、九条院邸は上を下への大騒ぎになっていた。病身の九条院はいっそう顔を青くして震えていた。御子の代わりをした當子の頬は、誰が叩いたのか、赤い手形がついていた。御子は當子の頬を心を込めて撫でた。が、女房の一人にその手をつかまれて、褥に寝かされてしまった。
 ようやく御子が帰ってきたので邸の中は落ち着き、みな寝静まっているようだ。いつも横で寝ている當子は、どこか他の局に行かされたようだった。
 天井をじっと見つめていると、以前のように牛若が現れるような気がする。噂によれば、牛若はもう鞍馬の寺にはいないということだった。一言の挨拶も無しに、牛若はどこかへ行ってしまったのだ。
――父と子の縁など、そう容易く切れるものではないから。
 牛若のあの言葉が、ずいぶん遠ざかっていくような気がした。

  九条院は、その後病状を悪化させ、すっかり床についてしまった。父と慕う成親は、あの日以来もう十日も姿を見せていない。當子は、御子がまた無茶をしはしまいかと、まるで監視するかのように、ずっと御子に張り付いていた。
 病床の母院の横で、御子はその顔を見守っているが、いくら振り払っても頭に浮かぶのは後白河院のことだった。恐ろしいほどに憎々しげに自分を見降ろした眼差し。しかし、成親をかばった時、とっさに足を止めて御子を蹴らなかった。乱暴で、自分を子と認めてくれない本当の父親。女ならば殺せとまで言ったほどの人なのに、自分を蹴り倒さなかったというただその一点のことに、どうしても縋り付いてしまう自分の心が、何とも悲しくて悔しくて、御子は唇を引き結んだ。
 静かな寝息を立てている九条院の顔を覗き込んだ。優しく美しい母院――御子にとって、母はこの人しか知らないのだ。母が喜ぶと思えばこそ、琴の練習もし読み書きも覚えた。
 美しい花を手折って贈ると、まあ、野に咲かせてやればよいものをといいながらも、母院は嬉しそうに微笑み、花器に活けて愛でていた。
「眠れないのですか」
 気配を察知してか、九条院は目を開けた。そして優しく微笑んだ。
 九条院は、夜だと思ったらしい。自分の夜具に御子を招き入れると、そっと抱くようにして目を閉じた。御子は額に母の弱々しい息を感じる。昔は線は細くとももう少し肉付きがよかったのに、今はすっかり痩せてしまっていることに、久々に抱かれて気付いた。
「父院様は、決して悪い御方ではございません。いつかきっと御子をお認めになりますよ」
「母院様は、後白河院と私が、仲良くした方が嬉しいのですか」
 九条院は、腕に力を込めて御子をもっと引き寄せて、ふうっとため息をついた。
「もちろんです。それが母の今の願いです。お恨み申しあげてはなりません。あの御方は悲しい御方なのですから」
「なぜ悲しい方なの」
 九条院は、御子の顔を見守って、少し考えてから静かに話し始める。
「あの御方には即位なさった兄宮様がいらっしゃいました。が、訳あってご譲位なさることになったのです。ところが、すぐ下の後白河院ではなく、わずか三歳だった後白河院の弟宮――私の背の君の近衛帝ですよ――、その方が即位なさいました。つまり、後白河院は帝位につく器ではないと、父上の鳥羽帝に思われてしまったようなのです。女である私には、政は良く分かりません。けれども、世は後白河院にたいへん冷とうございましたよ」
「でも、結局即位あそばされたのでしょう」
「ええ、けれどそれは、後白河院の皇子である二条帝を即位させたいがために、公卿たちが計ったことです。私との間に皇子が生まれないまま近衛帝は崩御なさいました。ならば普通は後白河院が即位なさるはず。それなのに公卿たちは二条帝を即位させたがったのです。しかし、二条帝を即位させたくとも、実の父宮が位についていないのはいけないということで、急遽、後白河院が中継ぎの帝におなりでした。ですから、後白河院は東宮時代というものをおもちではありません」
 御子は、少し眠くなって来た。瞼がゆらゆらと下がってくる。
「後白河院様は、ご譲位あそばされた後も、二条帝を慈しみなさいました。しかし、子というのは親からの関わりを厭うもの。畏れ多くも院と帝におかれましても、世の父子と同じだったのでしょう。二条帝は、いつのまにか後白河院様を遠ざけるようになったのです」
「親子なのに、仲良しではなかったのですね……」
「あの頃は、後白河院は二条帝に随分と疎まれ、お辛そうでした。そんな中、二条帝は急に崩御なさったのです。後白河院様はたいそうお嘆きでしたよ。加持祈祷を連日お祈りしていらっしゃったのに……。実のお父帝からは帝の器に非ずとされ、公卿からは蔑まれ、やっと御位に上がられたと思えば、間もなくご譲位、そして子息である二条帝の死……。いいえそれだけではありませぬ。今回は、お心を通わせられた建春門院様のご逝去。ご心中いかばかりかと思いますよ。そのような悲しい時期であったにも関わらず、わたくしなどの願いを聞き入れ、こちらまで御幸下さったのです。本当は心お優しいお方なのですよ」
 そうなのだろうか。御子の脳裏には、御子が父とも慕う成親を足蹴にする激しい気性の後白河院が浮かんだ。しかし同時に、御子を蹴ってしまわぬように足を止めた父院の姿も浮かんだ。
 あの目は何だったのだろう――。自分を見降ろしたときの後白河院の眼差しは、憤り、驚き、果たしてそれだけだったのだろうか。
 自分の子であると知った時の動揺。それは九条院に向けられたが、九条院に感情をぶつけるのを避けたようだった。矛先は成親。そこには何の抑制もない憤りが湧き上がり、そして御子が割って入った。その時の、御子を見降ろした時の院の目は憤りに漲っていたが、小刻みに揺れていた。あれは――。
 ――不吉な。
 確かに後白河院は、御子に向かってそう言ったのだ。となれば、御子を見降ろした時の眼の震えは、怖れなのか……。
 そんな思いを胸に揺らめかせながら、母の胸で眠りに落ちた。

 しばらくぶりに成親が九条院邸にやってきた。
 九条院を見舞った後、御子に懇願されて、成親は院の御所に御子を連れていくことになった。今は時期尚早ではないかと言ったが、御子の目は真剣そのものである。成親はしかたなく首を縦に振った。
 後白河院の御所に入ると、蔵人が迎え出て深く頭を下げて礼をとった。
「九条院様からの御使いの童が参りました。私はここで待機いたしますゆえ、童を奥へ」
 成親は御子を蔵人に託す。蔵人は、御子を奥へと導いた。通された間でしばし待っていると別の蔵人が現れ、九条院の文を受け取って院に奏上すると言った。
「御文はございません。院に直接奏上いたします」
 御子がそう言うと、蔵人は憂鬱そうに眉根をひそめ、そうして音もなく奥へ姿を隠した。
 御子は覚悟を決めたのだ。自分を慈しんでくれた母九条院が望むのなら、何としてでも父上様と睦まじくして御覧に入れねばならないと。そのためには、確かに覚山坊が言ったように、子と認めてもらわなければならない。
 長い時間待たされたが、御子は意を腹に据えて微動だにせず、目を閉じて待っていた。ふいに、ほんの微かに衣擦れの音がし、重く強い薫香が漂ってきた。
 覚えがある――後白河院の香だった。しかし、何も語らず、ただ、香だけが微かに御子の鼻をくすぐる。おそらく、院は、幾重にも重ねられた御簾や几帳の向こうに身を隠し、こちらの様子を窺っているのだろう。
 御子は、自分に言い聞かせた。私は男だ。男らしくあらねばならない、と。
「九条院様は、随分弱っていらっしゃいます。先日、九条院様は私を抱いて、こうおっしゃいました。私と後白河院様が仲良うしてくれるのが、願いだと」
 誰も居ない控えの間で、御子はまるで一人で話しているかのようだった。しかし、御簾の向こうのその奥にいるはずの人に、御子は話しかける。
「九条院様は、後白河院は悲しい御方で大変お優しい方なのだと、私にお教え下さいました。たしかに、先日の一件で、私を足蹴になさらなかったので、恐ろしい方ではないのだと思います。ただ、父上様が、何故私を疎んじられるのか、私には全く分かりませぬ。ずっと……ずっとお会いしたかったお父上様に、やっと対面叶ったというのに、何故……」
 そう語っていると、ふいに一人の男が現れた。おそらく武官だろう。朱の束帯を着て腰に太刀を佩いている。父院が、自分に対してこの男を当てたのだということを、御子は感じた。着慣れぬ半裾の中で、汗が背中を伝った。
「童殿、院はお忙しいのです。さ、お帰りなされよ」
 武官は御子の前に膝をついて、諭すように微笑みながら御子の手をとろうとした。
 ――どうしよう、このまま帰らされてしまう……。
 御子は、すばやくこの男の太刀に目を走らせた。御簾の奥の後白河院とこの男以外には、気配がないように思われた。
「ささ、お立ちなさい」
 男がなおも御子を促す。その声に従うように見せかけ、立ちあがりざまに意を決して男の懐に入り込んで、その太刀をすらりと抜いた。
 男の顔色が変わる。御子は、思いの外重い、初めて持つ太刀に体重を持って行かれながら、室内で振りまわした。
「あぶ……あぶない! お放しなさい!」
 武官は目つき鋭く、御子の手から太刀を奪おうとするが、御子の振りまわす太刀筋が全く読めぬので、何度も手を出してはひっこめる。そのうち、御子が思いきって真横に振りまわしたとき、武官の胸をかすめ、衣装が裂けた。武官は太刀を避けたために尻もちをつく。それを逃すまいと、御子は切先を男の首に当てた。
 手が震えている。怖い。しかし、震える刃先が、男の首に当たっている。武官も予想のつかぬ童の行動に身動きが取れぬようだ。
「動くな。御所を血で穢したいのか」
 鋭くそう言うと、御子は御簾の奥に向かって声を張り上げた。
「父上様、なぜこのような! せっかくこの世に父と子の縁を結んでいるというのに!」
「父と呼ぶな、と申したはず」
 低い声が響いて、御簾や几帳を揺らして、後白河院が姿を現した。
「愚か者が」
 後白河院は武官を睨んでそう言って、ふいに御子の額に扇を投げつけた。御子は驚いて身を縮め、太刀を落とす。と、間髪入れずに、武官が太刀を拾った。
 後白河院は手を振って武官を下がらせる。誰もいなくなった。と、御子のみずらを掴んで乱暴に引き寄せ、鼻を突き合わせた。カッと見開いた大きなその眼が御子に迫った。
「父と子の縁とな。子が思うほど、父の情などというものは深くはないと知らぬのか」
 ――お父上からは帝の器に非ずとされ……。
 九条院の言葉が、御子の胸をめぐった。
 院は馬鹿にしたように笑った。
「そもそもお前には、成親という父がおるではないか。なにゆえ朕にこだわる」
「母院様……九条院様を安心させ申し上げたいのです。それに……」
 ――それに、なぜ自分がここまで本当の父親に疎まれるのか、女である私がなぜ死なねばならぬのか、その理由を知りたい……。
「本当のお父上様に……やっとお会いできたのですから、やはり、子と認めて頂きたいと願うのは、情というものではありませぬか」
 後白河院は、ふんと鼻で笑って、御子を突き放す。御子は勢い余って尻もちをついた。院は、屈むと御子の耳元に口を近づけた。
「ならば、清盛の首をとって来い。さすれば子として迎え、名も与えてやろうぞ」
「清盛、の、首……」
 愕然とする御子に後白河院は不敵に笑うと、衣擦れの音を響かせて奥に帰っていった。

 御子が九条院邸に戻ると、當子が慌てふためいて迎え出てきた。
「御子様! 九条院様が!」
 それと悟った御子は、廊下を駆け、九条院の居室へと駆け込んだ。送って来た成親も、急いで続く。九条院はすでに危篤状態で、いくら御子が声をかけても、意識も戻らない。
「母院様、嫌です。いつだって私の願いを聞き入れて下さったのに、逝かないでという願いは、聞き入れて下さらないのですか」
 御子は、微かに息をしているだけの九条院の胸に頬を当てて泣きじゃくり、女房どもの涙を誘った。御子の耳に微かに響いていた心の臓の音は、徐々に間隔があき、ついには次を打たなくなった。隣の部屋からは御読経が響いていたが、やがてそれも収まった。
 しばし、静寂の間に、女房達のすすり泣きが漂うようだった。御子はまだ温かい母の胸から、頬を話すことができず、ただしがみついて苦しみの声を漏らしていた。
「さ、御子様。女院様は只今からご支度がございますゆえ」
 御子は母院から引き離され、自分の居室に連れて行かれた。女房達に強く言い含められた當子と仲影が、ずっとそばにいて、御子の手をそれぞれにさすっていた。
 御子は、ただぼんやりと、そこに座っていた。涙は頬を走っていくが、瞬きもほとんどせず、ただただ頼りなく呆然と座っているだけだった。 
 邸に帰れぬ成親に着替えを届けに、覚山坊が九条院邸を訪れた。邸の者は、九条院の遺体にかかりきりで、辺りに人はいない。覚山坊はあたりに気配がないか探りながら、小声で言った。
「後白河院に会いに行ったのだろう。どうだったのだ」 
「清盛の首をとれと言われたそうだ」
 覚山坊は、目を大きくし、二の句が継げない。
「よもや、このような展開になろうとは。二条帝崩御をネタに御子をつきつけて、院を翻弄しようと考えていたのに。これでは臣下の扱いではないか」
 成親が、茫然とした様子で囁いた。覚山坊も腕を組んだまま厳しく眉間に皺を寄せる。
「清盛の首……無理難題を押しつけられたものだ……。いや、まさか。本気ではあるまいに。御子を遠ざけようと放った言葉ではないのか」
「いや、案外、後白河院様のご本心ではあるのだ。とにもかくにも、平家の力をそぐ術をずっと模索していらっしゃる」
「さようだとて、十一歳の子に何ということを。で、御子はいかがなさると」
「清盛の名はご存じだったので、帰りの車の中で、そのほかの情勢のことを様々に私から聞き出しなさっていろいろ考えていらっしゃるようだった」
「ふむ。……ところで、他の公卿に動きはないか」
「わが甥の隆房が、なにやら仁和寺辺りに出入りしているようだ」
「……仁和寺というと、以仁王の兄宮守覚法親王がおいでなさる……」
「まさに、その法親王の弟子として仏門に仕えている皇子がおわしますのだ。後白河院が皇太后宮忻子様の女房に産ませた方で、すでに院に幼き頃に皇子としてお目通りが一度かなっている。その御子を立太子に推挙しようとしているらしい。それだけではない。権右中弁平親宗が、遊女腹の御落胤を抱えているという報せを得た」
「平親宗とな。そやつは清盛側か」
「いや、あの男は、清盛とは遠縁ではあるが、一貫して後白河院と建春門院様に付き従っている者。これを機に足場を固めておこうというのだろう」
「ははは、遊女腹など話にならぬわ。しかし、問題は仁和寺の方であろうな。我らが御子とほぼ同じ立場であろう」
「いや……こちらの御子は、あるいはもう使えぬやもしれぬ。ことが運んで皇太子となれば、わが娘を妃として入内させ、女であることを秘匿して即位させ申し上げ、二条帝の影を背後にかかげて院を掌握できるやもとまで思っていたが、清盛の首を、となると……」
「睨まれれば、お荷物になるぞ。あの時に殺めておくべきだったのではないか」
 覚山坊の言葉に、成親は、美しい顔を歪めた。

二、以仁王

 近衛帝の皇后であった九条院呈子は、四十六歳でこの世を去った。
 御子、わずかに十一歳。喪に服しながらしばし九条院邸で過ごしていたが、実母の父肥後守藤原資隆邸に引き取られることとなった。
 御子は、後白河院との御所での対面以降、一度も女童の格好をせず、童水干や半裾といった貴族の子息の衣装を身にまとっていた。御子の覚悟の表れだったのか、あるいは、後白河院が自分を引き取ってくれるのではないかという淡い期待のためもあったのかもしれない。しかし、後白河院は九条院の葬送の儀に参列してだけで、その後は文一通もなかった。
 肥後守藤原資隆邸へと出立する前に、成親は御子の居室で人払いをし、向き合って座ると御子の手をとった。
「御子様に申し上げておかねばならぬことがあります」
 成親が真剣な目をするので、御子は黙ってその眼を見上げた。
「御子様がお生まれになったとき、後白河院のご下命で、生まれてすぐのあなたを母親から奪って連れ出したのは私です。その後は、院のお言いつけ通りに殺めるべきか悩みました。悩みに悩んでどこか里子にでも出そうかとも思ったのですが、どうしても腕の中のあなたが愛おしくて手放せませんでした。院の命に背いたことを知られるわけにもいかず、私は密かに九条院様にあなたを託したのです。そのために、資隆殿と尼君殿は、一度もあなたを見たこともないし、姫宮か皇子かすら知らされぬままでした。先日までご自分の孫は、九条院女房である娘と共に死んでしまったのだと思っていらっしゃったとのこと。御子様ご存命を知り、九条院様が旅立たれた今となって、再三お手許にとお望みでした。やっと対面が叶うのですが、御子様のことをあちらは何も知らないわけです。お母上は、あなたをお産みになってその日中には息を引き取り、資隆殿たちとの対面はされていません」 
 なぜ自分を殺めよと、父院が言ったのか――。その疑問は解消されず、ずっと小刀のように胸に刺さったままだったが、改めて成親からまたこう聞いてしまうと、胸からあふれ出た血が世界を染めていくような気がした。
 御子は、悲しそうに微笑む成親に握られている自分の手を見た。頼りない小さな手である。あるといえば琴をつま弾く時にできる指先のたこくらいだ。
「ご心配には及びませぬ。父様のご意向通り、私は当分男として振る舞おうと存じます」
 成親は、御子の様子が今までと少し違う気もしたが、九条院を亡くしたからだろうと合点した。
「院があなたを受け入れてかわいがって下さり、離れられぬほどになったら、真実を明かしましょう。きっと、そのころには院も情に負けてあなたを受け入れると思うのです」
「父院様は入道相国の首をお望みです。噂を聞けば聞くほど、清盛を討つのは確かに妥当かと存じます。私は今後、その策を探っていこうと思います」
 成親は、このような少女がどうやって清盛の首をとるのだと悩みながらも頷いた。
 資隆邸につくと、祖父の資隆と曾祖母の尼君が迎え出てきて、手を引いて中に導いた。
「後白河院の御落胤であらせられます。本来なら、第九皇子に当たられる方ですが、親王宣下は戴いておりません」
 成親が畏まって御子のことをそう告げると、資隆は、
「承知しております、承知しておりますとも。わが娘が生んだ後白河院の御子に違いありません。大事に養育し申し上げまする」
「ほんに、よう生きておいででした。あのように早産であるのなら、もっと早くに里下がりさせるべきだったと、どれほど嘆いたか」
 尼君は袖で目頭を押さえた。
「母上様は、里下がりなさらなかったのですか」
「あと数日でこちらに帰ってくる予定だったのですが、思いの外早く、月足らずで産気づいて。御子様は、九条院様の御屋敷でお生まれだったのですよ。我が邸でお生まれあそばしていたら、このように長い間あなたを失わずに済みましたものを」
「そのことに関しては、私も何とお詫びすべきか……」
「いや、権大納言様には、感謝申し上げております。よくぞ御子を守って下さいました」
 資隆は、成親に丁寧に頭を下げた。 
 御子は孤独になることを覚悟していたが、ふいに寂しさが襲ってくる。
「父様が私と共に住んで下さればいいのに」
 帰ろうとする成親の背中に、御子はつい呟いてしまった。成親は困った顔で振り向いた。
 成親とは猶子や養子の契りもない。ただ、御子養育に尽力してくれただけである。ふと、なぜ成親が自分をこれほどかわいがって気にかけてくれたのかという疑問が頭の中に浮かんだが、自分を殺せなかったという話からして、情の深い方なのだろうと腑に落ちていた。
 成親にはたいへん大事にしている妻と子がいるらしい。そこへ、養子に入れてくれなどと、思いついたにしても言ってはいけない気がした。御子はすぐに、
「時折、こちらに私に会いに来てくださいませ」
 そう笑顔を見せて、困り顔の成親を見送った。
 御子が与えられた居室は東の対屋の、日当たりのよい大変気持ちのよい一室であった。乳母子である當子も共に御子の身の周りを世話する女童として同室しているし、仲影も随身として常に御子に付き従っていた。乳母の大和御前も共に世話係として資隆邸に来た。いつも見える顔がいつもと同じく傍にいるのに、御子の心はやはり虚しい。
「母院様が恋しい」
 ついそう口に出しては、どうにもしようのない無力感に襲われた。今や御子の居場所は、ここ藤原資隆の邸しかない。
 せめて後白河院が院の御所へ迎え入れてくれたら――。
 そんな考えを持っても、それは当てのない思いであることを思い知っていた。父院の御所法住寺殿に参内したあの日の帰り道、牛車の中で清盛の首を所望されたと話すと、成親は苦笑しながら「それはいかようにもしがたい無理難題。いかなる公卿とても、できようはずがございません。それを御子に命じられるとは」と嘆息し、呆れた様子だった。
 後白河院と清盛は表面上は手を取り合っているが、今や水面下では互いに牽制しあっていると聞いている。清盛の傍若無人ぶりにずっと我慢を重ねていた後白河院が、建春門院の死を契機に我慢の緒を切ってしまったとしても仕方がないのだろう。
 清盛とはいかなる人物なのだろう。武家ながらも絶大な権力を持つということだけは聞き及んでいた。確か、大輪田泊に「福原」という町を作っていると聞く。その町は、宋との交易で栄え、小さいながらも大変豊かであるらしい。そこへ行けば、清盛なる男に会えるのか、会えれば、清盛の首をとることもできるのだろうか。
 御子の頭にはそんなことが渦巻いていたのだった。
 
