NEW JACK SWING が繋いだK-POP、そしてLDHとの縁 #人生を変えた一曲byLINEMUSIC
この記事はLINE MUSIC公式noteオムニバス連載「#人生を変えた一曲」に寄稿したものです。
音楽に興味を持ったのは中学生の頃。中2病とはよく言うもので、それまではチェッカーズや吉川晃司がアイドルであったというのに、私も急に洋楽を聞くようになった。
1972年生まれの私が中学生となった1985年前後に何があったかというと、マイケル富岡がVJを務める『MTVジャパン』という、洋楽を気軽に知ることのできる番組が始まっていたのと、山田詠美が『ベッドタイムアイズ』デビューし、87年には『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』で直木賞を受賞したこと、そして久保田利伸が86年にデビューしたことなどがあった。
つまり、洋楽やソウルミュージックに触れる出来事がぐっと増え、中学生でもちょっと背伸びをすれば聞くことができたのがその頃だったのだ。
その後、『MTVジャパン』はすぐに終了してしまったが、その代わり、『ベストヒットUSA』が私の住んでいる松山でも見られることになった。紹介される音楽は、MTVとベストヒットでは傾向が違う。MTVはイギリスのロックが多かったが、ベストヒットは、ソウルやR&Bなども紹介されていた。そのため、Run-D.M.C.の「Walk This Way」が流行り、ゴールドのぶっといネックレスやアディダスのジャージがかっこいいとされたHIP-HOPの新しい潮流も生で体験することができた。
しかし、R&Bやソウル、HIP-HOPを音楽的には気に入って聞いてはいてもそれ以上の感情が持てなかったのも事実だ。今の言葉で言うなれば「推す」には至らなかったということなのかもしれない。
それが変わったのは、高校に入ってからのこと。1988年に、『ベストヒットUSA』でかかった一本のミュージックビデオにくぎ付けになった。ボビー・ブラウンがアルバム『Don't Be Cruel』でビルビードを席巻していたのだ。彼の音楽は、R&Bに新たにHIP HOPの要素を取り入れたもので、次々と発表されるミュージックビデオの中でも、『Every Little Step』の明るくポップなボビーにはアイドル性が宿っていた。好きだった音楽にアイドル性が加わったことで「推し」になったり、同様の理由があったことでHIP HOPが全米でもポピュラーになったのだと思う。
当時、高校の運動会の準備で紙が大量に必要で、市内のレコードショップでもらってきたと思われるポスターの山の中にボビーのポスターがあり、それを持ち帰り、部屋に貼っていたし、ボビーのミュージックビデオを録画して、一本のビデオテープにまとめてダビングし(うちには二台のビデオデッキがあった)、何度も見返していた。高校のときの私のアイドル=推しはまぎれもなくボビー・ブラウンだったのだと思う。
そもそもボビーは1983年にアイドルグループのニュー・エディションの一員としてデビューしていた。洋楽に興味をもっていたのに、ソロデビューするまでニュー・エディションの存在を知らなかったのは、情報源が「MTVジャパン」と『ベストヒットUSA」しかない四国・松山では、見る機会がなかったということだろう。
後追いでニュー・エディションのことを調べると、ボビーはセンターというよりは、二番手で、グループを脱退したあとのソロで急に人気が出たのだとわかった。
このボビーの活躍により、ニューエディションメンバーも次々とソロやユニットでリリースを始める。中でもキャッチ―だったのが、Ricky Bell、Michael Bivins、Ronnie DeVoeという三人のメンバーで組んだBell Biv DeVoeの『POISON』という曲だった。テッテケテッテケテケテッテ、というキャッチ―なイントロで始まる楽曲、気負いのない、けれども揃えるところはきっちり揃えるダンス、三人のわちゃわちゃっぷり、ちょっと悪っぽいけれどカラフルなファッション……、どれもアイドルそのものだった。
しかも、この『POISON』の歌詞なかには、ニューエディションのほかのメンバーについて言及している部分もあって微笑ましい(その後、彼らはリユニオンして、新メンバーのジョニー・ギルも脱退したボビーも含めて6人で楽曲をリリースしていて、それがまたかっこよかった)。
彼らの音楽は、ヒップホップとR&Bを融合させ、ニュー・ジャック・スウィングと呼ばれ、90年代前半まで隆盛を誇っていた。その時期は決して長くはないが、その影響は大きなものだったと思う。
思えば、この高校時代にボビー・ブラウンやベル・ビブ・デボー、そしてアイドルとダンスとニュージャックスウィングと出会ったことが、少しだけれど私の人生を変えたのかもしれない。ニュージャック・スウィングといわれる音楽は聴ける限り聴いていたといっても過言ではないし、CDのライナーノーツを読んで、こうした解説をするライターになりたいとも思っていたのだった(その夢はいまだ叶ってはいないが)。
1990年代に入り、ニュージャックスウィングは下火になっていくが、私のように10代から20代という多感な時期にニュージャックスウィングに触れた人たちは、世界中に存在していて、その体験は、その後の人生に影響していると思う。
そのひとりが、現在EXILEや三代目J SOUL BROTHERSの所属しているLDHのHIROではないだろうか。知っての通り、HIROは90年代のニュージャック・スウィング全盛期には、彼らと同じようなアシンメトリーな髪型に、サルエルパンツといったいでたちで、ダンスグループZOOのメンバーとして活躍していた。
