52Hzの弔いを。2
その人はただただ怖かった。今にして思えば深すぎない綺麗な二重を四角いレンズに沈めてた。
「おとうさん」の虫の居所次第でその日その時の私の立ち位置は変化した。
とても美しくバランスの取れた字を書くその手が、握り潰してたストレスを持ち帰る。
・「おかえりなさい。」を言うのが遅かった。
・靴が綺麗に並んでいなかった。
・洗濯物をかたずけ終わってなかった。
・家庭学習の出来が悪かった。
・お夕飯をテーブルへ運ぶのが遅かった。
そんな風にそのストレスが私に放たれるきっかけは日々増えていった。
進級を重ねて行く毎に無言の要求も膨大になっていった。
髪の毛を手綱のようにして和室に引きずられ、千切れてしまうかと思うほど強く耳たぶを揺すぶられる。痛くて顔が歪んでしまうのを静止できない。
その顔が「腹立たしい。」と頬を張られた勢いに勝てずに壁にぶつかる。
思いがけず冷たい壁に打ち付けた鼻が恐ろしく痛い。
「だめだ。だめだ。だめだ。」そう心に叫ぶのだが、それを走り抜ける感覚が体の外へ助けを求めて気が付けば「痛い」と声が漏れて、声を耳から認識した瞬間に涙と鼻血が同時に栓を開ける。
「自分が悪いのに何泣いてるんだーーーー!!!!!!!!!」
これが「キレる」というやつなのだろう。目の前のおとうさんという『何か』は、もはや本能しか残っていない鬼。
その時私はきっと缶蹴り遊びの汚れた空き缶。
その歩みの進行を邪魔した歩道の小石。
ひっくり返るメンコ。
踏みつけられた小さなカタツムリ。
「ごめんなさい!もうしません!」「次からちゃんとしますから!!」泣き叫びながら許しを請うが、既に誰にも聞こえはしない。
52Hzで鳴く鯨。
私が感覚を恐れなくなる程に麻痺する頃、鬼は満足するまで遊んだ少年に変わる。
悪者をやっつけたヒーローのように、畳に転がる私を見下ろす。
笑っている。 おとうさんの顔を取り戻したその人が眉間にしわを寄せながら口角を上げれば終わりの合図だ。
そしたら私は鉛のように固く重くなった体を、なんとか正座の体勢へと運びこう言う。
「おとうさん、いい子にできなくてごめんなさい。私のためにお仕事頑張ってくれてありがとう。」と。
私の声が聞こえたのだろう。
私の目の前にしゃがみ頭に手を乗せた後、その胸に私を抱き寄せて疲れ切った静かな声で言う。
「お前の事を愛しているから怒るんだぞ。それはわかるよな?」
私はただ首を縦に2回動かして頷くだけでいい。
これがルーティンだ。今日も1日が無事に終わる。