 育ての母九条院が亡くなった年も明け、翌年の弥生に入った。
 ふと、自分の指先の琴のたこが薄くなっていることに気づき、長い間弾いていないことを思って、邸の女房に琴はないかと尋ねた。しかし、琴などないという。生みの母九条院女房は琴の名手だったはず。ないはずがない。御子は自分の住まう東の対屋の塗籠を探したが見当たらず、寝殿の塗籠の方へ入った。
 土壁で囲まれている塗籠の中は暗い。灯りをともそうと探っているうちに目が慣れて、琴の納められていそうな箱を見つけた。案の定、中には螺鈿の美しい琴が入っていた。御子は早速東の対屋へ持ちだそうと、琴を胸に抱く。その時、近くで声が聞こえた。
「もう少し頻繁に権大納言殿も来られると思っていたが、御子を預けたきりではないか。何とか後白河院様に取り継いでいただかねば、御子のご身分が取り戻せぬ」
「ご身分は取り戻すに越したことはないけれど、無理をしても仕方ありませんよ」
 どうやら、祖父資隆と曾祖母の尼君が話しているらしい。
「しかし、諦めきれませぬ。後白河院の隆子へのご寵愛は、それは深いものでした。隆子は美しい上に心根の優しい娘でしたから、院も御心を預けられたはず。だからこそ、です母上。だからこそ、院にお認め戴きさえすれば、帝位を狙うことも夢ではありませぬ」
 御子は、背中がぞくりとした。いったい祖父と曾祖母は、何を目論んでいるのだ。
「たしかに、我が家には、大変な栄誉にほかならないでしょう。しかし、他にも立太子なさる候補がいらっしゃるのだから」
「そこはそれ、院の寵臣であらせられる成親殿のお力をもって……」
 御子は、腹に据えかねて、ゆらりと塗籠から二人の前へ姿を現した。二人は口を覆って御子を仰ぎ見る。御子は手に琴をもったまま立ち尽くしていた。
「お祖父様、大祖母(おおばあ)様、あなたがたは、私を……」
「おお、御子や。誤解しないでおくれ」
 尼君は急いで取り繕おうとするが、資隆はむっとしたままだ。
「いや、これは御子にも覚悟を決めて頂かねばならぬ問題。我が家の一員なのだから、我が家の興隆のためにも、もちろん役に立って頂かねば」
「あなたがたは、利用するつもりで、私をお引き取りなさったのか」
 御子は思わず琴を落とした。途端に、資隆の眦が上がって、琴を急いで手にした。
「これはお前の母、隆子の形見だぞ。隆子を奪っただけでなく唯一の形見でさえも奪うつもりか。恩を仇で返す気か」
「なりませぬ!」
 大急ぎで尼君は、資隆と御子の間に入った。
「御子に罪があるわけではないでしょう」
「しかし、隆子を死なせたのは、この御子ではございませぬか。どれだけ迷惑をかければ済むというのだ、これで帝位につくこともないというなら、ただでは済まさぬぞ」
「資隆!」
 尼君が厳しくそう言い放つと、資隆は気持ちもまだ収まらぬ様子で、寝殿から出て行った。尼君と御子だけがその場に残った。尼君は、恐れを抱いたような目を御子に向けた。
 その目を見て、先程の資隆の言が偽りではないことに、御子は気づいた。御子がここに引き取られたのは、後白河院の御落胤であるためだと。自分を帝の位につけて利用するつもりで、祖父と曾祖母が自分を引き取ったのだ。
 以前成親から、現在の帝は清盛の血筋の御方であり、清盛はこの世で最も力を持った存在になったということを聞き及んでいたし、二百年ほど前のある公卿の日記や書物には、そうやって藤原北家が政権を握った過去が、幾度となく記されていた。御子は思わぬ道に足を踏み入れたことに気づいた。
 おそらくここの一家は、成親から皇子であると聞いてそのような考えに至ったのだ。もし、今、自分が女だと告げたら、この者たちはどうするのだろう……。
 御子は、立ちあがって尼君に背を向け、息を整えようと庭を見た。呼吸を整え、気持ちの高ぶりは鎮めたが、腹の底は燃えるように熱く、胸の奥は疼くように冷たく感じていた。
「大祖母様、母上は、どのように亡くなったのです……」
 尼君は、御子の背中を見上げつつ、懐かしむように目を遠くした。
「真のところは、この婆にもわかりませぬ。ただ、この婆も気になって調べてみたのです。九条院邸で御子を産み、その後、奇声を発したので女房どもが駆けつけてみると、お産を助けていた女房二人の姿も見えず、生まれたはずの御子もおらず。隆子はまだ下血が続いている体で、血を滴らせながら御子を探して歩きまわっておったということです。その後もなかなか血が止まらず、そのまま亡くなったと。御子を失ったのが衝撃だったのでしょう。血がなくなってしまうまで、御子を探し求めたのだと思います」
 弥生だというのに、冷たい風が御子の喉元をかすめた。院の命に従って父成親は御子を奪い、奪われたことで母は死んだのか。
 自分は、果たして生まれてきてよかったのだろうか――そんな思いが御子の胸によぎった。力なく自室に戻ったが、どうにも居心地が悪く、御子は、仲影を連れて中御門烏丸にある成親邸に向かった。資隆の思惑を暴露し、自分の今後のことも話しあおうと思った。
 大路の満開の桜が、はや散り始めている。まだ午前だというのに、市井の京人(みやこびと)たちは、わらわらと道を急ぐ。ずいぶん人出が多い。御子は、声の掛けやすそうな女を見つけて、
「今日は何かございますか。人出が多いようですが」
 女は先を急いでいるのを邪魔されて苛立たし気に振り向いたが、みずらを結った水干姿の見目麗しい童だったのに気を和ませたのか、女人特有の優しい笑顔を見せた。
「もうすぐ、二条大路を院が福原へ御幸しはるというので、みんな急いでおりますのよ」
「福原へ!? 清盛のいる場所ではないですか。なぜそのようなところへ行くのです」
「去年建春門院さんが亡くなりはったやろ? その供養をあちらでしはるって」
 供養……そうか、建春門院といえば清盛の義理の妹、平家の女性だからか。
「もしかしたら、院は物見を開けて私らに愛想なさるかもしれへんからね。四宮さんといわれた時分から市井に交じって遊びをなさるお方やったから」
 あの父上様が、市井に交じって遊びをなさる……。俄かには信じがたかったが、一目見られるかもしれないとの淡い期待を胸に、御子も人波みに混じった。福原御幸の行列はすでに始まったようで、貴人の牛車が通る度に京人から歓声が上がる。御子はその人波の間を泳ぐようにして、何とか行列が見えるところにまで出てきた。
「権大納言さんや」
 誰かがそう叫ぶと、女性陣から黄色い歓声が上がる。歓声に包まれた豪奢な牛車は、少しだけ物見窓を開けて、歓声に応えるように扇を外へ見せた。
「いやぁ、扇だけやなんて」
「父様!」
 御子はつい声を上げて、行列に向かって走り出した。
 その声に反応するように物見がさっと開いて、成親が顔を出した。成親は御子を認めると、御子の後ろにいる仲影に扇をすばやく動かして、御子を止めるように促す。仲影も焦って御子を捕まえたので、院の行列を乱す事態に及ばずに済んだ。
 成親の心配そうな顔を残して、豪奢な牛車が通りすぎると、ひときわ大きな歓声と拍手が沸き起こった。御子は目をそちらに向ける。
 別格に堅固で華やかな大きな牛車から、後白河院は玉願を顕わにして、京人たちに手を振っている。先日対峙した後白河院とは、まるで別人のように愛想のいい笑顔だ。
「ふん。何故我を連れて行かぬのだ」
 隣に立っていた男が憎々し気にそう呟いた。見上げると、その男と目が合う。真っ白に化粧し、薄い唇に紅を引いている。衣装から貴族とわかるが、その目つきの怪し気なのに、御子は身震いをした。御子があまりまじまじ見るので、男もじっと見つめ返してきたが、ふいに不機嫌そうに、背を向けてどこかへ姿を消していった。
 その間にも、後白河院の気を引こうと、路上の遊女たちは今様を口ずさみつつ舞って見せ、人々は拍子を打つ。御子は、その様子を呆然と見ていた。笑顔の後白河院の視線と、御子の困惑した視線とがぶつかる。と、後白河院は刹那笑顔をひっこめ、片方の眉を上げたが、御子に不敵な笑顔を見せて通りすぎていった。
 後白河院の牛車を追って、京人たちはぞろぞろと移動していく。波が引いた後の海辺の岩のように、御子は一人佇んでいた。
「供養に行くにしては、何とも華やかだね……」
 ふいに後ろで落ち着いた低い声がして、振り向くと見るからに品のよい公達がいた。その横顔は、大変高貴な線を描いていて、少々鷲鼻気味。整えられた美しい眉に、切れ長の涼やかな眼差しが、御子の心を捕らえた。
「父院様……!」
 ついそう口に出してしまった。それほどに、その男は後白河院に似ていた。唯一、涼やかな眦だけが、後白河院の大きな鷹のような目とは違うが……。
 男は、御子の声に反応して、微笑んで見せる。
「はて、確かに私は子が多いが、そなたは初めて見るお顔だね」
 と、おかしそうに笑った。
「すみません、あまりに後白河院の御顔立ちに似ていらっしゃったもので、つい……」
 御子のこの言葉に、男の切れ長の目が大きく見開かれた。それを見るにつけ、いよいよ後白河院にそっくりだ。背が高く二十代半ばであろうか、焚き染めたほのかな薫香も高貴なこの男は、十二歳になったばかりの御子を見降ろした。
「では、そなたは、後白河院を父院様と呼んだのか」
 御子は思わず口を両手で覆った。そして、急いで礼をすると、踵を返した。が、すぐ後ろにいた武士にひょいと抱え上げられた。
「は、放してください!」
「御子様!」
 御子を救おうと、仲影が武士の腕に手をかけた。が、その武士は御子を肩に担ぐと、もう片方の手で簡単に仲影の腕をひねり上げた。
「これ、信連(のぶつら)。相手は童ぞ」
 男がそう言うと、仲影の腕をつかんでいた武士は力を緩め、御子を地面に降ろした。が、しっかりつかんで二人を放さないままだ。
「落ち着きなさい、童よ。怖がらずともよい。この男は長谷部(はせべ)信連(のぶつら)という剛の者。心根の優しい男だ。怖くはないのだよ」
 男は御子の背中を撫でて、
「その随身が、そなたを御子と呼んだが、つまり、そなたは後白河院の……」
 御子は何とも言いようがなく黙り込む。男は御子の顔を覗き込んでいたが、ふと優しく微笑んだ。
「大和より贈られた葛の菓子があるのだ。我が邸に参られよ」
 御子は必死に首を横に振った。が、男が目で合図すると、周りから数人の武士(もののふ)どもが現れて、御子たちを取り囲んだ。仲影も身動きができない。否が応にも、御子は男に従ってゆくよりほかなかった。

 男の邸は瀟洒だった。三条高倉にこれほどの邸を構えられるということ、そして男の立ち居振る舞いから考えても、そうそう危険な者という感じはしない。しかし、強引に連れてこられたのだから、御子は警戒を解くことはできなかった。
 御子は、寝殿の孫廂に通された。仲影は、庭先に信連と呼ばれた武士に見張られて、敷石の上に座らされている。
 しばらくして先ほどの男が、衣替えをして入ってきた。後ろから女房たちが、菓子、木の実の乗った高坏を持って従う。めったと手に入らない葛を煮詰めて作る粉熟(ふずく)という菓子もあった。
「そなたの随身の名は何というのです」
 御子から名を聞くと、男は、「仲影、そなたもここへ上がってきなさい」と手招きした。当惑顔の仲影が、御子の少し後ろに控えて腰を下ろした。
「ささ、遠慮なく召されよ」
 仲影にも、御子と同じくもてなす。御子は、菓子に手をつけるふりをして、男を見上げた。男は視線に気づき、おかしそうに笑った。
「先程行列を見ながら横の男と話していたね。紅を引いていた男だよ。知り合いかな?」
 御子は首を横に振る。
「あの男は、気をつけた方がよい。陰陽師の安倍泰親という男で、ずっと後白河院の周辺をうろついているのだ。……それより、そなた、名は何と申す」
 御子の胸は切り裂かれたように痛んだ。
「……名は」
 男は微笑んだまま、答えを待っている。適当な名でも伝えようか、それとも教えないといって逃げようかとさんざん逡巡したあげく、御子は、
「……名は、ございません」
 男が心底驚いたように眉を上げた。
「では……お母上はどちらの……」
 そう聞かれて、御子は言いよどむ。すると、男は、膝の上で扇を畳んだ。
「失礼した。まずはおのれが名乗るべきであった。私は以仁王。この御所の場所から、高倉の宮などと呼ばれている。親王宣下を頂けていない、後白河院の第三皇子である」
 御子は、手にしていた粉熟を落とした。
「私の兄弟は、二条の帝だけなのだと思いこんでいました……」
 御子がついそう呟くと、以仁王は優しく微笑んで頷く。
「そうか、ではそなたも、私と同じ院の皇子なのだな。院の皇子はもう覚えきれぬほどにたくさんいらっしゃる。しかし、名を頂けていないとは、いかなることだ」
 御子はいつの間にか警戒を解いていた。
 理由は不明だが、自分は生まれながらに後白河院に憎まれ、いまだに名を頂けていない。養育してくださった九条院は昨年はかなくなられ今に至っていることなどを話した。以仁王はいちいち感心したり驚いたり、時には涙を眦に湛えながら御子の話に聞き入った。
「私の身の上も、それなりに悲しいと思っていたが、そなたのは比ではないな」
「以仁王様の御身の上とは」
 以仁王は、少し微笑んでから、
「私は生まれて間もなく、叡山に入れられたのだ。そこで、天台座主である最雲様に導いて頂き、仏道修行に励みもしたが、なぜ父院様が私を蔑ろになさるのか、そなたと同じように、ずっと理由を考えていたよ。しかしいくら考えても、答えなど出ようはずがない。そうこうしているうちに最雲様がお亡くなりになったので、それを機に還俗したのだ。その後、父院にお目通りもしたが、叡山に入れた理由もお答えいただけなかった。とても不安で、自分自身が良く分からなくなってしまってね、そこで、密かに一人で元服した」
「お一人で、元服なさったのですか、烏帽子親もいらっしゃらぬままに!?」
「権力も財産もない私に味方する者など、一人もいなかった。ましてや親がわりともなる烏帽子親など、誰が引き受けてくれようか。あれは、永万元年だった。人目を避けて大宮御所に入り、元服したのだ」
「永万元年……乙酉の年ですね。私が生まれた年です」
「そうか、そう言えば二条帝の崩御なさった年でもある」
 しばし、以仁王も御子も黙り込んだ。庭の鑓水の流れる軽やかな音だけが、途切れることを知らぬように響いている。
「兄帝が亡くなり、私も元服して生まれ変わり、そして、そなたが生まれたのか。なにか、因縁めいた年であるね……」
「……以仁王様は、権力も財力もないとおっしゃいましたが、その後どうやってこちらの御所に入られたのですか。私も何とかして自分の邸を持ちたいのです。小さくてもいいので、気がねなく寝泊まりできるところが欲しい」
 以仁王は、おや、と眉を上げた。
「肥後守資隆殿は、御子を足掛かりとしたいのであろう。だったら大事に扱わせればよい。御子は堂々としていればいいのです。私は、幸運にも父院の異母妹であらせられる八条院暲子(あきこ)様が、私のことをお聞き及びになり、猶子としてくださったのだ。建春門院様がお許しにならなかったために、皇位継承からは外れてしまったが、私には私の生き方があるのでね。なにも帝になったり権力を得ることばかりが人生の目的ではない。だからそのようなものに執着のある者は、かえってこちらが利用してやればよいのだ」
 まるで自身の心に刻み込むように、以仁王はそう言った。
 ――人生の目的、自分の生き方。そんな考え方があろうとは、御子はつゆにも思わなかった。ただただ父上様に認めて戴きたく、それが叶わぬのでもどかしい日々だった。九条院がなくなった今、父院との縁を放棄してもよさそうなものだが、実の母もおらず、母の実家での寂しさが募るのか、はたまた、半ば意地になっているのか、どうにも父院に認めてもらわねば、気が済まぬ気になっていたのだが……。自分にも、自分の生き方や人生の目的などというものを見つける日が、来るのだろうか……。
「御子、もうそろそろ御邸に戻りませんと……」
 仲影が不安そうに言った。日は傾いて、空が少し赤く染まり始めていた。
「すっかり長居してしまいました。これでお暇いたします」
 以仁王は、牛車を出して御子を送る手配をした。車宿りにまで見送りに出て、牛車に乗ろうとする御子の手をとった。
「いつでも参られよ。毎日でもよい。気をつけて帰るのだよ、弟よ」
 御子は、思わず以仁王を見上げた。初めて感じる肉親の情が、御子の心の芯を熱くした。が、資隆邸に戻ると、その熱はまるで炎を含んだ氷の塊のようになった。御子の帰宅を聞いて、尼君が心配していた様子で、すぐに御子の居室にまで来た。
「今までどちらにお出ましだったのです。この婆の心配をいま少しお考えなされ」
「心配? 権力が持てなくなる心配ですか」
 御子は、不遜な眼差しを尼君に投げた。今はそういう態度をとることで、何とか自分の気持ちを保たねば、とてもこの邸で過ごせそうになかった。御子の反抗的な言葉に、尼君は少なからず衝撃を受けたようだった。
「おお、御子、許しておくれ。お祖父様は、何も本当にお前が憎くてあのようなひどい言葉を投げたのではありません。我らは本当に純粋にお前が生まれたことを喜んで……」
「尼君、私のことを、お前、などと呼ぶのはおやめください。畏れ多くも院の血を引いているのですよ」
 御子はいつになく静かな声で言った。尼君は悲しそうな顔をして、しばし曾孫を見つめていたが、やがて指をついて深々と頭を下げた。
「まことにご無礼を仕りました。お許しくださいませ」
 そう言うと、そのまま静かに御子の居室から出ていった。
 御子はその場に座り込むと、膝を抱えて顔を隠した。涙がとめどなく溢れた。悔しくて寂しい。そして、不思議と申し訳ない気持ちに胸が引き裂かれた。

 福原での建春門院滋子の千僧供養を終え、明日は京に帰るという晩――。
 海の風が心地よく抜けるのを感じながら、後白河院は、ここへ来る時に見た御子の姿を思いだしていた。
「いかがなさいました、何か楽しいことでも?」
 横で、成親が院の盃に酒を注いだ。
「見物に交じって、何やら叫んでおったな」
「御子のことでございますか。心が真白な童ゆえ、院に認めて頂きたい一心なのですよ」
 後白河院は、片眉をぐっとあげて、横に座っている成親の顔を見る。
「もうそろそろ、正直に申してはどうじゃ。いかようなる思惑が働いた」
「何のことでございましょう」
「なぜあやつを仏門に入れず、九条院に養育させたのだ。位につけようとでも思ったのか」
 成親は、美しい眼差しを後白河院に向けて、驚いて見せた。
「まさか、そのような恐ろしいことは思いも致しませぬ。九条院殿がお寂しそうなところへ、父母の手を離れた赤子がいる。これは縁だと思ったのです」
「ふん」
 後白河院は、鼻で笑いながら盃を口に運ぶ。
「いえ、もしかしたら、赤子(ややこ)が欲しかったのは私かもしれません。院と私のかすがいとなる赤子を……」
「朕を思いのままにできるとでも思うていたら、お前もそうとうめでたいぞ」
「滅相もございません」
「まあ、よい。役に立つか立たぬか、よく見ておいてやろうではないか。何の役にも立たぬようなら、捨ておくまでよ」
 後白河院は、成親の顔の前に盃を差し出した。成親は、穏やかに微笑んで盃を受け取ると、声をひそめた。
「あのような幼子に清盛の首をなどと……院もお人が悪い」
「お前があやつに代わって動いても構わぬのだぞ。お前を父様父様とずいぶん慕うておるようではないか」
「院のご要望は、いつも無理難題でございまするなぁ……。しかし、考えてみましょうか。もうそろそろ、私の堪忍袋の緒も切れかかっておりまする」
 後白河はそれを聞いて、嬉しそうに微笑み、成親の膝に手を置いた。

三、鹿ケ谷

 以仁王と出会ってから、およそ一月ほど経った四月末のある夜中――。
 京に大火が起こった。火元は樋口富小路。御子たち肥後守の一家は、早々に逃げおおせて無事であったが、邸の半分を焼失した。翌朝、逃げついた高台から京を一望すると、まるで、京などそこになかったかのように崩れ落ち、遠く東の城郭が望めるほどだった。京の様子を見てきた京人が、おおよそ京の三分の一が焼け崩れているようだと話した。主だった貴族の邸は軒並み炎に焼き付くされ、はては大内裏の大極殿にまで及んでいたと聞き、御子は、父院や成親、以仁王のことが気にかかった。
 家族を残し、御子は焼け跡を歩いた。
 父院の御所法住寺殿、中御門烏丸の成親の邸は無事だった。つぎに以仁王の邸に向かう。
 近づくにつれ、三条高倉の邸の無傷な様子がわかった。邸の前までくると門が開いていて、中には焼き出された人が大勢いた。恐る恐る中に入ると、長谷部信連が、大きな櫃を重ねて運び出してきた。
「さあ、皆の者、以仁王様からの施しじゃ。とりあえずは食ろうて力をつけねばならぬ。ささ、屯食(とんじき)を食え。一人一つじゃ。水もあるぞ」
 櫃の中には、大きく俵型にまとめられた蒸米がいくつも入っていて、民たちは力なく体を起こすと、一つずつ受け取っては口にした。食べ始めて突然泣き出す者も、無心に口に放り込んでいる者もいた。
「おや、御子、ご無事であったか」
 すぐ後ろで聞きおぼえのある声がして、以仁王が現れた。御子は、申し訳なさそうに、
「お恥かしゅうございます。自分は、今身を寄せている屋敷が焼けたことや、父様の心配など、自分のことばかりが気にかかっていましたが、兄宮様は、焼き出された民のことをお思いになる。これほど器が違うものかと、自らを恥じ入ります」
 以仁王は、「ははは」と笑って御子の肩に手を置いた。
「恥じる必要はない。ここまで来たということは、私の心配をして訪ねてくれたのであろう。ちゃんと人のことを心にかけているではないか。兄は、大変嬉しく思うよ」
 以仁王は、御子の頭を胸に抱えて撫でた。以仁王の衣からも自分と同じく煤の煙たさがたった。自分の兄が素晴らしい仁の人であることが、御子は嬉しくてにわかに胸が熱くなった。

