「普通」に憧れていた話
アロマンティックアセクシャルというセクシュアリティを知った時、もしかして私はこれかもと思った。他人に対して恋愛感情も性的感情も抱かない人達・・・、とあるwebサイトで見つけたその文章を読んだとき、えもいわれぬ感情が湧き上がってきた。私だけじゃなかった安堵感、自分と同じ人達が他にもいるんだという喜び、そして、私の周りにいる家族や同級生達とは同じ感覚を共有できないだろうという悲しみ。
子供の頃から、ただ漠然と「普通になりたい」と思っていた。
家族や周りの子達が当たり前のようにしている事を、自分も当たり前にやりたい。変わっていると思われたくない。だって、そう思われてしまったら、仲間はずれにされてしまうから。ちょっと周りと違う反応を返せば「あの子は変わってる」って言われはじめて、どこか遠巻きにされたり、私に隠れて私の話をしたりする。子供の頃は特にそれが怖くて、怖くて仕方がなかった。
だから、友達との会話で好きな相手、気になる相手の話題が出たときも、それとなく話を合わせるようにしていた。小学生の頃とかは、まだ好きな相手がいない子も珍しくなかったから、素直に「いないよ」と答えられたけど、中学生にもなるとそうもいかなくて。「いない」って言えば、可愛い子ぶってる良い子ぶってる、ノリが悪いと言われるから、居もしない相手をねつ造して「いるけど、秘密」とか適当に嘘をついてその場を乗り切っていた。
本当は、好きな相手も気になっている相手もいないのに。
でも「いる」と言うだけでその場は乗り切れるし、友達もどこか満足そうな顔をするから、ちょっぴりの心苦しさはあったけど、仕方ないと自分自身に言い聞かせていた。そうしないと、普通じゃないと思われちゃうから。
でも、いくら話を合わせても、みんなが話す恋愛の「好き」がどういう気持ちなのかは、分からなかった。瞳がキラキラしているな、楽しそうに相手の事を話すなとか、そんなに夢中になれるものがあるのは良いなとかは思ったけど、ただそれだけ。
正直、恋愛について聞かれるのは億劫だったし、「いない」と言った時につまらなさそうな顔をされるのも辟易としていたけど、それが普通なんだって思っていた。女の子達はみんな恋愛話が好きで、興味があるもの。中学生にもなって、好きな相手も気になる相手もいない方が、普通じゃない。今思えば、そんな事ないよと言えるけど、当時の私を取り巻く周囲は、普通ってそういうものと、言葉もなく主張していた。
結局、成人してから随分たった今も、恋愛がどういうものか分からない。
恋愛小説を読むのは嫌いじゃないけど、そこに自分を当てはめたことはない。あくまで、創作物の1つとして好き。自分が体感できない世界を、疑似体験しているみたいな。
私はもう、昔考えていた「普通」の枠から外れてしまったんだなって、最近になってようやく認めることができた。ずっと認めるのが怖くて、恋人が欲しいと思ってもないくせに「出会いがないだけかも!」とマッチングアプリを始めたりしたけど、結局意味なくて。相手から恋愛感情を向けられているんだろうと感じると、徐々に気持ちと頭が冷えていく。小説や映画で描かれるような相手の事で頭がいっぱい乙女心・・・というより、相手を冷静に分析してしまう自分がいた。
恋愛が分からないという感覚、きっと私の家族には分からないだろう。
家族の「普通」からは、私は外れた存在なんだろう。
そう考えると疎外感や、寂しさを感じる。一人取り残されている感覚。
でも、私にとっての「普通」は恋愛が分からない自分で。
過去の私が憧れていた「普通」は、私自身の「普通」ではなく、家族や友達、周りと同じ「普通」だったんだって気づく事ができた。
きっと、同じ感覚を持った、他の誰かに出会いたかったんだと思う。
今は「普通」は人の数だけあっていいと思ってる。
その感覚や価値観を共有している人が多いか少ないかの違いで、多い方が世間一般の「普通」と考えられてしまうけど、少ない方が変なわけじゃない。
ただ、多い方とは違う感覚や価値観を持っているってだけ。他人を傷つけたり、追い詰めたりするような事がなければ、みんながみんな、自分の感覚や価値観を大切にする権利がある。それを考慮せずに、自分自身の「普通」を相手に押しつけたり、相手の「普通」を否定したりする方がよっぽど無礼だと思う。
私がこれから大切にしていくべきなのは、自分自身の「普通」・・・感覚や価値観であって、世間一般の「普通」じゃない。もちろん、常識を持った行動は必要だし、モラルから外れた事をするつもりはないから、そういう意味での「普通」は持ち続けたいと思う。けれど、セクシュアリティに関しては自分自身の感覚が全てだから、もっと自分自身の気持ちを大切にして、周りの人達の「普通」も尊重して生きていけたらと考えている。