当時、ZOOを生んだ『GROOVIN SCENE DADA』という番組もみていたが、個人的にはどちらかというと同じ90年に放送が始まった『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の中のコーナー『ダンス甲子園』のL.L.BROTHERSのほうにアイドル性を感じていた。しかも、L.L.BROTHERSの当時のテーマ曲ともなっていたのが、Heavy D & The Boyzの『Now That We Found Love』で、ボビーの楽曲を手掛けたテディ・ライリーのプロデュース曲だった。
HIROはZOOの後、J SOUL BROTHERSを結成したが、その名前は、私のアイドルであるボビー・ブラウンと関係している。ボビー自身のバックダンサーの名前がSOUL BROTHERSであることに関連付け、ボビーの来日時、バックダンサーをしたHIROたちを指し、「君らはJAPANESE SOUL BROTHERSだね」と言ったことがきっかけで、その名前を名乗るようになったというのは有名な話である。つまり、三代目J SOUL BROTHERSは、ボビーの精神を受け継いだグループなのである。
EXILEの楽曲を聞いていると、HIROの、ニュージャック・スウィング継承をしたいという思いを感じることがある。というのも、EXILEでは『New Jack Swing』という曲を2003年に発表しているが、この曲はLDHの若い世代、ニュージャック・スウィングが隆盛を極めた90年代初頭にはまだ生まれていないTHE RAMPAGEが2018年にもカバー。
また、EXILEでは『STEP UP』という曲がやはり2018年に発表されたが、これもニュージャックスウィング曲であり、ニュージャック・スウィングの炎を受け継ぎ消すまいという意思が感じられる。
しかし、なぜに2018年にニュージャック・スウィングの楽曲が続いたかと考えると、ブルーノ・マーズが2016年に発表した『Finesse』がニュージャック・スウィング曲であり、また2018年にはCardi Bをフィーチャリングし、『Finesse』のリミックス版をリリースしたことが、ニュージャックブームの再燃としては大きかったのではないか。
お隣の韓国でも、ニュージャック・スウィングの楽曲は、コンスタントにリリースされている。
もっとも、今(2010年代後半)のK-POPを支えるプロデューサーたちは、ほとんどが1970年前後の生まれである。日本でNiziUをプロデュースしたことで誰もが知ることとなったJ.Y. Parkは1971年生まれ(諸説ある)、東方神起などを擁するSMエンターテイメントのサウンド面でのプロデューサーをしていたユ・ヨンジンは1969年生まれ、BIGBANGを擁するYGエンターテイメントのヤン・ヒョンソクも1969年生まれ、BTSを育てたパン・シヒョクは1972年生まれと、全員が70年代前後生まれで、二十歳前後にニュー・ジャックスウィングの洗礼を受けていると思われる(HIROも1969年生まれである)。
J.Y. Parkに関しては、TWICEの2020年のアルバム『MORE & MORE』にも、『SWEET SUMMER DAY』というニュージャックスウィング曲があるし、
ほかのプロデューサーの曲にもニュージャック曲はたくさん存在する。
そんな中でも、一番ニュージャックスウィングと深い関係にあるのがSMエンターテイメントだろう。
SMエンタでは、少女時代の『The Boys』(2011年)に始まり、EXOの『What is Love』(2012年)や『CALL ME BABY』(2015年)などは、あのテディ・ライリーが手掛けている。特にEXOの『What is Love』は、ユ・ヨンジンとテディがともに手掛けており、ねっとりしたミディアム曲に、いかにもテディらしさ(とユ・ヨンジンらしさ)がつまっている。
もっとも、少女時代はこの曲で全米進出を狙っていたのだが、ニュージャック・スウィングで勝負するには少し早すぎたのかもしれないのが残念なところだ。
テディのプロデュースではないが、EXOが2013年にリリースした『Growl』はもまぎれもないニュージャック曲で、この曲でEXOは本当の意味で韓国国内でのブレイクを果たしたと言ってもいいだろう。
さて、ニュージャックの楽曲が私の人生を変えたとしたならば、それは直接的ではなく、ごく間接的なものではある。
現在の私の仕事は、映画やドラマが専門で音楽についてはなかなか書くことは少ない。ただ、エンターテイメントについてはずっと携わってきた。地域的にも韓国や日本などについて書くことが多いが、実はその真ん中には、必ずアイドルが存在していた。
特に2010年前後にはラジオのディレクターとしてK-POPの現場に毎週のように取材に行き、2011年に『K-POPがアジアを制覇する』(原書房)という本を初めて書きおろしした。また、2015年の映画『HiGH&LOW』以降は、LDHのアーティストへの取材が多くなった。意図せずに、ニュージャック・スウィングとともにあるアイドルたちを常に仕事で追ってきたのである。
彼らのことを語るときに、ティーンのときに聞いていた、ボビー・ブラウンやテディ―・ライリーが関わっていると考えると、まわりまわって、ニュージャック・スウィングとの出会いが、あとあとの仕事に偶然ながらも強く関係していると思わずにいられないのだ。