 大火から五日後、以前から続いていた後白河院と延暦寺の敵対関係が急速に悪化した。後白河院が過去の罪状を持ちだし、天台座主明雲を捕縛したのだ。延暦寺の僧たちは山から下り、明雲の身柄を奪還した。それを受け、後白河院は延暦寺攻撃を目論んで、福原にいる清盛に軍勢を伴って上洛し事態を納めよと命じた。
 夏も盛りの五月末日、補修で落ち着かぬ資隆邸を抜け出て、御子は、仲影と當子を供に以仁王の邸に訪れていた。
「危ういな。父院は、自ら火種を洛中にお招きなさったのだ」
 以仁王は厳しい顔だ。清盛は、院の命に従って洛中の警護にまわり、武装している者は片端から捕縛していた。
「それなのに、ご自身は近習を集めて鹿ケ谷山荘に籠もり、叡山攻撃の算段をなさっているとのこと。あれだけの軍勢を京へ入れるとは。飼い犬に手を噛まれなければよいが……」
 御子には、情勢は読めなかった。以仁王の圧倒的な情報収集能力には、御子は適うはずもなかった。しかし、この兄宮の許、お供していれば必ず、自らの成長は見込めるだろうし、清盛を討つ機会を得ることは可能だろうと考えていた。
 資隆邸に戻ると、珍しく成親からの文が届いていた。明日、渡したいものがあるので御子に会いに来るという報せだった。ずいぶん長く会っていないので、もう父は自分のことはどうでもよいのだという気持ちがよぎりもしていたが、こうやって気にかけてもらえていると思うと、御子の心は軽くなり、喜びが甦った。
 ところが、翌日、約束の刻限になっても、成親は現れなかった。待っているうちに日が傾いて夕刻になった。御子の心は、次第に冷たい穴が掘り下げられていくようであった。見兼ねた仲影が様子を伺いに京に出た。が、すぐに息を切らして駆け戻ってきた。
「一大事です、成親様が清盛に捕らえられました」
 御子は、仲影の言葉をすぐには飲みこめなかった。
「え? 清盛が、なぜ」
「分かりません。とにかく、今朝、急なお召しで参内したところ、高倉帝の御面前で捕縛されたと。今は西八条にある清盛の別邸に籠められていらっしゃるとのことです」
 御子は邸を飛び出した。八条の方へ向かおうと足を進めていると、京人が眉を顰めてざわつきながら、北へ向かって歩いている。今から五条西朱雀で罪人の処刑が行われるという。それを聞いた御子は血相を変え、五条に向かった。仲影も後に従う。五条に近づくほど人が多くなり、西朱雀につくと、既に人だかりができていた。
「お可哀想に」
「入道相国の首をとる算段をしておられたらしい」
 まさか、まさか父様、私のために――。
 気が狂いそうになりながら人垣に分け入って最前列に出ると、そこには太刀を抜き、仁王立ちになった武士がいた。そしてその足許には筵がしかれ、そこに座っているのは――
「父様……ではない」
 今まさに首を斬られようとするその男は法衣を着た男だった。かがり火に太刀がきらめいたと思うと、髪のない丸い頭が、ごろろと転がった。観衆らは悲鳴を上げる。転がった顔は見たことのない男だった。
「御気の毒や」
「何が気の毒か、西光法師こそが、此度の比叡山騒動の元凶ではないか。天台座主についての讒言を後白河院の御耳に吹き込んだのは、こ奴だと聞いたぞ」
「わしも聞いた! そのせいで、どうじゃ、叡山の僧兵は山から降りてくるわ、平家の軍勢は京のそこかしこにおるわ、なんとも不穏な毎日ではないか」
「しかし、入道相国のありようも、非道であろう」
 そこまで口にした男は、しまったという顔をして口を手で覆った。
 周りは平家方の兵が雲霞のごとく満ち、甲冑や武具のぶつかるガチャガチャという音が響いている。
「権大納言様も、斬られなさるのか」
 民衆の言葉に、御子の血の気は一気に引いた。
「さあのぅ、まだ西八条に籠められているらしいが」
 御子は踵を返すと、西八条邸へ向かって駆けた。
 門の近くまで来たが、物々しい警備の兵があまりに多く、門の内には血に逸った武士たちがひしめき合っていて、とても近づける様子ではない。が、御子は歩を進めて門に向かった。とっさに仲影が腕をとって、物陰に引き込んだ。
「得策ではございませぬ。今あそこに入れば、御子は出てこられなくなります」
「しかし、父様の助命を願い出るよりほかにない」
「嘆願しても意味がございません。清盛は聞き入れますまい。とにかく事情が分かりませぬ。以仁王の許へ行かれるのがよいかと」
「そ、そうだ、とりあえずは兄宮のところに行こう」
 御子は、目が覚めたように頷いた。
 高倉の御所につくと、以仁王は文を開いていた。
「今、やっと経緯が分かったところだ。どうやら、今朝、緊急に帝に召され、参内するとすぐ捕縛されたらしい。捕らえられたのは、権大納言殿と西光殿だ。いずれも父院の側近中の側近だ。他にも幾人もあちらこちらでからめ捕られておる。みな、昨夜は鹿ケ谷山荘に参じた者どもだ。どうやら、謀反の疑いありと……」
「謀反!? ありえませぬ。父様は朝廷にも後白河院様にも誠心誠意つくされて」
「いや、平家に、ということらしい。昨日の鹿ケ谷山荘で、父院と共に平家打倒の謀議を持ったとか」
「平家! 平家を討つのに謀反と呼ぶなど、勘違いも甚だしい。今や清盛など朝敵ではございませぬか。何という思いあがり」
 御子は激しく床を殴った。その激しい音に簀子縁の仲影もはっと御子を見た。以仁王に会って以降、御子は気質が堅くなった。まるで本当に男のように考え振る舞っている。仲影は、心配げに御子の背中を見た。
「しかし、まことに、平家打倒の謀議が行われたのだろうか。軍兵を伴わせた清盛を洛中に自ら招き入れておいて、その男を追い落とす謀議とは、信じられぬ」
 以仁王は首をひねる。そこへ、長谷部信連が颯爽と現れ、片膝をついて文を差し出した。
 以仁王は急いで開くと、文字を目で追い、ほうっと息をついた。
「御子、ひとまずは案ずるな。権大納言殿の妹君は、清盛の長男平重盛のご正室。重盛殿が執り成して、命だけは助かったらしい。ただその代り備前国に配流にするという話が出ていると。それも、明日出立とのこと」
 御子は、その場に倒れ込みそうになったが、床に両手をついて体を支えた。
「一旦、横におなりなさいませ」と、長谷部信連が、御子を心配そうに覗き込んで手を伸ばしたが、御子は頑なに首を横に振った。
「今は倒れ込んでいる暇などない。何としても父様をお救いせねば」
 以仁王は、とんでもないと言わんばかりに、御子の肘をつかんだ。しかし、その腕に御子はすがって、
「西八条邸はとてもはいり込めぬほど、軍兵雲霞のごときありさまでした。となれば、明日、出立後の道中を狙うよりほかございません」
「御子様、お気を鎮めなされませ」
 信連が驚いて声を上げた。が、御子はもう何も耳に入っていないようで、立ちあがると以仁王の目の前でうろうろと歩きまわり、両手の指を組んだりほぐしたりしながら、ぶつぶつ言いだした。
「西八条からとなれば、賀茂川から大物へ向けて船で運ばれましょうか。いや、清盛のことだ、見せしめに洛中を歩かせるかもしれない。そうなれば、西の城郭を出て陸路で備前国へ向かうか。だとすれば、洛中か洛外か……。洛中のほうが身を隠しやすく、少人数のこちらとしては有利。しかし、清盛の兵が多すぎる。となれば、やはり洛外か。しかし洛外なら、逃げる手はずを整えておかねば……ああ、時が足りぬ。なぜ明日なのだ!」
「そなたのような者がいるからだよ、弟よ」
 以仁王は、まるで氷のように冷たい声を放った。
「そうやって権大納言を救いださんとする者に隙を与えぬために、捕縛してすぐ配流となるのだ。おそらく明日は早朝に出立となるだろう。清盛は、先を読んで行動している。すでに後手に回ってしまっている我々に、今の段階ではなす術はないのだ」
 御子は、困窮極まって以仁王を見つめた。
「権大納言に返り咲きの機があるとすれば、それは、後日だ。いったんは配流されるだろう。が、情勢は日々刻々と変化している。その危うい情勢の中で、おそらく我らの父院が条件を出して権大納言を許すよう清盛と交渉するだろう。それを待つよりほかない」
「父院様が、お助け下さいますか」
「分からぬ、が、助けることのできる方は、父院しかおられぬ。我らがどうあがこうと、兵も持っておらねば兵を動かす力もない。清盛と渡り合えるのは、この世にただお一人後白河院だけだ。ただし……」
 御子は息をのんで次の言葉を待った。
「そのお力も、いつまで保てるか……」
 御子は唇を引き結んで青ざめると、急ぎ資隆邸に戻った。
 女房装束に着替えると、仲影を供に上等の牛車に乗って西八条邸に赴いた。そして、敵の油断を誘おうと、わざと牛車から降りて、女房姿を見せた。
「小松の内大臣重盛様は、こちらにいらっしゃいまするか」
 一か八かに掛けて、門前の兵の前に出た。兵は、訝し気にじろじろと御子を見る。着慣れぬ女房装束だったが、かもじをつけて髪も長くし、化粧も施している。疑われることはないはずだ。御子は恥じらうように微笑んで、九条院から下された衵扇を広げ、面を隠した。
 兵ははっとしたように、少々かしこまった。上物の衵扇に御子の所作でやんごとなき御使いと思ったようである。
「いずれの御所よりの女房殿か。名乗られよ」
「故あって名乗れませぬ。ただ小松の内大臣殿にお伝えせねばならぬ由がございます」
「申し訳ござらぬが、内大臣殿は一旦小松殿にお帰りです。そちらに参られよ」
 御子は、一瞬困ったが、ここで引くわけにはいかない。
「ならばこちらで待たせて頂きとうございます。相国殿にもお伝えせねばならぬ義でございますので、内大臣殿がまたお見えになったら、お二人に申しあげましょう」
「しかし……」
「いと高きところにまします、さる御方からのご下命なれば、ここで帰させなさっては、後々の禍根となりましょう」
 誰とは言わないが、帝か院かあるいはいずれかの宮の使いであり、このまま帰らせたら、そちらに災いとなると脅した。それが効いて、中に通された。磨きに磨いた黒光りする床の大広間は、余計な調度など一切ない。主の気質が見て取れた。
 人がいなくなるのを待って、成親の居場所を突き止めようと思っていると、すぐに清盛の訪れを家人が告げた。御子は冷や汗をかきながら、軽く頭(こうべ)を垂れ、顔を扇で隠したままかしこまった。
「お待たせ申した。重盛は、今宵こちらにまた参るかどうかわかりませぬゆえ、わし一人で承りましょう」
そういって、堂々と上座にどかりと腰を落とした。不遜だ、王家の使いを匂わせたのに自分が上座へ座るとは、と御子は感じながらも、扇の端から清盛の顔を見た。
 髪はすべて剃り上げ、派手派手しい朱の僧衣を纏っている。頑固そうに張った四角い顎と反して、目は意外と優し気だ。これが、清盛なのか。 
「権大納言様をいかようになさるのか、相国様の御裁可を伺って参れとのご下命でございます。不躾ながら、どなたのご下命かは申せませぬ」
 清盛は、自分の膝に肘をつき、顎を撫で撫で黒光りする床をじっと見つめて、
「どなたに報告することも不要。罪人の裁可は一任されておりますでな」
「……ならば、一目なりとも権大納言殿の御扱いを拝見し、我が主にご報告申し上げましょう」
「ふむ……」
 清盛は、扇で隠した御子の顔を、じっと見据えた。
「重衡(しげひら)をこれへ!」
 急に大声をあげて、清盛は五男平重衡を呼んだ。どんないかつい男が来るかと思えば、存外の美貌。妖艶ともいうべきなよやかな公達ぶりだった。が、目の奥に、獲物を狙うような光があった。重衡は遠慮がちに、端近に腰を下ろす。
「重衡、この女房殿を、権大納言のところへ案内(あない)してさし上げよ」
 重衡は不思議そうな顔をし、御子の前に片膝をついた。
「いかなる御方でございますか」
 あまりに近づかれ、御子は辟易しながらも、「さる御方の……」と繰り返そうとした。が、その瞬間、重衡の手が御子の扇を押しのけた。つい、かっとなって、御子は重衡の手を扇ではたいた。
 パン! という音が広間に響き、その場の者どもは、はっと顔を上げる。手をはたかれた重衡は、思わぬことに尻もちをついたが、むっと唇を噛んで「貴様……」と唸るような声を出した。
 清盛のみが面白そうに見ていた。御子はなりふり構っておられず、扇で顔を隠すことも忘れ、立ちあがって重衡を見降ろす。
「控えよ! 不遜でありましょう」
「不遜、と申したか」
 重衡が立ちあがり、御子の顔の前に、その美しい顔を赤くしてつき出した。
「重衡」
 清盛が涼やかな声でいった。
「女房殿。わが愚息がご無礼仕った。おい、女房殿を権大納言の許へおつれせよ」
 清盛は、その場にいた家人に命じた。
 広間を出ていく女房を見送りつつ、重衡が悔しげに「何という女だ」と歯噛みをしたが、清盛は心底嬉しそうに声を上げて笑った。
「このように世の乱れた時というのは、いろいろなものが現(あらわ)るるものよの」
「居丈高な女だ。いずれの女房ですか」
「ふむ……いずれの女房でもなかろう。成親の女かとも思うたが若すぎる。おそらくどこぞの女が生んだ成親の子であろう。少なくとも高貴な方の使いではなない。言伝ありといいつつ何も伝えず、成親への裁可を聞いたが、わしは、すでに成親の配流を内々に帝と院に伝えておる。そこでお前をぶつけてみたのだが……」
 清盛がまた、嬉しそうに笑みをこぼした。

 長い長い廊下を通って、御子は成親の籠められている居室に通された。
 成親の頬は腫れあがり、冠はずれて参内用の束帯もあちこち破れていた。入ってきた御子を見て、成親は信じられぬ様子で腰を浮かせた。御子はその姿を見ただけで涙が溢れた。が、家人がすぐ後ろにいる。御子は、唇を震わせながら、居住まいを正して成親の目の前に畏まった。
「権大納言殿、あなたに恩のある姫の使いで参りました」
 成親は、黙ったまま何度も頷く。見る見るうちに美しい両目から涙が溢れた。
 御子は、何か言おうにも、涙で胸が詰まって言葉が出ない。黙ったまま成親の冠を直し、鬢のほつれを整えると、懐紙で頬の殴られた痕をそっと押さえた。そして成親の耳元でささやいた。
「必ず、お戻りください。父上様に嘆願して必ずや呼び戻していただきます」
 成親は、悲しそうに微笑むと、御子の手をとった。
「私のことは捨ておかれるよう、姫にお伝えください。御身第一に行動されますようにと」
 成親と女房がこそこそ話し始めたので、家人が訝りはじめた。
「女房殿、もうそろそろ出られよ」
 家人の視線を気にしながら、成親は声を潜ませる。
「お健やかに。遠くで姫君の幸せを祈っておりますとお伝えください。一時儚い夢も見ましたが、今の邸に移られる直前に申し上げたのが、この成親の本心だと」
「はよう、出られよ」
 家人が、入り口に立って御子を急き立てる。御子は仕方なく立った。が、成親の言葉が、御子を追いかけた。
「姫君に、何があってもご身分を軽んじられませんようにと、決して御身をお疑いなさいませんようにと。そう……そう、お伝えください。あ、そうだ、これを……」
 成親は懐から数珠を出すと、折れて腫れあがった指で御子に差し出した。
「昨日、姫君に、お渡ししようとしていたものです」
 御子は、黙ってそれを受け取ると、振り返り振り返り、身を斬られるような胸の痛みを抱えてその場を去った。
 渡殿を通って、そのまま門の方へ案内されて歩く。ふと、視線に気づいて目をやると、坪庭を挟んだ向こう側の簀子縁で、清盛が立って御子を見ていた。
 御子は、目礼をしてそのまま門から出た。
「父上、あの女をそのままお帰しなさいますか」
 重衡が御子を見送りながらそう呟くと、清盛は腕組をして少々楽し気に答えた。
「ん、まあ、そうだのぅ。堂々と正面きって入ってきたのだ。こちらも礼を尽くしてやればよい」
 
 翌早朝、昨日の斬首の興奮冷めやらぬ京の人々の見守る中、成親は西八条邸を出た。背中を押されて粗末な牛車に乗り込む。成親の牛車は、二百人もの兵に囲まれて京の大路小路を巡った。道道に京人が見送り、成親の名を呼ぶ声さえあった。御子は、西八条の門前からずっと配流の軍行について歩いた。しかし、車中の成親には、知る由もないことだった。車から見えるのは兵ばかり、そしてその向こうに、人だかりが見えるだけだ。
「儚き夢だった……」
 後白河院の懐にもっと入り込むために、また、王権を我がものにしたいという欲のためもあった。そのための院の御子だったが、慮外に難しい道だった。赤子を愛してしまった。その愛しい赤子を利用しようとしたことへの天罰か……。成親は我が身を顧みた。
 洛外に出て車から降ろされると、川辺で舟に載せられた。金銀をあしらった装飾の美しい船に乗って遊んだ昔を思いながら、ただ幕で簡単に囲っただけの屋形船に乗り込んだ。幕を少し上げて外を見ると、だんだん岸が離れて行く。京が、次第に遠のいていく。と、そこへ童が一人――。
 川岸で、黙ってじっと舟を見送っているあの子は――。
 ――御子様。
 周りを囲む兵どもに聞かれぬよう、胸の中で呟くが、どうにも抑えきれず、
「悪いが幕をあげてくれ、京の姿を目に焼き付けたいのだ。もう、帰ってくることはないだろうから」
 武士たちは互いに顔を見合わせて困った様子だったが、成親の震える声に同情した一人が、舟の天幕をすっかり上げた。
 岸に立つ御子の姿をじっと見守り、声を押し殺していたが、成親は涙を抑えきれず、幾筋もこぼした。この先の御子の命運を思えば、恨まれることは避けられない。そう思うと何とも心残りだった。
 御子は、昨日渡された数珠を握り、涙を拭いながら舟上の父の姿を見送った。父がこちらを見ているのが見えたが、その姿も川の流れにのって、次第に小さくなっていった。
 
 鹿ケ谷での謀議にかかわっていたとする人物が、次々とからめ捕られては、解官されていくという日々が続く中、備前国にいる成親には、重盛から装束などが送られて手厚く保護されているという噂が流れていた。後白河院の近習たちは一掃され、院の御所には誰も参内しないという日が続いていた。後白河院の失墜は、誰の目から見ても明らかだった。とても、これでは成親を呼び戻すなどできない。御子は焦っていた。
 御子は成親の数珠を手に取る。百八の玉の内、琥珀と水晶が三つずつあり、その他は伽羅の木でできていて甘い香りがする。伽羅の玉の一つに割れ目があった。うっかり割って後で張り付けたのだろうか。うっかりするような人でもなかったのに、などと思っていると、珍しく祖父の資隆に呼ばれた。
「御子様、大変申しあげがたきことなのですが」
 と、資隆は手に持った扇を開いては閉じ閉じては開いて、何か言いあぐねている様子だ。
「権大納言、いえ、もはや無位無官の身であらせられましたな、藤原成親卿なのですが。実は、配流先の備前にて身罷られたということです」
「……」
 御子は、すぐには呑み込めず、瞬きをした。
「……成親卿は、備前におつきになってからというもの、その後一切の食を与えられず、餓え死になさったと」
「餓え死に!」 
 御子は、その言葉を口にした。
「餓え死にですと!? 父様が、餓えて身罷られるなど……まさか、単なる噂に決まっています」
 御子は、じっとしておれず邸を飛び出した。そして、以仁王の邸に駆け込んだ。
「兄宮様、今……」
「私も聞いたよ。重盛様が心を尽くして送られた品々は、途中で止められていたそうだ。それにしても、あの都随一の美男子成親卿がそのような最期を遂げられるなど……」
 ――真(まこと)のことか。
 御子は、為すすべなくその場に膝をついた。
「御子、父院様が孤立なさっているあの状況では、どうにも助命は望めなかったのだ。詮なきことだ」
 御子は何も言えず、目の前が真っ暗になった。

四、以仁王の最期

 成親の無残な死を経て、御子はまた大きく変化した。成長、といえば成長と言えなくはないが、幼き頃から毎日共に過ごしている仲影や當子からすれば、豹変と言いたいほどの変化だった。学術書や兵法書を探し求めては読みふけり、三条高倉の以仁王の御所に赴いては武術を身につけた。とくに、以仁王の侍、前左兵衛尉長谷部信連という男にしっかりと鍛え上げられ、成親の死から二年、一通りの剣術、弓箭の技は身につけていた。
 その頃、御子は珍しく寝込んだ。初めての月のものに驚き、その内側からくる疼痛に参ってしまったのである。
「御子様、さ」
 大和御前は、温石を御子の腹に当てた。閨から出てこない御子を案じて、尼君が医師を呼ぼうと言ったが、単なる寝不足だといって断った。本来ならば裳着も済ませ、婚姻もする年である。自分だけが裳着を済ませた同年の當子は、申し訳ないような気持ちで御子をいたわった。元服の話も出たが、後白河院から名を頂けていない状態では、ありえないことだった。
 痛い腹を抱えて寝ていると、すっかり建て直した寝殿の方から琵琶の音が聞こえてきた。
「今日は、宴でもあるのか」
「御子様、本日は、八条院女房殿がお里下がりなさっています」
 その名を聞いて、御子はむっと眉根を寄せた。八条院女房とは、御子の生みの母隆子の妹で、後白河院の異母妹八条院 暲子(あきこ)の邸で女房をしている。昨年夏から後白河院のご寵愛を得ているということだった。その彼女が、久々に帰ってきているらしい。実は、御子との関係がどうも薄いと感じた資隆が、後白河院と繋がるために手を回して得た縁であった。
 そのような思惑が動いているとは知らず、すぐに同衾する父院を苦々しく思った。清盛の首を何とかしてとろうと、兄の以仁王と二人で日々鍛錬を積みつつ機会を狙っているこちらの気も知らずに、お気楽なことだと、御子は複雑な思いで苦悩した。ところが、その苦悩が平和なものであったことを後で思い知ることとなる。
 治承三年、清盛が後白河院を幽閉した。いつまでも実権を手放さない院からの政権交代を図った軍事行動だった。あの鹿ケ谷事件の後から、政情はずっと不穏であった。後白河院の権威は地に落ちたように見えたが、水面下では影響力があり、叡山を刺激したり園城寺に関わったりと動きを止めることはなく、政は、高倉帝と後白河院の二頭政治に陥っていた。ここまで後白河院が強気であったのは、院には親王がたくさんいたが、高倉帝には皇子誕生の兆候が長らく見られなかったという側面があったからだった。
 ところがこの年、中宮徳子に皇子が誕生した。後白河院も喜び、すぐに立太子の運びとなった。が、立太子の冊封の儀から後白河院は外され、儀式は清盛の本邸である六波羅で行われた。これはいよいよ政からの排除を示していた。ひどく不満を持った後白河院は、高倉帝に引き継がれるべき摂関家の莫大な所領を自身の管理下へと取り込み、清盛の長男重盛が亡くなった折には、その知行国を召し上げて財力を削いだ。
 こういったことが重なって、十一月、清盛の反撃という形で、後白河院は法住寺殿から鳥羽殿に連行されて幽閉、監視されるに至ったのだった。鳥羽殿の御所への出入りは数人に限られ、後白河院の所領は没収されて高倉帝管理下に移された。そして、その莫大な所領を受け継いだ高倉帝に退位を迫り、生まれて間もない皇太子への譲位を、清盛は迫った。
 翌治承四年二月、ついに高倉帝は譲位せざるを得ず、乳飲み子の安徳帝が即位した。

 以仁王と御子は、後白河院奪還を考えはじめていた。奪還さえすれば、院を御旗として平家と一戦交えることができる。そんな折、以仁王の御所に男が訪ねてきた。
「奥に待たせています。お会いになりますか」
 信連の言葉に、御子と以仁王は顔を見合わせた。庭にではなく、奥の間で待たせるということは、人目を避けているということだった。
 奥の間には老いた武士が一人、若い武士が一人、床にぴたりと額をつけて微動だにしない姿勢で待っていた。以仁王と御子が腰を下ろしても、その姿勢のままである。
「面を上げ、名乗られよ」
 以仁王が困ったようにそう言うと、意を決したように老武士が顔を勢いよく挙げた。なんとも勇ましい強面の武人である。が、かなりの高齢のように見受けられた。
「私は、源三位頼政と申す者、後ろに控えまするは我が嫡男仲綱と申します。本日拝謁の栄を願い出ましたは、他でもございません、平家のことにございます。今までは、苦苦しくも平家の庇護のもと帝にお仕え申し上げて参りましたが、こたびの清盛の暴挙、許すまじきことと……」
「清盛の暴挙とは、何を指しておられるのですか。乳飲み子を即位させたことですか」
 御子が、つい口を挟んだ。平家に仕えていると名乗りを上げたのだ、警戒して話を聞かねばならない。
 頼政は、御子を見た。
「無礼ながら、こちらの若君は……」
 以仁王は、何食わぬ顔で、
「我が乳母子の一人である。実の弟のようにかわいがっておるのだ。さ、問いに答えよ」
 頼政は不思議そうな顔で、御子を見もしたが、すぐ御子に姿勢を正して、
「安徳帝ご即位のことだけではございませぬ。昨年末の後白河院の幽閉以来、もう、私は我慢も限界になりましてございます。そもそも王家にお仕えするという武勇の家の本分を、清盛はあまりにも忘れてしまっている」
 以仁王は涼しい顔をしたままだった。御子が代わりに問いを続けた。
「それで、頼政殿がこちらへ訪ねられたのはいかなる由があってのことか」
「平家討伐の令旨(りょうじ)を戴きたい」
 以仁王は、眉一つ動かさない。が、さすがに扇を持つ指が一瞬動いた。
「後白河院の第三の皇子であらせられる宮様のご令旨さえ戴ければ、悦んで馳せ参ずる者はこの日本国の津々浦々、数え切れぬほどに控えております。まず京の都には、出羽前司光信の子ら、伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者光能、…大和国、宇野七郎親治(ちかはる)の子ら、太郎有治(ありはる)、次郎清治、三郎成治、四郎義治熊野には……」
 まるですべてを諳んじてきたように、この老いた武士の口からは、以仁王に味方するという者の名が次々と出てきた。津々浦々と申すだけあって、京近辺はもとより、北は陸奥国より始まって、坂東は常陸国、美濃、尾張、甲斐、信濃、近江と続き、平家の息のかかった西国以外はほとんどの武士、つまりは源氏の名が挙げられた。
「……また、故左馬頭義朝の遺児である流人源頼朝、末子九郎冠者源義経も必ずや宮の御供となりましょう」
 そこで、初めて、以仁王は顔を上げた。
「流人頼朝、九郎冠者義経……清盛が特別に許した、源氏の棟梁義朝の子たちであったな。頼朝は伊豆へ流され、義経というは……九郎というからには、あの子だ。鞍馬寺に預けられていて、確か幼名が……そうだ、牛若と申した」
 御子は、ドキンと胸をつかまれたように感じた。鞍馬の牛若……牛若の兄様のことに相違ない。もう随分お会いしていなかったが……。源氏だったとは。あのころは平家も源氏も知らず、幼い日々を過ごしていた。御子が逸る胸を抑えて問う。
「その、義経と申す方は、今はどちらに」
「は、陸奥国は平泉に下っておられます」
 以仁王は黙って、頼政を見つめた。しばしあって静かに口を開いて、
「知行国領主の名ならいざ知らず、なにゆえ行方知れずになった罪人の子の行方まで存じおるのか」
 と睨み据えた。
 頼政は、刹那息をのんだが、覚悟を決めたように答えた。
「実は、牛若殿を平泉へとおつれ申し上げた同行人の中に深栖(ふかす)頼重(よりしげ)という下総の者がおりまして、その者と懇意でありましたゆえ、経緯を聞き知っておる次第です」
「つまり、罪人の子が、一国の相国の裁可から外れて洛外へ出奔した。それと聞いても、相国に申すでもなく朝廷に奏上することもなく、そなたは見逃したのか」
 以仁王は珍しく、厳しく眦を上げて頼政を睨み据えた。頼政が唾をのんだ音が御子の耳にまで届いた。
「まるで、後白河院の幽閉されなさったことに端を発する物言いをしたが、そなた、五年も前にすでに二心(ふたこころ)あったのだな」
 頼政はこめかみから汗をながして、黙したまま額づいた。何も申し開きができぬと覚悟したようであった。後ろの仲綱も、心配そうに父の背中を見ている。
「五年前……」
 御子は、兄宮の顔を見た。
「兄宮様は、五年前に牛若殿が京を出たことをご存じだったのですね」
 厳しい顔の以仁王は、ふいに真顔になったかと思うと、相好を崩した。
「だから、私はそなたが好きなのだよ」
 以仁王が声を上げて笑うと、頼政は、はっとして顔を上げる。
「源三位頼政。私もそなたと志を同じくするもの。そなたの気持ちは、しかと受け取った」
 担がれたと気づいた頼政は、ほっと息をついて額の汗を拭った。御子は、牛若の所在が分かって心が浮足立ち、自然と笑みがこぼれた。ふと目を上げると、仲綱と目が合った。仲綱はまるで旧知のごとくに御子に、にこりとほほ笑んだ。
 その後、頼政、仲綱とともに、後白河院の奪還、延暦寺と園城寺への要請をどの段階でするかなどを話し合い、以仁王は御子の身分を明かした。生真面目な頼政は、床が穿たれるほど何度も額づき、後白河院の皇子がお二人もそろっておられれば、心強いと喜んだ。

 以仁王は、令旨を書くのをためらっていた。親王宣下を頂いていない身分なので、いくら文書を認めても「御教書」止まりである。しかし、「令旨」でなければ、諸国の源氏を動かすほどの力にはならない。どうしても親王の号が必要だった。
 本来、親王宣下をなさるべき後白河院は幽閉の身。以仁王はいかんともしがたく、悩みぬいた。
「兄宮様」
 兄、以仁王が筆を手に取ることをためらっているのを、後ろでかしこまってみていた御子は、その背中に声をかけた。
 以仁王は、振り向かないまま、静かに言った。
「なかなかどうして、難しいものだ。父が何故私を親王としてお認め下さらないのか、そんな小さなことに心を煩わせていた己が、たいそう情けなく感じる。これは大きな決断だ。とても大事なことなのだ」
「しかし、その決断できぬ状況を作っているのは、父院様です。兄宮様の苦痛を、父院様はお気に留めてくださっているのでしょうか。そう思うと、たいそう恨めしい。なのに、私たちは、父院様をお救い申し上げたいと切に願ってしまいます。父と子の縁とは、なかなか、厄介なものですね」
 御子は兄宮の背中にそうつぶやいた。ふと、牛若のことを思いながら。
 牛若の父は、すでに身まかっている。父を救いたいとか、恨んでしまうとか、そういうことができるのは、実は幸せなことなのかもしれない。御子はそう感じた。
「兄宮様、身分を偽る罪は、後でいかんともできますし、御供の者共が多ければ、それは罪ではなく正義となりましょう。機を逸してはのちの後悔を作ることになります。父院様をお救い申し上げる機会は今でしょうし、今のこの状況は、我々が立ち上がるのに大儀というものを与えてくれるのではないでしょうか」
 以仁王は、静かに振り向いた。
 その眼には、覚悟の光があった。
 
 仲影を探して、御子は以仁王の御所の中を探していた。この頃ふと姿が見えなくなることが多い。見つけた先は、小さな坪庭の一角で、いつの間に来ていたのか仲綱と立ち話をしていた。近寄ると、仲綱の方が先に御子に気づき、初めてあった時と同じく、にこりと愛想のいい笑顔を見せた。
「御子様、宮様は、令旨をお書きになりましたか」
 御子は静かに首を縦に振った。
「やはり、親王宣下を頂いていらっしゃらないのが、兄宮様の御心を咎めていたが、さんざん悩みぬいた末、元服も父院の許しなく一人で行ったのだ、今更躊躇することもないと、『最勝親王』と称して令旨をお書きになった」
 仲綱は、晴れやかに笑って息を吐き、仲影と肩をたたきあった。
 令旨には、後白河院を鳥羽殿へ幽閉するに至った平家を討伐し、院を奪還することを目的として、各地で蜂起せよとあった。治承四年四月九日に下されたこの令旨は、頼政から新宮十郎行家なる者の手に渡り、諸国の源氏、主だった大寺社に発せられ、木曽義仲、源頼朝などにも順当に伝えられていった。
 平家方の目を盗んでひそかに発せられたこの令旨が、後々平家滅亡の大きな契機を作ったのは間違いない。
 しかし、簡単に平家滅亡へとことがならなかった背景には、その令旨が全国をめぐる中、平家方の熊野別当湛増の漏れ聞くところとなり、清盛に伝わってしまったことがあった。
「以仁王――。そういえば、そのような宮もいたな」
 清盛は、福原でその報に触れた。不意に頬笑んだかと思うと、その笑顔はすぐに消えた。
 今まで、真正面から清盛に戦いを挑むべく立ち上がった男など、いなかったのだ。いまや、この日ノ本を統べる清盛を討とうとする勇気を持つ者がいようとは、思ってもみなかった。
 
 清盛が不意に福原から上洛したのは、それからしばらく経った五月十日であった。
 十五日に、検非違使どもに免物(めんもつ)を行うので、参内せよという知らせがあった。なんでも、陰陽師の占いによって急遽決まったようであった。免物というのは、囚人の罪科を免ずる儀式であり、検非違使を含む官人たちは皆衣冠正しく参内しなくてはならなかった。時刻通り、官人たちは、儀式の始まるのを待っていた。が、目の前に現れた入道相国清盛と検非違使別当平時忠は、思いもしないことを告げた。
「三条高倉に御所する以仁王、御謀反の意あり。ただいまより御所を攻め立てて宮を搦め捕り、土佐へ流し奉る」
 検非違使たちは、あっけにとられ、初めはだれ一人動かなかったが、時忠がとばした檄で、あわてて衣冠を脱ぎ、武具を準備をはじめた。
「最初からそう言ってお召しなさればよいものを」
「あれじゃ、宮に気づかせぬように、免物をよそおったのだ」
「しかし、宮様に縄をかけるなど、まことにするのか」
 検非違使たちはぶつぶつ文句を言っていた。その中に、すっかり青ざめた者たちがいた。源三位頼政の養子である源大夫判官兼綱と、出羽判官光長だ。急ぎ頼政に伝えるべきと光長に促された兼綱は、愛用の武具が必要だと口実を作って、急ぎ邸に戻り、父頼政にことの次第を伝えた。頼政は、覚悟を決めたように頷き、
「そなたは戻って御所に寄せるのに参加せよ。宮にはこちらからお知らせする。そしてできれば、お逃げさせ申し上げるだけの時間を稼ぐのだ。よいな」
 兼綱は、しっかり頷くと、愛用の長刀を持って戻った。

 その日は、御子も仲影を供に以仁王の邸にいて、鳥羽殿の見取り図を睨んでいた。そこへ、頼政からの文が届けられた。
《宮が世を騒がせなさること、すでに相国に露見しました。平氏が宮の御所へ押し寄せます。急ぎ園城寺へお逃げ下さい。私もあとから馳せ参じます。源三位頼政》
 御子は血の気が引いた。まだ何も行動を起こしていない先に、くじかれてはかなわない。父院に命ぜられた清盛の首を、やっととることが叶うと武者震いしていたというのに、逆に攻めてくるとは。ここでもたもたとしてはいられなかった。
 以仁王は逃げるのは悔しいと唇を噛んだが、長谷部信連が奥に行って女房の衣装を以仁王に渡し、
「旗印であらせられる宮が捕らわれてはすべて終わりです。すぐに女房装束に身をやつされて、園城寺へ落ち延びて下さい。さ、御子様と共に」と言った。
「信連も共に参れ」
「私は、武勇の生まれ。敵を迎えもせず背中を見せて逃げるは、恥辱にございますれば、女房たちを逃がし御所の片づけなどもして、平氏の輩の参るのを迎え討とうと思います」
「ならぬ、共に参るのだ」
「我が主君以仁王様のご無事のために、この長谷部信連、この御所にて時間を儲けて御覧に入れます」
 以仁王がいくら口説いても、決して首を縦に振らない。
「お急ぎくださいませ、宮がこちらにお留まりになればなるほど、御子の御命も危うくなります」
 御子の命と言われ、以仁王はしかたなく、信連が残るのを許した。
 以仁王と御子は女房装束を着て、供の者を伴って出立することになった。と、以仁王が、腰にさしていた小さな笛を一つ取りだし、いつもの自分の居場所の畳の上に置いた。
「兄宮様、それはご秘蔵の小枝という笛では。なにゆえそこに」
 その言葉に微笑んで、以仁王は唇に人差し指をあて、御子の背中を押して出立を促した。
 以仁王と御子は、仲影を含む数人を共にして、近江国の園城寺を目指した。

 時刻は子の刻になる。以仁王の御所に続々と検非違使が押し寄せた。先頭を切っているのは、源三位頼政の養子兼綱と出羽判官光長だった。兼綱と目配せした光長が、門を破って入ろうとするところを、兼綱が手で制した。
「いくら御謀反とは申せ、宮を捕らえ奉るのだ。まずは音声(おんじょう)をあげるべきだろう」
 なるほど、と、光長は大きく息を吸った。
「恐れ多きことながら、御謀反の噂がございます。そのために、官人検非違使が、安徳帝より命を承って御迎えに参りました。高倉の宮、お出まし願いまする」
 堂々たる大音声を上げた。が、中からは全く反応がなく、屋敷は静まり返っている。兼綱は、既にみな逃げおおせたか、と内心安堵した。
「高倉の宮、以仁王様、門をお開けなさって、お出まし給え」
 今度は兼綱が声を上げた。が、無反応な門をじっと見て、光長は、歯がみをして見せた。
「まさか、出てこられぬおつもりか」
 光長と兼綱がのろのろするので、検非違使たちが勇み足になり、数人が門に近づいた。すると、中から野太い声があがった。
「ただいま宮様は、こちらにはおられぬ。御参詣にお出かけじゃ」
 光長は兼綱を見ながら、門を早く開けるよう検非違使に指図した。兼綱が「者ども、しばし待て」と制し、
「宮がおられぬとは、嘘をもうされるな! こちらは宮の御所であるのだ、いらっしゃらないはずはなかろう。はやくはやく、門を開けよ!」
 と叫んだ。しかし、中からあがる声は「宮はいらっしゃらぬ、そもそも宮を搦め奉るなどあってはならぬこと。偽の令旨を掲げて盗賊どもがやって来たのであろう」という。
「ええい、まどろっこしい! 門を開けよ!」
 とうとう我慢の緒が切れ、検非違使どもが門に手をかけるや否や、どこからともなく弓が飛んできて、続けざまに三人射貫かれた。皆が一斉に、弓の飛んできた方を見上げると、門の上に張りだした松に、鎧直垂を着た長谷部信連が弓矢を掲げて睨みを効かせている。
「畏れ多くも宮の御所に、許可を得ずして門を開けて入ろうとは、無礼千万」
 矢に射られて苦しむ検非違使を見て官人どもは怯む。兼綱は大声で信連に聞こえるように「あの男を射よ」と命じた。信連は飛んできた矢をはたき落とすと、邸の中に飛び降りて姿が見えなくなった。
「今だ、門を突破せよ!」
 検非違使たちが、十人がかりで門を打ちこわしてしまった。宮がいては難儀だと思い、光長が焦って馬に乗ったまま駆け入った。
「下馬せず門をくぐるとは、無礼者め」
 信連が大男とも思えぬすばやさで、馬上の光長めがけて孫廂の上から諸手をあげて飛びかかった。光長が身を縮めると、その前を力自慢の男が遮り、信連とぶつかった。光長は急いで後方へ引く。しかしすばやく信連が頷いたのを兼綱と光長は見た。
 ――以仁王はすでに御所を出られている。
 信連は、太刀を抜いて身構えた。力自慢の検非違使どもが数人、大長刀や大太刀をもって信連に飛びかかる。信連は、兵衛尉時代に朝廷から支給された古い太刀を軽やかに振るって、次々に斬り払う。大長刀の男たちがやられると、その後に続いて十数人の太刀をもった検非違使が追いかけ、その後方から信連めがけて弓が放たれる。弓を太刀で払っては検非違使を斬り倒し、振り回し、相手の骨を断ち切るうちに、信連の太刀は曲がってしまった。すばやくずいっと奥へ駆け入って、自分の太刀を床におしつけて足でゆがみを治すと、迫ってくる新たな検非違使を、また斬り刻んだ。
 信連のあまりの強さに、検非違使たちは腰が引けてしまい、御所に上がる勇気を失ったようだ。信連の通った後には、数十人の骸から出た血が床一面にたまって、うっかり踏み入れればぬるりと滑ってしまいそうだった。
「さあ、かかってこい。この命尽きるまで、相手をしてやろうぞ」
 そう奥から大声をあげた信連だったが、ふと、いつもの以仁王の居場所に、宮御愛用の小枝が転がっているのに気付いた。自分が死ぬときは棺にともに入れて葬ってほしいと、以仁王が常々言っていた秘中の宝だった。信連は、庭の方を見たが、検非違使どもは足踏みを重ねるだけで、逃げ腰のまま中を伺っている。
「宮がこれを取りに戻られては危うい」と口の中で呟いてから太刀を鞘に納めると、衣で手についた返り血を拭って、小枝をそっと拾い上げた。そして、まだ汚れていない几帳の布を引き切って丁寧に包むと、大事そうに懐に収め、奥の間を一散に通って、裏の門から走り出た。
 信連が既にいなくなったのも知らず、検非違使どもは、互いに行け行けと背中を押しあいながら、まだ、以仁王の御所の庭先でくすぶっていた。

 以仁王と御子は、夜道を一心に東へ進んでいた。時折、以仁王は後ろを振り返る。信連を心配しているのだろうか、と御子が思っていると、近衛東の河原に差し掛かった頃、後ろから足音が追いかけてきた。仲影は御子を抱えて物陰に隠れ、以仁王も乳母子が身を潜めるよう腕を引いたが、振り向いてじっと立ち止まっていた。
「宮様!」
 聞き覚えのある野太い声に、一同は安堵して姿を現す。信連が、息を切らして追いついてきたのだ。
「宮様、秘蔵の小枝をお忘れにございます。お届けに上がりました」
 以仁王は、一際嬉しそうに微笑んで、
「これは、命と同じく大切にしていたものを、気がせいていたとはいえ忘れるとは。手間をかけさせた。して、首尾は」
「女房たちは検非違使が押し寄せる前に里に帰し、検非違使どもは散々に蹴散らしてまいりました」
「さようか、よろしい。では、もうあの邸は無用じゃ。そなたの武勇の名も十分に上がったであろう。我に供せよ」
「はっ!」
 信連は満面の笑みで頷き、一行はまた歩み始めた。
 御子は、兄宮の女房姿の背中を見ながら、頼もしさに胸が熱くなった。

 以仁王の御所が空であると気づいた平家方は、園城寺に入る以仁王の一行を目にした者がいたという情報を得た。
「物見どもの報告では、先だって発布された令旨を受けて、寺社は愚か、各地の源氏どもが動き出したようでございます。もっとも火急の件は、園城寺のある近江の武勇の輩が、宮に与しようと次第に集まってきているとのこと」
 清盛は顔色を変える。平家にとって、これは未来を予感させる恐ろしい一波だった。
 二十二日、平家の軍から離れて、源三位頼政と子息たち、そして、その傘下にいた大和源氏の有治らを含む五十余騎は園城寺に入った。
「頼政、よくぞ無事に参った」
 以仁王が、畏まって額づく頼政の肩を起こした。頼政は恐縮しつつ、
「宮様、昨日京では園城寺攻めの軍編成が組まれました。子息知盛や重衡など、そうそうたる顔ぶれで、明日にも二万の大軍をもってこちらに攻め入ることとなっております。この頼政も武士揃えに組まれましたので、いそぎこちらに参った次第。邸に火をはなってまいりましたゆえ、今頃京では、大騒ぎになっておりましょう」
 頼政は覚悟のほどをそう示した。以仁王はそれに応えるように何度も頷いた。
「すでに、延暦寺と興福寺には牒状を送り、協力を要請している。しかし、延暦寺はどうやらこちらには与せず、平家方につくか、手を出さぬかという姿勢だ。後白河院への敵対という観点から、清盛を味方と考えているのだろう。南都、興福寺の方は、何の反応もいまだないのだ。興福寺なら、我が方につくと思っていたのだが」
「きっともうすぐ返牒も参ります。南都が宮に味方せぬはずはございませぬゆえ。ところで寺の大衆(だいしゅ)が僉議をされていらっしゃるようですが」
「私がこちらに参ってから、ずっと続いているのだ」
 以仁王は、うんざりした様子でそう言った。
 園城寺に、一能坊阿闍梨心海(しんがい)という者がいた。大衆のほとんどは、今すぐ清盛の本邸六波羅に夜討ちをかけるべきだとするのに対し、その心海阿闍梨がやたら熱弁を振るい始めたのだ。延暦寺が清盛方につくだろうということを見越せば、我らは犬死にする。そうなれば、園城寺は廃される。今宵六波羅を夜討ちすることは得策ではないと。六波羅を攻めようとする大半の者が、動き出そうとすると、立ちはだかってまで反対した。
「そもそも、心海殿は、ずっと以前からこちらにいらっしゃる御坊様ですか。妙に弱腰でいらっしゃいますが、なにか策でもおありか」
 口を開いたのは御子だった。心海をじっと睨み据えて、静かながらも語気が強い。心海は、うっと言葉を詰まらせた。
「なにゆえ機を逃そうとなさる。そこもとこそ、平家と通じておられるのではあるまいな」
 怒りに任せて御子が口走ったのを、以仁王は制した。
「御子。味方を疑ってはならぬ。それでは何も始まらぬ」
「しかし……」
 明らかにこの阿闍梨は、おかしいではございませんか――そう言いたいのを堪えた。
「宮、我を信じてくださり、ありがたき幸せでございます」
 ぶしつけにも、心海は以仁王の御前にかしこまって、竹筒を差し出した。
「お疲れのご様子、先ほど組んできた井戸水でございます」
 以仁王は、うなずいて受け取り、それを一気に飲み干した。のどの渇きからか、その水はことさら甘い気がした。夜通し京から近江までかけてきたのだ。のどが渇いていたことすらも気づかずにいた。
「興福寺からの返牒はまだか」
 以仁王は悔し気に声を絞り出した。ここで興福寺が味方につけば、大衆の士気が一気に上がり、もし平家が攻め入ってきても、その背後から興福寺が挟撃することとなるだろうと思われた。
 実際、興福寺の返牒は、すでに早馬で園城寺に向かっていたのだった。そしてそれは、以仁王に味方するのを快諾するものであった。
 その返牒が園城寺につく前に、夜明けが迫ってきていた。今から園城寺を出立すれば、明るい中、京に攻め入ることとなる。それは至難の業だった。そして、おそらく、この朝には、平家方がこちらに向かって出立するに相違ない。
 以仁王は、厳しい顔で唇を引き結んで、東の空が白々と青白く染まり始めるのを見た。
「我らは先に、南都へ参ろう。奇襲であれば戦も可能であったろうが、もうそれは叶わぬ。それに、ここで手をこまねいて興福寺の返牒を待ってもおれぬ。園城寺に攻め入れられて我らがいては、この寺が罪を問われよう。こちらへ向かってくるだろう平家の軍兵の裏をかいて、南都へと移るのだ」
 夜討ちが叶わぬと知って落胆する大衆に再会を誓い、以仁王は頼政率いる三百騎とともに、一路大和へと向かった。御子は、初めて鎧兜を身につけ、馬にまたがった。緋色の鎧を身につけた若武者らしい御子の姿に、以仁王は満足そうにうなずいた。

「一能坊阿闍梨心海より文でございます」
 その文を一読した清盛は、四男知盛と五男重衡を呼んだ。
「以仁王は南都へ向けて園城寺を出たらしい。後を追って捕らえよ。なにすぐ捕まるだろう、心海が一服盛ったらしい」
 知盛と重衡は、二万の兵を率いて、園城寺から南都興福寺へ向かう以仁王の討伐に出た。
 三百騎で南都へ向かう以仁王は、ひどい体のだるさを覚え、幾度となく落馬を繰り返していた。このままでは、南都につく前に宮がお倒れになってしまうということで、急遽、宇治の平等院でしばしの休息をとることにした。
「一刻も早く南都へ向かわねばならぬのにすまぬ。なに、少し休めば、すぐ動けるようになる。南都についたら、そなたの元服を父院様に奏上しようと思っている」
 以仁王は、横になったまま手を伸ばし、枕元に座る御子のみずらに結った髪を手にした。
「私は自分で自分の髪を切り、一人で元服した。父院様は、それはそれはお怒りで、我が近臣達は降格され、私も結局親王宣下を頂くことが叶わなかった。それを悔やんではおらぬ。が、そなたにはあのような寂しい思いはさせとうない」
 御子は、兄宮の情を感じて胸が熱くなった。横になって自分を見上げる父院に似た兄の顔が歪んで見えた。
「外を見て参ります」
 涙を隠すように御堂から外に出て、御子は周囲を見まわした。
 平家が今、どこまで以仁王の動静をつかんでいるのか、まったく情報がない、この状況に、御子は不穏なものを感じていた。いつもの以仁王なら情報収集に力を入れる。ところが、園城寺に入ってからは、人々の思惑に振り回されるうえ、以仁王の読み通りにことが運ばないという事態に陥っている。戦に勝つには、一にも二にも情報を得ることが先決で、より正しい情報を多く得たものが勝利すると、以前読んだ兵法書にあった。
 延暦寺がこちらには味方しないこと。興福寺の返牒がいまだ届かないこと。何もかもが見えないところで蠢いているようで、御子の背中をゾッとさせた。平家は、今頃園城寺に兵を進めているはずだ。その道程は、宇治からは離れている。しかし、園城寺に近づけば、自分たちが通って来た道とぶつかる。そのとき、我々の行軍を目の当たりにした民から平家が情報を得れば、この宇治まですぐに下ってくるはずだ。可能性として合戦に及ぶことを想定すべきだ。情報がない以上、万全の策を取るよりほかない。御子は、平等院の周囲を見て回ると、源三位頼政を呼んだ。
「ここは、京にも近い。攻められる可能性がないとは言えないので、平等院に渡る宇治川の橋板を外してしまおう」
 頼政は、すぐさま配下を使って橋板を外した。と、外してすぐ、向こう岸に馬にまたがった平家の武者たちがで勢い良く現れた。
「うそだ、早すぎる」
 御子が愕然としてそう呟いているうちに、橋板がないことに気づいた平家側の先頭が馬を止めた。が、勢いよく次から次へ、後ろに続く兵馬が押し寄せて来るので、橋の前でとどまった武者たちが押されて、宇治川に次々と落ちた。平家の軍兵二百騎ほどが、声を上げながら、次々と川に流されて行く。そこに物見の者からの報告があった。
「敵の軍勢はおよそ二万騎。総大将は知盛と重衡ということです」
 御子は、清盛邸で見た重衡のなよやかな顔を思いだした。
「出会え者ども! 敵を迎え撃つのじゃ!」
 頼政が大音声を上げると、我こそはと思う武士たちが、次々と川岸に押し寄せた。
「なんじゃ、平家は、川に流されておるぞ!」
 そう声高に笑った味方の声を耳にしつつ、御子は、すぐさま平等院に駆け込んで、兄宮を起こそうとした。駆け込むとすでに以仁王は、信連とともに鎧をつけ始めていた。
「平家が早くも攻めて来ました。おそらく、園城寺に間者がいたのです」
「慌てるな、御子」
 御子が以仁王の冑の緒を締めていると、鏑矢の音が響いた。
「矢合わせだ。戦が始まったな」
 戦の経験がない御子には、初めて聞く音だった。開戦は互いに音の鳴る鏑矢で射掛け合う。味方の軍勢の血気盛んな声が、わっと響いた。
 御子は、初めての戦に心臓が口から飛び出しそうだったが、恐怖は意識の外に置くようにして、御堂から外へ出た。
 目に飛び込んだのは、園城寺から加わった黒革縅の鎧を着た小柄な僧兵だ。橋板を外した橋桁の上を身軽に駆けて行き、強く張った弓をぐっと構えたかと思うと、二十四本の弓を息も切らせぬ早業で、平家に見舞った。射貫かれた兵はたまらず川に落ちて流されていく。全ての矢を射かけ終わると、背中に背負っていた大長刀を手にして、川岸にまで音が届くほどにブンブンと振り回す。橋桁をよろよろとおぼつかない足取りで渡ってくる敵を、いとも簡単に薙ぎ払う。川岸からは強い弓で、次々と矢をかけて黒革縅の僧を援護する。以仁王側の武士たちも身軽に橋桁を渡って、敵を攻める。と、川面は負傷した平家の武士でいっぱいになった。この日川は水かさが多く、兵士たちは集まった落ち葉のように流れていった。平家方の武士が、埒が明かぬとばかりに、思いきって馬を川に入れて進めたが、増水している宇治川の流れに抗うこともできず、次々と流されていく。戦は以仁王側に勝機があるように見えた。
「これならいける」
 御子の横で、仲綱が勝利を確信したように拳を握って、御子に笑顔を見せる。しかし御子は到底楽観する気になれず、目を凝らして平家側の軍勢を見た。あまりに多い。こちらの矢数は限られている。
「今の内に、宮を南都へおつれせねば」
 御子のすぐ横に来て見ていた長谷部信連が呟いた。
 ふいに、戦の形勢が変わった。平家が、馬同士の間の距離を詰めて川にざぶんと馬を進めたのだ。すると、まるで筏のように繋がって、水の流れに抗い始めた。我も我もと他の武士どもも後に続き、馬筏を作って、平等院の岸を目指しこちらへ寄せ始めた。
「な、なんだ、あれは……」
 勝利を確信し始めていた仲綱の顔から色が失われた。頼政は、より一層大声をあげて、
「殿ばら、矢を射掛けよ。こちらに寄させるな!」
 と号令をかける。以仁王側の武士どもは、手に手に弓矢をもって岸に集まると、一斉に馬筏に射掛けた。手応えはあったが、馬筏は、射貫かれた武士の骸もそのまま運んで来る。
「御子!」
 源三位頼政は、御子の腕をつかんでひっぱり、後方から戦況を見ていた以仁王の前に駆け寄った。すでに横には長谷部信連が控えていた。
「南都へ落ち延びてください。信連殿、我が名馬を差し上げまする。宮様を無事に南都へ」
「頼政も共に参れ」
 以仁王は、静かな声で言った。頼政は、顔を上げるとこの上なく幸せそうに微笑んだ。
「私は申しました、宮。この頼政をお使い下さいと。今こそが、武将頼政の使い所、見せ所にございます。この老いた武士に、最期の一花を咲かせてくださいませ」
 以仁王は言葉にならぬ様子で、頼政の手をとり、肩を抱いた。
「承知した源三位頼政殿。そなたと会うことができて幸いであった」
 以仁王は立ち上がった。
 すでに夜になっていた。御子も、急ぎ出立の用意をしたが、仲影がいないことに気づき、味方の軍勢の中を駆け回って探した。そうこうしているうちに、馬筏のいくつかはこちらの川岸についてしまったようで、川岸では白兵戦が始まった。ふと、御堂の横に仲影の姿を見つけ、急いで駆けよる。近づくと、仲影は、仲綱と真剣に話している様子だった。声をかけようかと躊躇した時、仲影が御子に気づいて、仲綱に「では」と丁寧に頭を下げ、駆けてきた。
「南都に行くぞ。急げ!」
 御子は、仲影の横顔を見た。
 ――源仲綱とまたこそこそと。何を話していたのだ。
 以仁王は御子と長谷部信連、そのほか三十数騎を伴って平等院を飛び出した。夜が襲ってくるような真っ暗な道を、一心に南都を目指して駆けた。
 残った頼政一族らは、激しい死闘を繰り返した。弓の得意な兼綱は、岸に上がる平家を次々と射殺す。太刀の得意な仲綱は、刃がこぼれるほどに骸を築きあげた。寄せる二万弱の平家に互角に戦っていた三百騎足らずの以仁王の軍は、次第に押され、平家の上陸を許してからは、急激に劣勢に陥った。
「兼綱、仲綱!」
 父頼政の声に二人は急いで駆けよる。特に仲綱は、ひどく出血しており血まみれだった。
「父は、御堂にて果てようと思う」
「畏まりました。ご安心なさいませ」
 兼綱と仲綱の言葉に、頼政は二人の肩に手を置くと、さっと身をひるがえして鳳凰堂の中に入った。頼政の首を求めて平家の兵どもが御堂に押し寄せたので、息子二人は傷だらけになりながら、御堂への侵入を防いだ。
 頼政は、すさまじい喧噪の中、異常とも思えるほど心の静けさを感じていた。そして、御堂の仏に手を合わせると、躊躇なく腹を切った。扉の隙間から父の最期を見届けると、兼綱と仲綱は互いに握手して、別の方へと駆けた。仲綱は、足の肉がそがれ、腕がちぎれそうな状態だったが、自害できる場所を探して、敵と刃を交えつつ、平等院の釣殿にまで駆け込んで、急いで腹を切った。
 兼綱は、弓の上手であったので、弓を構えると敵方が怯む。その隙に、逃げ惑っている馬に飛び乗ると、平等院より駆け出した。後ろからいくつも矢をかけられ、冑を貫いて頭に当たったが、そのまま少し高台の鬱蒼と木々の茂る中に逃げきった。後ろから平家の兵どもが追ってきているので、急いで馬から降りると、腹を切って果てた。

 その頃、以仁王の一行は木津川沿いを南下していた。東の空が白々と明けるも、低く垂れこめた重い雲が空を覆っている。もう少し行けば東大寺の甍が見え、興福寺の伽藍も見えるだろうというところまで来ていた。雨の降り始めた光明山の麓に差し掛かった時、後ろから、ふいに蹄の音が聞こえた。振り向くと武士が数騎近づいてくる。
「待て、以仁王! 情けなくも敵に背中を見せる気か」
「捕らえよ! 以仁王を重衡様に差し出すのじゃ!」
 そんな声が飛んできた。
「平家方だ。追手が来たぞ」
 僧兵の一人がそう叫んだが、同時に矢に捉えられて馬から落ちた。いつの間にか雨は激しくなっていて、射貫かれた僧兵の体を泥で汚した。
「宮、先にお進みください!」
 僧兵たちが、一人、また一人とそう言葉を残して射られていく。以仁王は無念を胸に抱えたまま、後ろを振り向かぬよう前を向いて、興福寺へと向かう。
 御子も必死だった。雨が目に入る。馬の息も上がっている。蹄が泥水を跳ね上げる。
「ぎゃあ!」
 御子は思わず声を発した。激しい痛みを覚えた。右肩に矢がつき立ったのだ。
「御子!」
 仲影が叫んで、馬から落ちそうになっている御子の馬の手綱をつかんだ。先を走っていた以仁王は、御子のところまで駒を引き返す。
「宮様、なりませぬ!」
 先を行っていた信連が振り向いて叫んだ時だった。御子のすぐ後ろに、敵兵が迫った。矢が御子たちの側をすり抜けて、以仁王の脇腹に突き刺さった。
 ――!
 以仁王は、声も出さず耐えたが、今にも馬から落ちそうだ。信連は数本矢を射かけて敵を射貫くと、すぐに以仁王の馬の尻に強か手を当て、馬を走らせた。そして、敵の前に躍り出た。
「宮をお頼みもうす!」
 そう叫ぶ信連に肯き、仲影は御子の馬に飛び移って、御子を抱えて走り出した。
「信連!」
 以仁王は、また馬を止めて引き返そうとしている。その顔は痛みに歪んでいる。矢傷からどくどくと血が流れ、馬の腹に流れている。供に残っていた僧兵二人は、以仁王の馬を追い立てるように、先へと誘導した。
 平家の兵は、信連の前で馬を止める。
「前左兵衛尉長谷部信連殿とお見受けいたす。我は、飛騨判官景高。これは良い敵に出会ったものだ。私と戦え」
「望むところ」
 景高が太刀を抜いて襲い掛かってきた。信連は、刃こぼれのひどい太刀を振るって景高の太刀を受けた。が、幾度か刃を合わせるうちに太刀が折れてしまった。
 信連は太刀を捨て、馬上のまま景高に組んだ。互いに身をひねりよじりしているうちに、景高の背後から網が投げられ、景高と組んだまま落馬した。信連は不名誉に殺されるのを恐れ、網の中で折れた太刀を拾って腹を切ろうと試みたが、数人がかりで押さえこまれ、捕まってしまった。
 信連は心配そうに、以仁王の行った先にまなざしを投げた。

 先を急ぐ以仁王の脇腹からは夥しい血が流れ出ていた。ふいに前後不覚に陥っては、何度も首を振って意識を保とうとしていた。が、とうとう意識を失って馬から落ちた。バシャリと水っぽい泥が跳ねあがる。御子を抱えたまま、仲影は馬を止めて振り向く。後ろにいた僧兵二人が、急いで以仁王を助け起こそうと馬から降りた。
「宮様! さ、お急ぎください」
 しかし以仁王に反応はなく、泥水に塗れたその顔は真っ白だ。と、そこへ、平家の兵馬が数騎駆けてきた。そして、馬上から大長刀を振りまわすと、あっという間に僧兵二人を斬り捨てた。
「兄宮様……!」
 痛みに苛まれながら、御子は仲影の腕の中でもがきにもがいた。そして、するりと仲影の腕から抜けて下馬し、以仁王の方へ走った。が、仲影がそれを許さない。すぐに馬を駆って御子を抱え上げた。その時だった――。
 以仁王は、意識のないまま敵兵に囲まれた。そして、武士の一人が、以仁王の首に太刀を振り下ろした。
「兄様! いやああああ!」
 この世の終わりのような叫び声を上げるも、御子にはどうしようもない。狂ったように叫ぶ御子に、以仁王の首を持った平家の武士が、視線を向けた。
 仲影は目を吊り上げて、必死に馬の腹を蹴った。腕の中で泣き叫ぶ御子を抑え込みながら、手綱を握った。雨と泥と血で濡れた体にぶつかる朝の風は、二人の身も心も凍らせるようだった。

五、南都炎上

「仲影、やはり医師(くすし)に見せた方がよいのではないのか」
 男が、大広間の畳の上からそう言った。鬢に白いものが混じり、目じりには数本の皺が刻まれている。目の前に畏まる仲影は首を縦に振らない。
「親治(ちかはる)様、王家の血を引いていらっしゃる方のお体に触れることは、そうめったに許されることではございませぬ。私は乳母子として若き時よりお世話申し上げており、御子様からのお許しも頂いております。が、いくら医師とはいえ、見も知らぬ者が御子様のお体に触れるなど、あってはならぬことなのです」
「ふむ……なかなか、難しいものであるな。しかし、早く回復していただかなくては、有治らも浮かばれぬ。何としてでも我ら南都の旗印となっていただかなくては。以仁王がお隠れあそばした今、我らが平家を負い落とし、政を掌握するには、御子様なくしては始まらぬのでな。そういえば、安子と當子はどうしているのだ」
「母も當子も資隆殿の邸におります。我々の消息がつかめず、やきもきしているでしょう」
「そろそろこちらに呼び戻そうか。そなたの父が死んでしまっても、わしの義妹には違いない。弟の妻を大事にせねばな。いや、実際良い働きぶりだった。思惑通り、御子様を我らが手中に収めたのだから」
 仲影は、礼をして大広間を出た。涼しい顔をして一旦草履を履いて中庭を抜け、主屋(もや)よりは一回り小さな御子に与えられた邸に上がろうと、草履を脱いだ。が、ふいに、唇をかみしめると階に拳をぶつけた。
 御子は、その音で目が覚めた。見慣れぬ天井をぼんやりと目に移しながら、まだふわふわとしている。兄宮が死ぬ夢を見ていた気がする。庭から風が入って、御子の頬をゆるく撫でた。身を起こそうとすると背中に激痛が走った。不意に、首を斬られた兄宮を思いだす。ああ、夢ではなかったのだと喉元で激しく動悸がした。夜具を両手でつかみ、その動悸に耐えようとした。
 なにゆえ、王家の者に血を流させたのだ。いにしえより、皇族の処刑は絞首刑と決まっているほど決して血を流してはならないという暗黙の決まりごとがあった。宮の首を落として弑し奉るとは! 目からは涙が揺らいで、重さに耐えられずぽたぽたと落ちた。
「このようなところで、このように身罷られてよい御方ではないのに……! 決して許さぬ。父院のご下命があろうとなかろうと、清盛だけは、平家だけは決して許さぬ」
 御子は唸った。握った拳の中で、皮膚が切れ、血が滲んだ。
 居室に入って来た仲影が、目覚めた御子を見て嬉しそうにしたが、指の間から血が滴っているのに気づくと、大急ぎで駆け寄った。
「御子、お手をお開きください」
 御子は、はっと我に返ったように顔を上げた。
 仲影の顔をじっと見つめると、御子の顔は苦痛に歪んだ。仲影が掌の傷に布を当てる。
「……ここは、大和国、源親治殿の御邸です」
「源親治……」
「ご安心を。ご身分を承知の方はご当主親治殿のみ。他の者には後白河院の御子というのは伏せております。旅の途中の成親様のお子が、戦な流れ矢にあたった、ということになっております。親治殿は、我らと共に戦った有治殿らのお父上でいらっしゃいます。それに、仲綱殿から、南都へ落ちたら親治殿を頼るようにといわれました」
「仲綱殿とそのような話をしていたのか」
 御子の額に手を当てて熱をみると、仲影はまた御子を寝かせる。
「母と當子を呼び寄せようと思います。私一人では、お世話にも限界がございますので」
 御子は、小さく微笑むと、また熱にうかされたように夢の世界へと落ちていった。

「そなたが長谷部信連か」
 西八条邸の中庭で、後ろ手に縄をかけられた信連が筵の上に腰を下ろしていた。
「以仁王は大和の方へ向かっていたが、はて、賛同する者でもおったのか」
 簀子縁にいる知盛が、扇を膝に当てながらそう聞いた。横には清盛、重衡の姿もある。信連の周りには武士が数人、太刀を抜いて立っている。信連は、さもおかしそうに笑った。
「私は、一介の武士にすぎぬ。主のために身命を賭すのみ。その他のことは埒外のこと」
 知盛は眉根に深い皺を刻んで、あからさまに不快を現した。重衡は涼しい顔をして様子を見守っている。清盛は、自分の息子たちが上手く沙汰できるかを観察しているようだ。
「そなた、そもそも、三条高倉にある宮の御所で、官人や検非違使を恐ろしいほど斬り刻んだな。宮の御所は未だに血の臭いが消えぬらしいぞ」
「そうか、それは、武勇の家に生まれた者には何よりの褒め言葉にござる。ははは」
 知盛の唇の端がひきつった。
「そなたも以前は左兵衛佐。朝廷より賜った太刀で、朝廷の検非違使の命を数え切れぬほど奪ったのだ。覚悟はできておろうな」
「なればもう少し、朝廷御給の太刀を丈夫におつくりになってはいかがか。歪むは刃毀れするわ、挙句に折れる始末」
「だまれ! 貴様が見境なく散々に斬り殺したからであろうが」
「まあまあ、兄上」
 重衡は、顔を赤くする知盛の袖を引っ張ると、信連にやさしく微笑んだ。
「今ここで、以仁王に与した者の名を吐けば、自刃を許しますが、いかがですか長谷部殿」
 信連は奇妙なものを見るような目で、重衡を見つめた。感情のこもらない作られた笑顔に、気味が悪いとさえ感じた。
「斬首で結構。私は何も望んでおらぬ。主君を守るために生きた。以仁王様がすでにはかなくおなりの今、私は何もすることがない。斬首の上蹴鞠の玉にされてもかまわぬ」
 重衡は困ったように笑った。知盛は怒りに任せて、武士どもに信連を拷問するよう命じる。野物らの周りに男どもが集まり、殴る蹴るを繰り返した。それが何刻にも及んで、信連は血まみれになった。それでも、以仁王に与した者を明かさない。知盛はとうとう決心したようだった。
「もう、我慢ならぬ。京中ひきまわした上に斬首し、首を五条の河原にさらすのだ」
 武士の一人が、ひときわ良く磨かれた太刀をもって信連の横に立った。信連の目の前で、これ見よがしに光らせる。信連は、腫れあがった顔で、不敵に笑った。
 太刀は降り上げられる。と、その時――
「待て」
 清盛は静かにそう言った。場の者は皆、微動だにできず、清盛に視線を注いだ。
 清盛は庭に降り、信連の前に立って、首をつき出すように押さえられている信連を見降ろした。
「そこもとの武士然たる振る舞い、この清盛感銘を受けた。このような武勇の男に会わぬようになって久しい。殺してしまうのは忍びない。我が配下とならぬか」
「父上」
 あまりの言葉に、重衡は信じられぬと言ったように声を上げた。
「筋の通らぬことをおっしゃってはなりませぬぞ、相国殿。私は、朝廷(おおやけ)に仕えたのちは、以仁王にお仕えした身。主君はただお一人でござる」
「わしには忠誠は誓えぬと申すか」
「二君に仕えぬのが、我ら武士の道と心得てございますれば。ただ、我が身を望んでいただいたは、この信連、有り難きことと存じ、地獄の釜の陰にても感謝申し上げる」
 信連は笑って見せた。切れた唇が裂けて血が流れた。
 清盛は、何度か頷き、そのまままた簀子縁に上がった。
「前左兵衛尉長谷部信連を配流とす。伯耆は日野に流せ。殺すには惜しい男よ。真の武士とはいかなるものか、お前たちもよく見ておくのだ」
 清盛の裁可に、一同は驚きを隠せなかった。重衡は、何やら物足りなさそうに小さくため息をついた。信連は、不思議そうに呆れて口を開けたままだった。
 清盛が広間に帰るのに、重衡も呼ばれ、そこで一通の文を渡された。それは、以仁王に宛てられた南都興福寺の返牒だった。
「まずは、以仁王を匿った園城寺、そして、その後は南都の寺々を攻めよ。園城寺、興福寺以外の謀反人を確定できぬとなれば、見せしめにこの二所を攻めるよりほかあるまい。まずは園城寺の坊主どもを解官し、権力をそいでいく。その間、お前は軍勢を立て直せ。年がかわる前に、園城寺と興福寺を攻められるように軍備を整えておけ」
 重衡は、柔らかく満足そうに微笑んだ。
「ところで、父上。以仁王を追尾した者たちから、妙なことを聞いたのですが。以仁王の供周りに、まだ元服前の子供がいたらしく、その子は、御子(みこ)と呼ばれていたと」
「以仁王の子ではないのか」
「いえ、以仁王のことを兄宮と呼んだそうです」
「何……? では後白河院の皇子だと」
 重衡は静かに肯いた。
「あのままだと南都に入ったと思われます。探索しましょうか」
 清盛は唸った。捜し出して、利用するなり殺してしまうなりするのがよい。それは分かっているが、今うかつに騒ぎ立てれば、興福寺に攻め入る計略が露呈する恐れがある。それに今は、園城寺に集中すべき時だ。
「大和国の検非違所に、妹尾(せのお)太郎(たろう)兼(かね)康(やす)を遣わそう。それに検非違使に仕立てた武士(武士)を三百騎つけて送れ。妹尾に状況を報告させれば、南都を攻めるのにも役立つ」
 清盛はそれだけ言うと、夏の暑さが堪えるらしく、剃り上げた頭を布で拭った。

 夏が終わり、七月に入った頃には御子はほとんど回復していた。仲影からの文を受け取り、御子の乳母である大和御前、そして當子も南都へ下ってきていた。
 御子は、親治の宴に呼ばれることになり、湯あみをし、當子に髪を結ってもらう。
「みずらではなく、後ろに一つでまとめてもらえるか」
 當子は、肯いて御子の髪を梳いた。
「随分、御髪が伸びましたね。まさか、切ってしまわれませんよね」
 當子は心配そうに小声で尋ねた。元服して髻を結ってしまわぬかと心配しているのだ。
「今はまだ。元服にしても裳着にしても、まずは、父院からお名前を頂戴せねば、いかんともしがたい」
 御子は狩衣を来て、仲影を供に、親治の邸の方へ出向いていった。
 當子が、御子の脱いだものを畳んでいると、大和御前が入ってきた。
「御子様は、もう出向かれたの。親治殿に、本当に気付かれていないのでしょうね。なんとしても、御子様をお守りせねば。利用される前にここを出るのが一番よいのだけど」
「大丈夫よ、母上。兄上もうまくごまかして、医師にもお見せしなかったらしいし」
「それならよいが、我らが偽りを言っていたと知れたら、親治殿にどんな目にあわされるか。親治殿の野望に乗ったふりをしてでも、とにかく、あの時は、大和から逃れなければならなかった。京にとどまっていなければ、我ら親子は生き延びてはこられなかったのだから。まさか、皇子だと思って行ったのに、実は姫宮だったなんて、そんなことを報告してしまえば、すぐに大和に戻されてしまっていたわ」
「母様、今でも痛むのでしょう。父様に斬られた足が」
「雨の前などは、ひどくいたむ。けれど大事ないわ」
「さすってあげる」
 當子は、母の足に手を置いた。

 御子が主屋の階に足をかけたところ、待っていたように中から親治が出てきて、御子を案内した。御子が宴の場に足を踏み入れると、楽しそうにそれぞれ話をしていた客人が、一斉に御子を見た。
「こちらは、故権大納言藤原成親卿のご子息です。故あって今ご滞在になっていられる」
 親治がそういうと、皆が互いに顔を見合わせて、
「成親卿は、残念なことでしたな。まったく、清盛の所業は天魔の行いじゃ」
 と納得したように肯いて、御子の周りに寄ってきた。大和国と藤原氏は切っても切れぬ歴史を持っている。そもそも藤原氏の氏神は春日大社であるし、興福寺建立にも藤原氏がかかわっていることから、大和の者は藤原氏には親しみを持っていた。盃を交わすうちに、藤原氏の春日大社に、若者を表す「冠者」をつけて、御子のことを、みな春日冠者と呼び始めた。
 京の貴族とは違って、地方の武士たちは人を疑うことを知らぬ、と、御子は少々気が咎めたが、これも致し方のないことと自身に言い聞かせた。京のことや風雅のことを皆聞きたがるので、いろいろ話し込んでいると、ふと視線を感じ振り向いた。
 庭に近い簀子縁あたりの柱に背を預けて立て脛をし、じっと御子を見ている若武者がいた。目が合うと、唇の端を少し上げて、愛想も何もない笑顔をつくった。冷めた眼差しで、仕方なく宴に参加しているという様子だ。
 白拍子が舞い、今様が始まった。
「これはまた、今様とは、京の流行でございましょう」
「今様といえば、後白河院様でございますな。あの御方は、ほれ、和歌はどうにも不得手で今様を極めるとおっしゃったとか。遊女や白拍子、舞人などとともに随分今様をおつくりになったらしいですな。王家の方らしからぬ面白き御方じゃ、はっはっは」
「そういえば、相国殿が、院を福原へ御幸させ申し上げたらしい」
「強引じゃのう。あちらに都を作るという噂は、まことのようだ」
 御子は、驚いて顔を上げた。
「遷都、でございますか」
 客人たちは、無邪気に肯いて、
「そういう噂があるのでございますよ。しかし、あちらは土地が狭いし、まだ造成中とか。いつ都遷りをするつもりかは知らぬが、無理を通すのもこれほどかと存じますなぁ」
 御子は、あまりのことに客人の前を辞し、茫然としてその場から離れた。ふらふらとおぼつかない足取りで、外の空気を吸おうと渡殿の方へ向かう。仲影が心配そうについてくる。
 渡殿の柱で体を支えると、庭を見つめたまま背後の仲影に聞いた。
「父院様は、大事ないのだろうか。何か聞いているか」
「さすがに、大和の地は鄙びておりますれば、情報を得ることが難しく……」
「遷都を思いつくなど恐ろしい男だ。しかし、なぜ……。京には立派な六波羅もあれば、その他数々の平氏の邸が点在している。それを捨ててまで遷す理由があるのか」
 御子は、欄干をつかんだ。京と福原の行き来に疲れたのか。自分の都が欲しいのか。いや、既に京は、清盛が主導権を握っている都になり果てている。では……。
「園城寺か……。そうだ、此度の園城寺と興福寺の動きに危機感を募らせているのだ」
 腑に落ちて、御子は仲影に振り向いた。と、仲影の後ろに一人の男が立っているのに気付き、驚きのあまり息をのんだ。御子の顔を見て、仲影も後ろを振り向く。
 その男は、先程遠くから御子を見ていた冷めた目の男だった。
「あ、こちらは、親治殿の遠縁で、二川冠者(にかわのかじゃ)とよばれていらっしゃる源信親殿です」
 仲影は冷や汗をかきながら、御子に紹介した。
「信親殿、そなたいつからそこにおられたのだ」
 御子がそう呟くと、二川冠者は心底楽しそうに歯を見せた。
「最初からだ。貴殿がここに立った時から」
 足音一つせず気配もしなかった。いったいこの二川冠者とは、何者なのだ――。
「まあ、そう警戒めさるな、御子さんよ」
 すでに会話の内容から後白河院の御子とわかっていながら、まったく敬意も払わず恐れ畏まることもしない二川冠者に、御子は驚きを隠し得ない。
「それより、肩の具合はどうだ。戦で負傷したのだろう」
 御子は、思わず周囲を見まわした。誰かが聞いていたらことだと思ったのだ。
「心配無用。今この周辺には、我ら三人しかおらん」
 そういって、御子の右手頸をもってぐっと上に引っ張り上げた。
「あっつ!」
 ひきつるような痛みに、御子は声を上げた。が、それよりも手を引く隙もないほどの、二川冠者のすばやさに驚愕した。間に立っていた仲影さえ、全く反応できなかった。
「あまりかばっているとよくない。傷は次第に固まってしまう。傷さえ塞がっているなら、しっかり動かす方がよいぞ。では、それだけだ、言いたかったのは」
 そう言って、背を向ける。
「に、二川冠者!」
 ちょっと振り向いて片手を上げると、二川冠者は行ってしまった。 

 園城寺の僧たちが軒並み解官されているという噂が大和に届いた。その頃、新しい検非違所の役人が来た。元は備中国の武者妹尾兼康という男で、明らかに官人らしからぬ者たちを検非違使と称して三百人も連れてきた。大和の源氏たちは、不穏な空気を察知し始める。ことに、妹尾兼康が親治の邸の中を探るように、妙に周辺に出没するのを見れば、さすがに御子も不安になった。そこへ、先日会った二川冠者が訪ねてきた。
 御子は緊張を隠せないが、二川冠者は何の構えもなく御子に出された円座に腰を落とす。
「清盛が、貴殿のことを調べているようだ。ここにいると当て込んで、周囲に数名、農夫に身を窶した検非違使が歩いていたぞ」
 そういう二川冠者に、仲影が声を落として、
「信親殿、畏れ多くも院の御子様です。お言葉にお気を付けくださいませ」
「そんなだから、露呈するのだ。京の貴族の子という設定も上手くなかったな。単なる旅の男とすればよかったのだ。命あっての物種。首を斬られては元も子もなかろう。あれほどご立派だった以仁王でさえ、骸になればいかんともしがたいではないか」
 最後の言葉に、御子は思わずむっとした。しかし、二川冠者のいうことは、いちいち尤もである。御子は、歯を食いしばった。
「信親殿のおっしゃる通りだ。反論の余地もござらぬ」
 御子はそう呟く。二川冠者は、じっと御子を見つめた。
「今後、貴殿はなにをするつもりなのだ」
 御子も二川冠者を見つめる。この男に思いのたけを告げていいものか、ひどく逡巡した。その間の沈黙を、二川冠者はじっと待っている。初めて見るこの男の真面目な眼差しで、御子は決心がついた。
「清盛を打ち、父院を助けようと思う」
 二川冠者は、少し不服気に口を引き結んだ。
「……清盛、というところを平家に置き換えて、父院というところを……まあ、国とまではいかぬとも、民草や政、と置き換えないものかね」
「つまり、平家を討伐し国を救えと?」
 二川冠者は肯いた。
「貴殿の兄宮の志を受け継いではどうか、と申しているのだ」
 御子は、眉根をぐっと寄せた。この男は、いくら目端が効くとはいえ、自分が女の身であることまでは知らぬ。だからこそ、大きな事を口にするのだ。
「二川冠者、ここへ今日参られた理由を、いや、あなたの望みをお聞かせいただこう」
 御子は居住まいを正し、真正面から真っ直ぐ二川冠者を見据えた。さすがに、二川冠者も少々緊張した面持ちで、姿勢を正す。二川冠者は、唇を引き結ぶと御子を見つめた。
「強い帝が欲しい」
「強い、とは?」御子は戸惑った。
「賢しいということだ。世の決まりごとを作ればよい。延喜式のような儀式張ったものではなく、式目を作って、皆がそれに従うのだ。最初の内はどうしても武力で統制せねばならぬだろうが、式目に従うことが常となれば、世の中から弓矢がなくなるだろう。その最初の足掛かりとして、強く賢しい帝が欲しい。今の世の中、間違っておると思うのだ。政は、一人の人間が思いのままに操って良いものなのか。寺は魂を安んずる場所で、僧は人の魂を救うもののはずではないのか。いつになったら、殺し合いが終わるのだ。こんな今の状況を、何とかしたくてたまらぬのだ」
 御子は、黙り込んだ。又沈黙が長い。
「申し訳ないが、私は帝にはなれぬ。が……王権を王家に取り返すよう努力することはできよう。外戚に左右されない帝を選び、式目に従う世を作っていくのは、悪くない」
「何故……」
 ――帝になれぬ。
 二川冠者は、そう言いかけたが、真直ぐに自分に向けられた御子の目を見つめると、口を閉じた。何か訳があるのだろう。今は触れぬ方がよいと考えた。
「そうなれば、まずは生き延びることだ。仲影」
 ふいに名を呼ばれて、仲影は顔を上げた。
「御子に水干を着せよ」
 何を思いついたのかと驚いたが、驚くのはまだ早かった。荷物もまとめさせず、水干の格好をさせたうえ、指貫を膝の下で上括りにして脛を出させ、それを砂で汚して粗末な草履をはかせた。そして、自分の馬の轡を御子に持たせて、當子と仲影を供にし、堂々と正門から親治の邸を出たのだった。目つきの鋭い数人の農民が邸に注意している中を、自分は馬上でのんきに朗詠を口ずさみながらゆったりとすすみ、南都のはずれにある自分の邸にまで御子を連れていった。
「愉快極まりない。あの検非違使どもの間抜けにも程があることよ」
 二川冠者は、くっくっくと肩を震わせて目に涙まで浮かべて笑った。が、庭先に立っている御子は、足が砂だらけで気分が悪い。むっとしたまま立っていると、邸の者が水桶を持ってきたので足を洗った。
「まあ、そう怒るでないぞ」
 二川冠者は御子を厨に連れていき、水瓶から柄杓で水をすくって差し出した。
「結構距離があったので疲れたであろう。水を飲んでおけ」
「二川冠者、何と無礼な」
 水桶を戻しに来た當子がその様子を目の当たりにして青ざめる。が、二川冠者は、唇の前に人差し指を立てて、もう一度御子に柄杓を差し出した。
 御子は、柄杓を受け取ると、そっと唇を当てて飲む。このようなもので飲むのは初めてなので、胸元を濡らした。二川武者は呆れたように笑って、空になった柄杓を受け取って放り投げると、御子をつれて主屋に向かってぐんぐん歩きだした。
「呼び名が必要だ。そうだ。先日の宴で春日冠者とよばれていたな。それでいこう」
「名をつけるのだけは、許さぬ」
 御子の目が異常に釣りあがっているのを見て、二川冠者は、首を傾げた。
「単なる通り名だ。まずはその弱弱しいのを何とかせねばならぬ。わしが鍛えてやる」
 二川冠者は、足早に主屋に上がると、奥から太刀を一振りもって出てきて、御子に渡す。見たことのない短い太刀で腰ぞりが浅い。真直ぐと言っていいほどだ。なのに意外と重い。
 二川冠者は、今度は離れの方へ走った。離れの奥の庭には、弓場があった。そこで、半弓ほどでもないが、小さな弓を御子に渡した。
「春日冠者、言っておくがこれは童用ではないぞ」
 言われて御子が弓を引こうとしたが、大急ぎで二川冠者に止められた。
「危ない、今の右肩の状態で、こんな強い弓を不用意に引いては、肩が使い物にならなくなる。さ、次は居室を決めよう」
 厩に馬を渡してやっと追いついてきた仲影が弓場に入ってきたが、二川冠者とすれ違う。とにかくゆっくり移動するということをせぬ男だった。
 夕餉の頃、御子は乳母の大和御前への文を使いの者に持たせ、裏口から親治邸に遣わした。何の挨拶もせずに出てきたので、心配いらぬと事情を認めたのだった。
 自分の居室に戻ろうと、裏庭に面した縁を歩いていると、二川冠者が屈んで何かしていた。御子の気配に振り向いて、二川冠者は不敵な笑みを浮かべた。
「麻の種を埋めたのだ。明日の朝から、この上を、毎朝十回飛ぶのだぞ」
 なるほど、翌朝、既に芽が出ていた。御子は、これも鍛錬の一つなのだろうが、妙なことをさせると思った。とりあえず、小さな芽の上をひょいひょいと跨いだ。
 ところが翌朝になると、芽はまた背を高くしていた。この調子で伸びるとすると、十日もせぬうちに越せぬ高さになりそうだ。なるほど、脚力をつける鍛錬らしい。御子は黙って従った。
 なぜなら、今はとにかく強くなりたかったのだ。以仁王の最期を夢で見、うなされて目覚めるたびに、強くなろうと誓った。あの時、自分がうっかり矢に射られて声を上げたために、兄宮が命を落としたような気さえして、弱い自分を憎んだ。
 右肩を動かせるようにするため腕を上げたり、高い所にぶら下がったり、山道を走ったり、時には稲刈りを手伝ったりと、毎日毎日体を使った。御子の腕も足も太く強くなった。
 その頃、東国では以仁王の令旨を受けた源氏が次々と立ちあがっていた。伊豆の源頼朝も領主、武士どもの力をかりて戦に臨んでいた。負け戦ではあったが、源氏の棟梁源義朝の子の反旗は、諸国の源氏どもに力を与えた。そしてそこに、九郎義経が加わり、勢いを増した源氏に追い立てられるように、東国へ平定に向かっていた平家の大将どもが、次々と逃げ戻ってきた。京では、安徳帝に譲位した六条上皇と清盛の関係が良好であることから、後白河院は、監禁状態から軟禁状態へ移った。

 十月に入った頃、大和では、二川冠者は御子と太刀の手合わせを始めた。
 カツン! と太刀がぶつかると、二川冠者は、はっとして身を引いた。しかし、思い直してまた御子に向かった。御子は慣れない短い太刀に苦戦しながらも、二川冠者の太刀をきちんと受けた。
「さすが、合戦を経てきただけある」
 感心したように二川冠者が言うので、御子はふと信連を思いだした。おそらくもう生きてはいまい。しかし、彼に仕込まれた武芸は、御子の心身に刻み込まれているのだ。御子は、嬉しいような切ないような、そんな寂しさに唇を引き結んだ。
 と、ぼんやりしていると、ふいに二川冠者の太刀が、御子の喉元を捕らえた。とっさに身を引いたが、実践ならとうに首から血が噴き出している。
「わしの武芸は京にはない独特のもの。よく見ておけよ」
 そう言って、二川冠者は、御子に太刀も弓矢も教え込んだ。
 十二月も末になった頃、平家が園城寺を焼き討ちしたという報せが来た。
 神仏を祀る寺社に火をかけるなど、恐れを知らぬ罪深い行為だ。多くの僧が命を奪われ、伽藍や塔などもすべて灰燼となり、生き残った僧らも水責め火責めを受けているということだった。
 この報に対して、南都興福寺の僧兵は、ひどく騒ぎ始めた。その騒ぎようは京にも伝わり、公家が一人事情を聴きに派遣されてきた。何に対する怒りかと使者が聞けば、南都の僧兵らは、「ただただ清盛憎し。清盛の死を求める」と訴えて、清盛に似せた首を作り、童遊戯の毬杖(ぎっちょう)の杖で殴りつけて壊し、その上皆で殴る蹴るの悪行を働いて、その偽首を曝すということまでした。また、それに飽き足らず、検非違所を襲って妹尾兼康の配下数人を殺害し、猿沢の池のほとりにそれらの首を曝した。
 さすがに火に油を注ぐ行為だと、御子も身の縮む思いがした。が、特に平家方の反応はなく、思いのほか静かな年末だった。雪でも降りそうだと、御子は少し薄曇りになった夕方の空を見上げていた。
「よそ見をしてはいかん」
 二川冠者が、後ろから鞘に収まったままの太刀で、御子の後頭部をこつんとやった。
「っつ!」
 御子は、黙って後頭部をさする。隙あらば攻撃される毎日で、気が休まる時がない。その様子を見て、初めの内こそ目くじら立てて「不遜だ、畏れ多い」と怒っていた當子でさえ、くすりと笑うほどに、御子と二川冠者のやられてはやり返す鍛錬は、日常化していた。
 と、そこへ、家人が息を切らして駆けこんできた。
「信親様、大変です。平家の大軍です。南都の衆徒たちが応戦しましたが、なにしろ三万という大軍で、あれよという間に南都へ押し入って、あろうことか興福寺に火を放ち、今は東大寺に向かっております」
 御子と二川冠者は顔を見合わせた。御子、仲影、二川冠者は急いで、武装して馬にまたがり、東大寺へ向かった。
 冷たく厳しい風が一層強くなり、御子の頬を斬るように吹く。空はすっかり夕闇に覆われ、薄暗い。その夕闇の中、東大寺の周りには武士どもが、すでに一定の距離を保って集まっている様子だった。御子たちの前を老若男女が、大仏殿へ急ぐ。人々は、その東大寺の二階部分を安全と見て梯子に群がるように入っていく。如来でもなくここには大仏がおわしますのだ。その建物を、いくら傍若無人御平家でも、よもや害すはずがないと信じて逃げ込んでいるのだ。
 様子を見てくるといって、仲影と二川冠者は馬から降り、梯子の方へかけていった。御子は、平家の軍勢の方へ馬を向かわせた。総大将と話をするつもりだった。が、いくらも近づかぬうちに、平家の軍勢が一斉に動き出し、大仏殿の方へ押し寄せ始めた。御子が急いで軍勢に近づこうとしたそのとき、夕闇の中で、ぽっと一つの明りが灯った。いや、明りではなく、松明だ――。
「ならぬ! 女子供を焼くつもりか!」
 思わず声を上げてその松明に向かって馬を駆けた。が、一つの松明は二つになり、見る見るうちに数え切れぬほどの火が灯った。御子は、兵士たちの攻撃を太刀でかわしながら、松明の方へ急いだ。が、火は急に大きくなり、大仏殿の壁を赤々と染めだした。
 御子は馬を翻して、人々が二階に避難した梯子の下に向かった。馬の尻を叩いて逃がすと梯子の許に走り寄る。そして、梯子段の下から大声で告げた。
「火が放たれた! 逃げよ! 外へ逃げよ!」
 御子は避難を手伝おうと梯子段を上がり、先に上がっていた二川冠者、仲影とともに手近い人を梯子の方へ促そうとした。が、奥の方から煙と同時に、人々がわっと押し寄せ、梯子の上は大混乱に陥った。
 御子は人々とともに押し出され、梯子段を転がり落ちた。かなりの高さであったにもかかわらず、運よく転がるようにして落ちたため、大してケガをしなかったが、上から落ちてきた人々に下敷きにされたために身動きが取れなくなった。落ちた人々は、動かなくなる者あり、すぐに走って駆けだす者あり、痛さに叫び声を上げる者ありで大混乱した。このままでは人々の重みで死んでしまうと、御子は必死になって這い出た。そして、可能な限り大声で、助かった者を大仏殿の外へ出るよう促した。と、トスッと音がして、外へ出た男が「ぎゃ!」と声を上げた。
「平家が矢を放って来るぞ」
 外へ逃げた人々が次々と倒れるのを見て、中の人々は外に出られず二の足を踏む。ところが二階からは外へ出ようと人が押し寄せる。すでに二階から雪崩落ちる人々で大混乱していた大仏殿の中は、煙が充満し、二階の入り口からは、炎に照らされて人々が逃げまどう影がせわしく壁面を走り回る。二階を駆け回っている足音、梯子を落ちて呻く声、逃げようとして矢で射られてもだえ苦しむ声。恐ろしいほどの音の氾濫だ。
「押すな押すな!」
「外へ出ろ!」
 御子は周りを見まわす。炎は大仏を赤くしはじめていた。仲影が御子に駆け寄る。
「今見てきた感じでは、風は南西に向かって吹いています。このまま大仏殿を出てすぐ右に迂回し、大仏殿の北側へ回っていくことさえできれば、人々も助かるかと」
 御子は頷いて、
「仲影、みなを頼む。私が引きつけている間に、逃してやってくれ」
 御子は勢いよく大仏殿の正面に躍り出た。御子は、飛んで来る矢を太刀で払い落としながら、大音声を上げた。
「我こそは、後白河院の落胤なるぞ。我が首とって名を上げるがよい」
 そう叫んだ時、御子の胸の中で、何かがチクリと動いた気がした。
 平家からの矢が一旦止んだ。仲影はその機を逃さなかった。人々を誘導し外へ逃がす。それを確認して、御子は再び平家の方を見る。以仁王の首をとった輩だ、すぐさま首を取りに来るかと思ったが、慮外の静けさだった。平家の軍勢は、大仏殿の炎に照らされ、夜の闇の中どれほどの規模なのか良く分かる。
 その中から、萌黄の鎧を着た武者が一人、馬に乗って出てきて、御子の前で止まった。
「院の御落胤なるは、まことか」
 馬上から見降ろす黒い眼差し、馬上を見上げる怒りの眼差しがぶつかる。
「きさま、あの時の女房ではないか」
 そう言われて御子は、はっとし、馬上の武士の顔をまじまじと見た。捕らえられた成親に会いに行った時に、西八条邸で見かけた顔だった。
「重衡……」
 西八条でのなよやかな顔つきとは全く別人のように、重衡は魔物のように笑った。
「成親の娘ではなく、院の御子であったか。そうか、おまえが、そうだったのか。ははは、あはははは! 父上もまんまと騙されたものよ、男《おのこ》だったとは!」」
 重衡が右手を上げると、数名の武者たちが走り寄ってきた。
「こ奴を捕らえよ。殺さず連れて帰る。よき手柄ぞ」 
 御子は太刀に手をかけた。武者の一人が太刀を抜いて近づく。他の武者どもが御子を囲むと一気に飛びかかってきた。御子は太刀を抜きざまに武者どもの腕を斬りつけ、ある者は指を切り落とし、ある者は首を太刀で貫いた。一瞬返り血に怯んだが、ぐっと耐えた。
 それを見ていた重衡が、太刀を抜いて馬を寄せた。すれ違いざまに御子に太刀を振るった。御子は前に転がって太刀をよけ、すばやく身を起こすと、急ぎ小さな強弓を構えて重衡の背中に矢を射た。矢は大袖を貫いて重衡の右腕に刺さった。すぐに二矢を放つと、重衡はよけるために落馬した。御子が急いで駆けよる。重衡は大急ぎで立ちあがると、御子が振りかざした太刀を受けた。互いに鍔迫り合いになり、間近く顔を突き合わせる。
「良くも女子供を焼いたな、それも大仏に火を放つなど! 天が許すと思うてか!」
「ふん、天など恐ろしくない。こちらにはこちらの、正義、というものがあるのだ」
 矢傷を負った腕に力が入らぬらしく、重衡は御子に押され気味だ。
「院の御子、きさまの顔は決して忘れぬぞ」
 重衡は憎々し気にそう言い放つと渾身の力で御子を押しとばし、すばやく身を翻して馬に乗って逃げていった。代わりにわっと武者が押し寄せてくる。距離があるので、御子は急いで矢を番えて放ち、幾人か倒した。しかし、一人で応戦するには余りある人数だ。と、そこへ鋭い音を立てて、御子の脇から幾筋も矢が飛び、平家の武士どもを次々と倒した。
 後ろを見ると、二川冠者と仲影が、同じように弓を構えて矢を放っている。
「仲影……?」
 仲影は、なぜこの弓を使えるのだろう。かなり特殊な弓だというのに。
 御子は呆然と仲影の弓捌きに見とれた。そこへ、矢から逃れた平家の武士どもが、御子に襲い掛かった。が、それを仲影が一太刀で斬り倒した。さらに向かってくる敵兵に、仲影は何の無駄もない太刀裁きで応じる。まるで二川冠者を見ているような太刀筋だ。
 ――そうだ、民は?
 大仏殿に振り向くと、既にすべてに火が回っており、二階からの悲鳴も途絶えてしまったようだ。炎の中で大仏の溶けた顔が見えていた。
 御子は軍兵の向こうにいる重衡を睨んだ。重衡は、これ以上はないほどに不機嫌な顔で、二川冠者と仲影の戦いぶりを見ている。が、突如、近くの家来に何か伝えると、大軍の中に戻っていった。代わりに家来が、御子たちの方へ寄ってきて、
「退け! もう、南都は焼き尽くした」
 そう言って、兵を退かせ、平家はまるで潮が引くように、軍兵を退却させた。
 東大寺大仏殿の炎に、大仏は赤々と熱せられ、少し南の方に目を向ければ、興福寺の炎が天に昇るほど上がっている。近隣の寺社も焼かれて、南都はもはや火の海になっていた。

六、仲影

 夜が明ける――。朝日に照らされた南都は変わり果てていた。木々も寺社も、そして、人間でさえも、炭となってころがっていた。煙がまだ燻って小さな炎が残っている。その中で生き残った者はさまよう。焼け爛れた体で子供の名を呼びながらさまよう母。泣き叫ぶ赤子の声。今まさに浄土へ旅立とうとする呻き声。
 御子は、生きている者を東大寺の北にある庭へと集めた。南都の人々は次第にそこに集まってきて、火傷を負った人を介抱したり、自分の知人を探し始めたりした。
 御子がふと目を上げると、二川冠者の姿があった。
「今、他の源氏の方々に会って来た。重衡率いる平家の軍勢は、京に帰ったらしい」
 御子は黙って頷いた。そこへ仲影が、足を怪我した老人を背負ってやってきた。老人をそっと下ろして立ちあがると、御子の腕から血が出ているのを見つけて、「お怪我なさいましたか」と言って御子の腕をとった。が、御子はその手を払った。二川冠者も仲影も驚いて御子を見つめる。
「何者なのだ……」
「え?」
「仲影……お前は一体、誰なのだ」
 御子は仲影を見つめた。自分が生まれた時から兄のように寄り添ってきた存在――。何でも話しあえて、どんな時も共にいた。すべて分かっているはずだった。
「なぜ、二川冠者と同じように太刀や弓矢を使いこなせているのだ。それも手練れの域だ」
 仲影は、口を少し開きかけたが、すぐに閉じてしまった。そして何も言えない様子で御子を見つめている。御子は答えをじっと待った。しかし、仲影の口は開かない。視線を外すと、御子はすべてを振り捨てるように歩き出した。
「春日冠者」
 二川冠者が御子の腕をとった。が、御子がその手を払って進もうとすると、二川冠者が、御子の前に回り込んだ。御子は、その脇をすり抜けようとしたが、二川冠者に体を抱え込まれた。と、すぐに、二川冠者は両手をパッと上げて驚いて御子を見つめた。御子は、その隙にその場を走り去った。振り向きもしなかった。
 仲影は、身動きが取れず、御子の背中を見送っていた。

 御子は二川冠者の邸に戻ると荷づくりをした。とはいえ、持ち物は少ない。九条院の衵扇、成親の形見の数珠。水干に着替えて馬を出しに行こうとしている時だった。
「御子様!」
 邸に戻ってきた仲影が、厩へ向かう御子の前に跪いて平伏した。必死に走って来たらしく、十二月だというのに、ひどい汗を流している。御子の手荷物を見ると、はっとして御子を見上げ、目を震わせた。
「どうか、中へお戻り下さい。お話し申しますので」
 御子はぎろりと仲影を睨み下ろした。
「ここで話せばよい」
「兄上?」
 當子の声がして、おずおずと近寄ってきた。そして、御子と兄を交互に見比べると、異様な空気を察知したように兄の少し後ろに同じように跪いた。仲影が、自分の知らぬ誰かであるというのなら、その妹當子も、自分の知らぬ誰かなのだろう。御子はそんなことを思う。
 仲影は、話そうとしては口を閉じ、唇を震わせて言いよどんでいる。そうするうちに、鞍をつけた馬が連れられてきた。御子は馬に跨ると、何の躊躇もなしに、馬の腹を蹴った。
「御子様!」
 乳母子の二人が叫んでいる。しかし、御子は、馬を止める気はなかった。真直ぐ、京を目指して駆け出した。きっと仲影は追いかけてくるだろう。それは分かっていた。しかし、御子はどうしても走りたかった。今自分を取り巻いているものはいったい何なのだ。いや、もしかしたら自らの知らぬ間に、幼い時から自分の周りに漂っている目に見えぬ渦のようなものを感じていたのかもしれない。
 いつも、なにごとも「わからぬまま」であった。
 奈良坂を過ぎ、木津川に差し掛かったところで、後ろから馬蹄の音が聞こえ、あっという間に御子の前を、馬にまたがった仲影が立ちふさがった。予想通りのその姿を見るや、御子の頭にかっと血が上り、仲影に飛びかかった。仲影は抵抗するでもなく、木津川の河原に御子とともに落ちた。
 御子は、仲影に馬乗りになって襟をきつく掴んだ。仲影のよく日に焼けた首に、襟は厳しく食い込んでいる。相当痛くもあり苦しいはずだった。しかし仲影は、抵抗もせず、申し訳なさそうに御子を見上げている。それを睨みつけながら、御子は一層襟をつかむ手に力を込めた。が、次から次へと涙が流れだし、押し込めようとすればするほど、嗚咽になって溢れ出す。もう自分ではどうしようもなくなって、仲影の胸の上に顔をうずめた。
 大声をあげて、泣いた。何もかもが分からなかった。なぜ父院は自分を忌み嫌うのか。なぜ名を持てないのか。なぜ、父と慕った成親はあのような末路をとげねばならず、憧れであり頼りであった、初めて肉親らしく感じた兄宮が、なぜあのように無念の死を遂げなければならなかったのか。そして、唯一、全く疑いなく、まるで自分の一部のようだった仲影當子兄妹を、ここへ来てなぜ疑わねばならぬ事態に陥っているのか。その何者かもわからぬ者の胸に、顔をうずめて泣くことのできる自分も、とても理解しがたいものだった。
 木津川の河原は幅広く、丸く大きな石がごろごろと転がっている。過去に何度も氾濫を起こしている川と聞いていたが、そうとは思えないほどの穏やかな水の音が、御子の心を落ち着かせた。ひとしきり泣くと、御子は身を起こして川で顔を洗った。仲影は懐から布巾を出し、御子に差し出す。御子は黙って受け取って顔を拭いた。仲影は、御子が落ち着いて自分の方を向くのを待っているようだった。
 大きな石の上に腰を下ろした御子の前に、仲影は両膝をついてその上に拳を乗せた。
「わが母と當子、そして私は、御子との縁を持つために、親治殿に使わされました」
 御子は、唇を引き結んだ。親治、そうか、あの男が――。
「私がこちらで介抱されて武芸を教え込まれたのは偶然ではなく、私が生まれた時から、そなたらが仕組んでいたのか。この私を利用しようと」
 仲影は、はっと顔を上げて、両手を川原の砂利の上についた。
「違います。決してそのようなことは。たしかに、親治殿はそういうお考えがあったでしょう。しかし、我ら母子は、御子を利用しようなど、決して思ってはいません」
 御子は黙ったまま、視線をそらした。仲影は悲しそうにまた畏まった。
「そもそもわが母安子は、源親治殿の末の弟弘満と夫婦でした。我が父弘満は、遊女が産んだ子として一族に軽んじられたためか心が穏やかでない人で、朝から酒を飲み、あちらこちらの女のところへ入り浸っては、時々邸へ帰ってくる。そして帰ってくると母を殴っていました。母は、同じ源氏一族の遠縁で、兄が九条院様の判官代も勤めていたほど、源氏の中ではある程度地位のある者です。鄙びた大和の地でも身分の差というものはございます。父は、源氏一族の中で、自分よりも地位が高い母を疎んじていたのでしょう。折檻は、日に日にひどくなりました。そんな折、九条院判官代の母の兄から、九条院様が乳母をお探しだと聞きました。九条院様からの文では、さる御方のお子で大変高貴なので、後々そのお子を守護できるような一族の出の者がふさわしいとあったそうです。内々に後白河院の御落胤の可能性が高いと母の兄から聞いた親治殿は、ちょうど當子を産んだばかりの母を乳母に推挙しました。つまるところ、院の御子の乳母となれば、大和源氏の先が開けると、お考えのようでした」
 御子は、ふと祖父資隆と曾祖母の尼君を思いだした。人々の中で、自分は出世の足掛かりとしてしか存在価値はないのだと、今更ながら自覚した。
「母は、乳飲み子の當子を胸に抱き七歳の私の手を引いて京に入ったのです。半ば、父から逃れるためではありましたが、母は御子の安らかなお顔を拝見して、ぜひ乳母になりたいと望んだようでございました。九条院様は、母を乳母に決めると、我ら親子三人だけにお話になりました」
 仲影は、じっと御子を見つめた。
「この御子は、後白河院の姫宮だと。しかし、故あって、身分は明かせない。大和の方にも時が来るまで決して明かしてはならないと。そして、おそらく、後々男皇子として世に担ぎ出されるだろうと。苦難が待っていることは明白で、だからこそ、命をかけて姫宮を守ってくれる者が必要なのだ。ゆくゆくは大和源氏の力添えを請いたいと。九条院は幼い私の手を眠る御子の手に重ねて、お手で包みこんで、どうかこの子を守ってほしいとおっしゃいました。私は、今でもはっきり覚えています。あの時の御子の小さな指も、温かい九条院様のお手も」
 今更ながら、母院の手に触れたように、御子の胸にやっと温もりが戻ってきた。先程とは違った温かい涙が御子の頬を濡らした。今のこの状況をどこまで九条院が予見していたかはわからないが、少なくとも、男皇子として担ぎ出されることは、感じていたことはまちがいない。となると、やはり――
 なぜ自分は男として世に出されたか。
 すべてがそこに帰着してゆくのだ。男皇子として担ぎ出される危惧があったなら、女宮として世に出せば今の危険は避けられたはずなのだ。それを、わざわざ男皇子として父院と引き合わせた。
 父後白河院が「不吉」「女ならば殺してしまえ」といいはなったあの言葉に、おそらく答えはあるのだろう。
 ふと、何かが御子の胸に引っかかった。
「なにゆえ、九条院様は、私を後白河院にお引き合わせなさったのだろう。父様もそうだ。男装をさせたのは父様ではなかったか」
 突然御子がそう言ったので、仲影は不思議そうに見つめた。
「男ならば仏門、女ならば殺してしまえと、そう言われたなら、ひっそりと自分の子として育てて下さればよかったのだ。あるいは、父は死んだのだとでも言ってくれていれば、私もことさら本当の父に会いたいとは言い募らなかっただろうに」
「やはり、高貴な御血筋をなかったことにしては、畏れ多かったのではないでしょうか」
 わからないながらも、仲影はそう答えた。
 そう、なのだろうか。責めを受けて顔を腫らした、最後の成親の顔がちらついた。
 ――何があってもご身分を軽んじられませんように……。
 身分を軽んじるな、とは、おそらく後白河院との父子関係を大事にせよということだろう。ということはやはり、私の血を第一に考えて、九条院の許で養育したということか。
「御子様。どうか、私たち親子の真心を信じてください。だからこそ、御子の御身が大事だからこそ、大和に姫だと教えず、共に生きて参ったのです。當子が、御子のお帰りを待っています。私が出るとき、ひどく泣いていました」
 共に育った十五年が嘘ではないことぐらいは、御子にもわかっていた。分かっていたから、話を聞いたのだ。いかようにも信じきれぬのなら、振り切って京に入っていた。
 仲影に促されて、御子は立ちあがった。
「大和源氏の一部の方々は、私を男皇子だと思っているのだな」
「はい。九条院様の言われた、時が来るまでというのが、いつなのか。……それに、後白河院とのことがございますので、今は皇子としたままのほうがよろしいかと」
 御子は肯いて馬の背にまたがった。仲影とともに、ゆっくりと大和の方へもどってゆく。
「そういえば、武芸はいつ身につけたのだ」
「月に一度、こちらに参って、二川冠者とともに師についておりました」
 昔から、仲影はよく使いだといって姿を消していた。月に一度だったかは記憶にないが、一度いなくなると十日は戻ってこなかった。
「稽古をつけてもらい、技を教わって京に帰り、一人鍛錬を続けておりました。ただそれも、師が亡くなったので、京の大火の少し前あたりで途切れてしまいました。二川冠者は、実は最初から後白河院の御子だと存じておりました」
 そうだろう。だから、私に近づいたのだ。民や国を救えとは美しい言葉を並べたものだ。しかし、お蔭で思わぬ武芸を身につけた。身につけたというにはまだまだだが、それでも、少しずつ自分という人間が育っているのを感じた。
 煙の揺らいでいる南都が見えてきた。地上の惨状に比して、遠い空は明るく美しい。南都は宮城で囲まれているわけでもなく周りに緑が見えるせいか、とても晴れやかな土地だ。
 ――母院様は、私を守るためにここまで手を尽くしてくださっていたのだ。
 御子はふとそう思うと、申し訳なくもあり、ありがたくもあった。
 
 二川冠者の邸に戻ると、親治の使いが待っていて、すぐにお越しくださいと言伝をうけた。急ぎのようなので、御子は馬から降りる間もなく、親治邸にむかった。
 親治は大広間で待っていた。その表情は厳しく、憤りに満ちている。
「御子様、どうか、我らの旗印とおなりください」
 なるほど、やはりそうきたか、と御子は思った。
「今はそれどころではないのでは。まずは南都を立て直さなければ。源氏の武士は確かにあまり被害はなかったろうが、こちらの兵力はなんといっても南都の衆徒。僧兵の彼らが大勢命を落としているのだから、かなり力をそがれてしまっている。それで挙兵となると、負け戦を仕掛けることとなる」
「東国では、頼朝が富士川の合戦でみごと平家を蹴散らしており、信濃国では頼朝の従兄弟木曽義仲が既に挙兵しております。他にも河内源氏、近江、美濃、土佐、伊予。これほどの数を味方にして、なにゆえご英断なさいませぬか」
「確かに数は多かろう。しかし、地方に散りすぎている。各個に潰されてゆくこともある。そうされては元も子もない。まだ機は熟しておらぬ。せめて、河内源氏、近江、美濃あたりの源氏とともに京入りできるよう僉議せねば。平家の兵力を甘くみてはならぬ」
 京から遠く離れていれば、小さな戦を繰り返して領地や兵力を吸収しつつ、力をつけて京に入ることもできる。しかし、大和は京に近すぎる。福原や京には長い間国の騒乱を収めてきた平家の軍兵が雲霞のごとくいるのだ。今、怒りに任せて動けば、兄宮の二の舞になることは、火を見るより明らかだ。
「とにかく、時期尚早というよりほかない。密かに力を集結し、同時に京に攻め入るというなら話は別だ。河内源氏や近江と話しあってはいかがか」
 親治は、じっと御子を見つめると、
「もし共に他国と京入りして、そちらに主権を握られてしまえば、大和源氏としては……」
 御子は、呆れてものが言えなかった。大義名分ではなく、やはり、おのが一族のためではないか。
「……そのような狭量なる意を聞かされるとは思わなかった。悪いが、とうてい旗印になどなれぬ」
 御子は、立ちあがってその場を去ろう立ち上がった。すると、ふいに大勢の気配がして、あっという間に武士どもに囲まれてしまった。手を伸ばせば触れるほどの距離で二十人ほどに囲まれ弓で狙われては、太刀を抜くのも無駄だった。武士どもは機械的に動き、御子を縄で縛って蔵に押し込めた。
 
 何日経っただろうか。南都が焼けたのは年の瀬だった。年も改まったはずだった。世話に来るのは下女一人で、膳を運ぶのも用を足すための樋箱を運ぶのもその下女が行った。今はまだいいが、もし月のものが始まったら、と思うと気が気ではなかった。
 親治は、どうしても京入りをし、朝廷に認められたいのだ。いや、もしかすれば最終的には私を位につけようと考えているのやもしれぬ。二川冠者もそのようなことを言っていた。政を掌に収めようと、目論んでいるのかもしれない。それでは、平家と変わりない。いや平家よりも質が悪いではないか。
 そんな考えさえも、御子の頭には浮かんできた。いまだ、父院に認められもせぬ自分が、権力を欲する者には、利用価値のある者としてみられるという理不尽さに、御子は吐き気がした。利用価値――。自分はいったい何をしたいのだ。どう生きたいのだろう。父院に認められるために清盛の首をとりたいというのはもちろんだが、今では、自分のためではなく、その悪行を止めるために、清盛を、平家の力をそがなくてはならないと思うようになった。平家の力をそいで、王権を父院にお返しする。それこそが自分の目的だ。
 仲影たちはどうしているのだろう。助けに来ないところをみると、彼らも捕まっているのだろう。御子は日のほとんど入らぬ蔵で、いったい幾日経ったかも分からぬようになっている自分を恐ろしく感じた。耳を澄まし、心を澄ました。
「夕餉をお持ちしました」
 下女が入ると、扉は外に立っている者にすぐ閉じられた。扉の向こうには、太刀を佩いた男が二人立っている。御子はまじまじと下女の顔を見た。
 この下女の眼差しは、大変素直な光がある。何とか脱出の機会を作らねばならない。籠められて日数を経ているから、人々の気持ちも緩んでいるはずだ。
「なにか、平家に新たな動きはあるか」
「私のような端女にはなにも……ただ、石川の河内源氏の方々が、京に兵を寄せて平家に敗れたとか。そのようなことはちらりと噂で聞きました」
 河内源氏も、大和源氏と力を合わせようと思わなかったのか……。
 下女は、もの言いたげに御子をじっと見る。と、ふいに御子の耳元に口を寄せた。
「この御膳は、二川冠者様からです」
 そう微かに囁いて出て行った。
 二川冠者から、とはどういうことだろうと思いつつ、御子は膳の上の小鉢の蓋をとった。と、その中に、石が二つ入っていた。どうやら火打石のようだった。
 二川冠者の本心はわからなかったが、彼は密かに火打石を膳に紛れ込ませてくれたのだ。
 蔵の中にある書物を細かく裂いて燃えやすそうな道具の上に撒く。その上で、何度となく火打石で火花を散らすと、見事に火がついた。
「誰か。誰かおらぬか。火が出ておる」
 証拠となる火打石は袂に隠し、扉を中から激しく叩いた。すぐに煙が蔵の中に広がる。
「誰か! ここを開けよ!」
 扉を叩いているうちにも、火はどんどん広がる。扉の外の二人は、開けるかどうか迷っているらしい。が、天井近くの蔵の小さな窓からも、煙が出ているはずだ。と、ふいに扉が開けられた。
「早く消せ! 火が出たぞ! お館様にお知らせせよ!」
「水を持ってこい!」
 集まった人々が入れ代わり立ち代わりする中、御子は急いで立ち去ろうと走った。外はすっかり夕闇に包まれていた。もうすぐ門だというところで、腕を捕らえられた。
 二川冠者だった。
「門を出たら、山へ入れ。仲影と當子が待っている」
「二川……」
「早く行け!」
 二川冠者に背中を押され、邸から飛び出ると必死に走った。人目につかぬように山に向かう。道は次第に細くなり、左右に木々の迫る獣道を駆け上がった。ある沢を上ると、夕闇の山の中で身を潜めた。あの程度の火なら、おそらくすぐに消し止められたのだろう。火打石などは自分が持っている。あの下女も口さえ割らなければ、咎められることもないだろう。眼下を見ると、親治の邸からは松明がいくつも出て散っていくのが見えた。自分を探している。もっと山奥へ入ってしまおう。そう考えた時に、ふいに声が聞こえた。
「御子様」
 仲影の声だった。
「當子はいるのか」
「ここに。母は、足手まといになるのは嫌だと残りました。母には、それなりの身分がございます。ひどい目にはあいませんのでご心配なく」
 暗い中で、三人は手を握り合った。
 京へは近いが足がつきやすい奈良坂の道を避けて、夜の内に西へ行き河内に入った。翌朝には、海沿いの道を目指して徒歩で進んだ。
「二川冠者は、なぜ我らを逃がしたのだろう」
 御子がふと胸に抱いていた疑問を口にした。すると、當子が言いにくそうに、
「知らぬこととはいえ、女子に厳しい修行をさせてしもうた。許せ、と」
「そうか、知れてしまったか」
「どうなさいますか。帰って、口を封じても構いませぬが」
 仲影が覚悟を決めたように言うのを、御子は驚いて振り向く。
「勝てるのか」
「いいえ」
 御子と仲影は、吹き出した。二川冠者なら、おそらく秘密を漏らすことはない。漏らすならとうに親治らに伝わっていたはずだ。
「おや、どこかで聞いた声だと思えば」
 後ろから野太い声がした。振り向くと見覚えのある汚らしい僧がいた。
「覚山坊」
 覚山坊は、嬉しそうに満面の笑みを見せた。
 
 後白河院の皇子で、今上安徳帝の父である高倉院は、昨年安徳帝に譲位して以来ずっと患っていた。それが、治承五年の今年になってからひどく悪化したと聞き、一月中旬、時の右大臣藤原兼実は、高倉院の御所へと見舞いに参内した。御簾越しにも高倉院の苦しみが伝わるほどに見えた。三十を越した自分が健やかで、なぜ若き上皇がこのような目にお会いになるのか――と、兼実は胸がふさがる。幽閉中の後白河院にも見舞いの様子をお伝えしようと、その足で後白河院の御所へと向かった。
「良いところへ来た。実は清盛から打診があったのだ。我が子高倉院の中宮徳子を私に入内させたいと」
 あまりのことに兼実は気を失いそうになる。
「なんと。して、いかがなさるおつもり……」 
「いかがもなにも、このような忌まわしいこと、さすがのわしも虫唾が走るわ。その場で断った。しかし、清盛の奴め焦っておると見え、今度は厳島の巫女(ふじょ)に産ませた自分の娘をわしに入内させると言って聞かぬ。仕方なく承諾はしたが、巫女腹の女など、気味が悪うて顔を見る気もせぬわ」
「末法の世とは申せ、このようなことが起こるとは……」
「わしでも肝をつぶしたのだ。良識人のそちには耐えがたき話であろう。それより、高倉院の御所から参ったと申したな。様子はいかがであった」
「陰陽師の申すには、二三日中に大事ありとか。それを聞し召した高倉院は、明日、受戒なさりたいと」
「そうか……幽閉の身ゆえ見舞うこと叶わず、口惜しいことよ」
 後白河院は、しんみりと袖で涙を拭った。


七、父の面影

 御子たちが入洛したのは、高倉院が崩御されて一月ほど経った日だった。
 冬の美しく晴れた日であるのに、京は人通りも少なく、平家の兵が道に満ちていたので、御子たちは、いったん今は空き家になっている九条院邸に身を隠すことにした。
 夕焼け時になって、御子は長くなった髪を無理やり烏帽子の中にまとめて随身の姿に身を窶し、牛車を引いて資隆邸を訪れた。当面は京にいるつもりだったので、資金を都合してもらおうと思ったのだ。京には今、清盛がいた。とにもかくにも早く、清盛の首を父院の前に差し出さねば、前にも後にも動けなかった。牛車には、美しく化粧を施した當子を乗せ、何かしらの使いを装って邸に入り込んだ。
 十ヶ月ほど離れていただけの邸ではあったが、既に懐かしく感じた。家の者に「さる御方からの使いの者です」と挨拶したが、誰も御子とは気づかない。當子の後ろに付き従うようにして寝殿に向かった。と、向こうから華やかな女房姿の女が、渡殿の真ん中を来る。
 見覚えのある女房――御子ははっとした。生みの母の妹、八条院女房だった。御子の父後白河院の寵愛を受けているはずの女房が、また里下がりしているのか……。
 一瞬、目があってしまった。八条院女房は男に顔を見られたのを嫌悪するように扇で顔を隠す。御子も視線を足許に落として、少し顔を下げて畏まり、當子とともに脇に寄ってすれ違うのを待った。きつい香の匂いを漂わせてすれ違っていく。御子はほっと胸をなでおろした。彼女とは、院の御子として二、三度顔を合わせている。さすがに日焼けもし背も伸びたので気づかれずにすんだ。と思ったとたん、
「久しゅうございますな」
 後ろから八条院女房の声がかかった。戻ってきて、自分はほとんど扇で顔を隠しながら、御子の顔を間近くじろじろ見上げる。御子は観念すると、立ったまま黙礼した。
「ふふふ、ちと、こちらへ」
 八条院女房に袖を引かれ、渡殿を引き返して東の対屋の奥の間に連れていかれた。
「どのお顔を下げて、おもどりじゃ。何の言伝もなくある日突然帰らぬようになり、我が父や祖母の尼君がどれほど心を痛めたか」
 御子は、自分を睨みつける八条院女房の目を見た。
 そうだ――。あの日、以仁王の御所で過ごしていて、突然園城寺へ逃げなくてはならなくなったのだ。
「もうこちらは、御子は出奔したものと考えておった。今更なにゆえ戻られた。後白河院にも出奔の由、お伝えしておる。それはそうと、御子殿、南都にいたのでしょう」
 御子は言葉に詰まる。
 八条院女房は、目をきょろきょろと動かし、人の気配がないのを確認した。
「すでに平家はあなたが後白河院の御落胤と見て、方々で探しておりまするぞ。世間には知られておりますまいが、私は存じております。先日、院に上がった時、相国殿が密々に、後白河院の御所の最勝光院にまで参られての、探りを入れておられたのを見たのです」
 御子は、清盛に自分の存在が知られたことよりも、その存在を問われた時、父後白河院がどう答えたのかが気になった。
「父院……後白河院様は、相国に何とお答えなさいましたか」
「うんともいなとも。そもそも、本当に院の御胤(おんたね)かどうかも、わからぬのに。お答えのなさりようもないわの」
「え?」
 驚く御子の顔を見ると、八条院女房は、さも嬉しそうに目を細めた。
「聞いてはおられぬのか。御子殿は一月早くお生まれじゃ。我が姉九条院女房は、それはそれは器量が良うてね。言い寄る殿方は数知れなかった。あちらにもこちらにもよい顔をする女だったのだから、院の他にも、いいえ、院の前にも通う殿方はいたのやも。でなければ、月足らずで生まれてきたのは説明できぬではないか」
 これを悪意というのだろうと、御子が愕然とするほどに、八条院女房はたいそう嬉しそうに歪んだ笑顔を見せた。
「父……父院様は、どうお考えで……」
 八条院女房は、馬鹿にしたように鼻で一つ笑うと、
「さあ、御子様について院とお話しするなど、そんな無粋なことはせぬゆえ存じませぬ。ただ、清盛から、院の御子と称す者が南都にいたらしいというのを聞いて、南都の炎はいかほどだったか。ひどく焼けたのか。人も大勢死んだか、とお尋ねだったわ。あれだけではわかりませぬな。御子の御身を案じて問われたのか、南都を案じられてあらしゃったのか」
 八条院女房は何を思ったか、御子の頬に手を添えた。御子は反射的によけると、八条院女房を見た。彼女は面白くなさそうにまじまじと御子の顔を観察すると、唇を曲げた。
「成親殿によう似ておいでじゃ、御子殿」
 ――あまりの言葉に御子は言葉が出ない。
「とにかくここをすぐに出られよ。よい迷惑ぞ。もし、御子殿と我が家の関わりが平家方に知れでもすれば、父も尼君も良きように使われるか、斬首の上川原に晒されようぞ」
「しかし……」
「とにかく、早うお帰りなされ! 私は姉様が大嫌いなのじゃ! 麗しいだの琴の上手だのとおだてられて良い気になっていたから、あのように死んだのじゃ。気の悪いこと。ああ、面白うない。なにゆえ気の晴れぬことが多いのじゃ。院はまた清盛の娘を入内させるというし、私にはちっとも子ができぬし」
 呆然とする御子の視線とぶつかって、八条院女房は、つい荒ぶったのをきまり悪そうに口を閉じた。
「とにかく、この家に災いをもたらすのは目に見えておりましょう。迷惑です」
 八条院女房は、ぷいっと背を向けると去っていった。

 九条院邸に戻った御子を、覚山坊が出迎えた。御子は八条院女房の言葉に受けた衝撃を今だ癒せないまま、胸に秘めていた。
「迷惑がかかると考えなおして、会わずに帰って来られましたか。ううむ……」
 覚山坊の目下の心配は、資金が底をつくことだった。そこへ、市に行っていた仲影が帰ってきて、御子の手を握った。
「御子、御子様」
 かつてこのように目を輝かせた仲影の顔を、御子は見たことがあったろうか。
「信連殿が、生きておられます! 生け捕りにされ、清盛が殺すのは惜しいと、伯耆の日野というところへ流したと聞きました」
 御子はあまりのことに、胸がいっぱいになった。
「そうか……信連殿が……、生きて……!」
 御子と仲影は、手をとり合って、言葉にならず涙を流しあう。
「それと清盛による遷都も立ち消えになったとのことです」
 そうか、では父院の護送などという危険はないわけだ。御子はほっと胸をなでおろした。
 簡単な食事を取り、當子と仲影はもたれ合って眠り、覚山坊も孫廂にごろりと横になると高いびきを始めた。
 御子は一人座って、室内に挿した月の光を見つめた。冴え冴えとした静かな光は、時に雲がかかったり晴れたりしている。八条院女房の言葉が胸に疼く。月足らずで生まれたというのは、以前尼君から聞いていた。しかし、時にはそういうこともあるし、気にも留めていなかった。
 ――成親殿によう似ておいでじゃ、御子殿。
 あの言葉は、鋭く御子の胸に突き刺さって、今も抜けない。
「いや、迷ってはならぬ。男なら仏門、女なら殺してしまえ、と父院様がおっしゃったのであれば、やはり私は父院の子であろう……」
 そうでなければ、なぜ成親が自分を匿わねばならなかったのかの説明がつかぬ。
 御子は、月影の中、庭に降りて水瓶に自分の顔を映してみた。
 まつげの長い切れ長の眼差し、女人のように艶やかに美しかった成親。
 目が大きく、鼻が鷲のように張りだした後白河院。
 どちらに似ているのか……私は、どちらに……。父様と慕った成親にも、父院様と恐れる後白河院にも、どちらにも似ているとは思えない。御子はたまらなくなった。
 太刀を掴むと、御子は邸を飛び出し、夜陰に溶け込んでいった。

「……様」
 密かな声がして、後白河院は、ふと顔を上げる。最勝光院の御所の寝所で、大殿油に火をともし、書を読んでいたが、風の音かとまた目を巻物の上に落とす。
「父院様」
 確かに耳に届いたその声の主を見つけようと、後白河院は振り向いた。
 御簾の向こうに、畏まっている冠者が見えた。
「慮外者めが、何故参った」
 その冠者を御子と認めて、後白河院がそう声をかけると、御子は御簾越しに後白河院をじっと見つめた。後白河院も御子を見つめる。
 ――成長した。五年ぶりだ。
 老いた自分にとっての五年と、若者の五年との意味の違いを、後白河院はまざまざと見せつけられた思いだった。
「兄宮……以仁王様が、平家方に斬首されました。父院の血を引いていらっしゃる、あの兄宮様の首を、どこのものとも知れぬ下臈が……」
 御子は、このような話がしたかったわけではなかった。しかし、父院の姿を見ると、以仁王に姿が重なったのだ。
「苦しんだか」
「いいえ。すでに矢傷で気を失われていらっしゃったところに、刃が立てられました」
「うむ……」
 沈黙が、閏二月の冷たい空気を一層冷たくした。
「それだけ、で、ございますか」
 御子は、御簾の向こうに座っている父院を見つめた。
「兄宮様は、父院様が鳥羽殿に籠められなさったのを、それはそれは心配なさり、父院をお救い出さんとの思いから、戦の策を練っていらっしゃいました。しかし、思わぬところで綻びが出て、準備の整わぬまま、戦に身を投じなさいました」
「うむ……そうか」
 御子は、下唇をぐっと噛んだ。兄宮は、真底父院のことを心にかけておいでだったのに……たった、それだけなのか。
 御子は、立ちあがると、何の断りもなく御簾を揺らして中に入った。
「おのれ、控えよ」
 後白河院はぎろりと睨み上げた。御子は、立ったまま父院を見降ろした。
 この顔――この顔に、自分が似ているだろうか。それとも……。
「父院様は、母上をいかほどご寵愛なさいましたか。大事に、慈しまれましたか。それとも、一夜のみの縁でございましたか」
「聞いて、如何にする」
「……」
 御子は、次の言葉が出なかった。そして出た言葉は、
「清盛の……首を、取ってまいりましょう。今、あやつはどこにいるのです」
 後白河院は、訝し気に御子を見上げたまま、
「京におる。九条河原口の平盛国の邸に」
「いいでしょう……」
 御子はそういうと、院の前に膝をついた。
「私は、戦に身を投じてよりこの十月ほど、自分の顔をしっかりと見ておりません。いかがです、私の顔は……あなた様に、似て参りましたでしょうか」
「……」
 後白河院は、身を反らして御子の顔を見た。が、極めて不機嫌そうに目を反らすと、「己で見るがよい」といって、文机の抽斗から出した小さな鏡を御子に差し出した。
 御子は、後白河院の顔の横に、鏡に映った自分の顔を並べた。が、よくわからなかった。鼻は似ていないが、目は少し似ているような気にもなった。しかし……。
「この鏡、頂いてもよろしいですか」
「……好きにせよ」
 御子は鏡を懐に入れると、御簾から出た。が、立ち止まった。足が震えた。ついに、
「私は、院の御子ですよね」
 と問うた。振り向くことも、父院の顔を見ることもできず、背中を向けたままだったが、勇気を振り絞ったのだ。 
「……約束を忘れたか。清盛の首をとって来い」
 御子は、少なからず落胆した。が、もう一度問う力がなく、一呼吸おいて、その場を去った。
 最勝光院から、清盛のいる平盛国の邸にそのまま向かった。九条河原口につくと、付近で一番瀟洒な邸に目をつけて忍び込んだ。調度品の質を見れば、おそらくここが平家一族の邸であることにほぼ間違いないと悟り、寝殿に向かった。今清盛がここにいるなら、この邸では最上位の人物である。ならば、寝殿に褥を置いているはずだった。寝殿の一番奥の母屋の襖をそっと開くと、案の定中で一人横になっている。清盛その人であるか、確かめようと近づいた。が、褥の上の男は、ふいに唸り声を上げた。
 近づくのをやめて、しばし離れてみていると、腕をばたばたと振りまわしたり、寝返りを打ったりしながら、やはり唸り声を出している。
 ――夢でも見ているのか。
 御子は、そっと近づいて顔を覗き込んだ。暗いので、襖を細く開けて月明かりを入れる。
 額にびっしり汗をかいて、眉根をぎゅっと寄せているその男こそ、清盛だった。忘れもせぬ、父成親を死に追いやった、西八条院で対峙した、あの清盛だ。
 御子は眉一つ動かさず、太刀を抜いた。
 本来なら、合戦において、正々堂々と清盛を倒すべきかもしれない。しかし、自分に軍兵はないし、そのようなことをしていては、清盛の首を討つために、守りの平氏たちを倒してゆかねばならない。それには何年も要するだろう。
 ふと、大和の親治の顔が浮かんだ。彼の言に乗っていれば、いまごろは一軍の将として京に攻め入る算段をしていたはずだ。
 御子は首を振った。
 利用されるのはごめんだ。そのうち身動きの取れぬようになる。親治に幽閉されたのが、すべてを暗示している。まるで平氏に幽閉された父院と同じではないか……。
 太刀を少しずつ清盛の首に近づける。
 人を殺めることにいつの間になれてしまったのか。そういえば、始めて人を殺めたのは、いつだったか。おそらく宇治橋の戦いで、迫る平家の兵どもに弓を射かけたあの時だ。自分が射殺したであろう兵が、橋桁から川へ落ちるのは見た。しかし、次から次へと迫ってくる戦況の悪さに、おそらく感慨を抱く暇もなかったのだ――ふいにそんなことを思った。
 切っ先を、清盛の、首に、いよいよ――。
「ううっ……」
 清盛がまた声を上げた。苦し気な声だった。思わず手が止まる。
 と、ふいに清盛が目を覚まし、太刀を見た途端、身を翻して御子から離れ、襖に背を預けて御子をじっと見た。
 互いに、黙ったまま見合った。
 御子の顔には、一条の月影がさしていた。
「院の、御子か……」
 清盛の声は、以前とは違い、ずいぶんかすれて息も荒い。肩も胸も大きく上下している。そもそも、いくら暦の上では春とはいえ、うっかりすれば息が白くなるほどの寒い夜に、清盛は薄い単衣だけを着て寝ていたのだ。それも、大きくはだけた胸は、汗をびっしりかいてきらきら光っている。
 清盛は、ふらふらと立ちあがると、太刀掛のところまで歩きだした。しかし、足元はおぼつかず、途中で崩れ落ちる。
「清盛……きさま」
 ――病を得たのか。
 若い頃より武勇を誇っていた彼を倒すのは、今しかない。御子はそう思って近づき、太刀を振り上げた。
 が、振り下ろせない。
 余裕綽々自信に満ち溢れた清盛が、自分の足許で床の上で這いつくばり、斬るも斬られるもなく苦しげに息をしている。太刀をとろうにも太刀掛にまで行けないとは……。
 御子が躊躇している間に、清盛はずるずると体を引きずって、太刀掛にたどり着く。太刀を手にふらふらと立ちあがり、襖をあけておぼつかない足取りで簀子縁に移動した。そして、庭を背にして座り込み、欄干に体を預けて御子を見た。
「はあ、熱い……」
 かすれた様な声で、そう呟きながら立ち上がることもできぬままに太刀を抜く。腰ぞりの深い、おそらく馬上戦で幾度となく使われた、良く使いこまれた太刀。だが、力なく光っている。いや、月が雲で覆われたのだ。湿った風が一陣吹いた。
 御子は清盛の近くに寄って、太刀をもう一度振り上げた。しかし、清盛は御子を見上げるばかりで、抜いた太刀は床に転がった。
「権大納言の、成親の縁者か、院の御落胤とは、まことか」
「なぜ、成親の縁者、などと……」
 御子は、太刀を振り上げたまま震えが来た。
「似ておる……」
「わああ!」
 御子はつい声を上げて振り下ろした。
「……立ち居振る舞いが」
 太刀は、鋭い音を立てて欄干に食いこんだ。
「あの美男子の美しき立ち居振る舞い……羨んだものよ」
 太刀がこめかみ近くで光っているのに、清盛には、もはや見えていないようだった。
「我ら武士には……とうてい真似のできぬ。美しい……指の先まで……」
 ――立ち居振る舞い……。顔、ではなく?
 大粒の雨が、御子の頬に当たった。
「相国様!」
 誰かが背後で叫んだ。
「怪しの者ぞ! 怪しの者がおる!」
 雨は、突然襲い掛かる様に降りだした。
 御子は、太刀を鞘に納めると、振り向きもせずその場を去った。
 塀を越えて小路に出ると、痛いほどの雨の中、一心に走った。
 清盛が何者かに襲われた後ひどい熱病を患っていると、後白河院の耳に届いたのは、翌日の昼頃だった。
 しかし御子は、その頃にはすでに、當子、仲影、覚山坊とともに舟に乗って京を出、伯耆の国を目指していた。


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