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桜の夢想

桜の夢想

 夢を追いかける真っ直ぐな姿に惹かれていた。私も、千景みたいに全力で夢を追いかけたいと思った。

窓の外に見える桜が、私の決断を応援しているかのように力強く咲き誇っている。それに背中を押されるようにして、口を開く。


「別れよう」


 


 大事な話がある、と言って千景を呼び出してから、どれくらいの時間が経っただろうか。お互いに大学が忙しく、連絡すらまともに取れていなかった状態で、予定を合わせるのにも一苦労だった。待ち合わせ場所のカフェに早々と着いてしまった私は、久々に会うということや、重要な話をするということが相まって、緊張で乾ききっていた喉をコーヒーで潤した。講義が長引いてしまって遅れる、という旨の連絡を受け、聞き覚えのあるその文面に既視感を覚えた。店の前に広がる桜に目を向けながら、私は、昨年の春を思い出していた。



「その絵で食べていくのは無理だ」


両手に収まりきらないほどかけられたその言葉が、また今日も私の胸を突き刺す。昔から、絵を描くことが好きだった。美術部に所属して、いくつもの賞を受けた。次第に、イラストレーターやデザイナーといった仕事に憧れを抱き、目指すようになったのは必然だったのかもしれない。自分の夢を諦めたくない気持ちと、周囲から無理だと言われ続けることによる精神的ストレスに挟まれて、今後を見失っていた。


そんなときに出会った千景は、夢に向かって全力で走っていた。


「僕は、小説家になるのが夢なんです。」


ずっと否定されてきた夢を肯定し、自分の夢のように大切に考えてくれた。


「夢があるって素晴らしいですよね。夢を追い求めることが、人生をより豊かなものに彩っていくのだと思います。」


モノクロの世界に色がついたように、暗闇に包まれた私の人生を照らしてくれた。恋人になってからも、夢についての話をたくさんした。ここ最近は、進路希望調査の提出期限が近付いていることもあって、いつもより長い時間を千景と話して過ごしていた。放課後の今も、千景とは部室で会う約束をしている。時間になってもまだ来ていない千景を待ちながら、窓の向こう側に見える桜を眺めていた。


 


「お待たせしました。すみません、先生との話が少し長引いてしまいました。」

ぱたぱたと廊下をかける音とともに、千景が少し息を切らしながら部室へとやってきた。いつもきっちりとした髪が乱れていて、かなり急いで来てくれたことが伝わってくる。先生との話が盛り上がっていたようで、興奮気味に話し始める千景に笑みをこぼしながら耳を傾けていた。


一通り話し終えて熱も収まってきたのか、海野さんは、と尋ねられ、今日言われた、夢に関する否定的なことをぽつぽつと千景にこぼす。今回受けた指摘は、私の夢を諦めた方がいいと本気で思うくらいに、自分でも納得がいくものだった。諦める、という言葉に眉をひそめながらも相槌を打って聞いていた千景が、おもむろに立ち上がる。壁際にある私の作品を愛おしい眼差しで見つめながら、口を開く。


 「これは、僕が初めて見た海野さんの作品です。それとこっちの作品は、……。」


部室にある私の作品を、これでもかというほどに褒めていく千景。だんだんと恥ずかしくなって、もう十分伝わったと言うと、ある一枚の絵を目の前に立ち止まった。その絵は春を描いたもので、私が今までで一番力を注いだ絵でもあり、コンクールでは金賞に輝いた作品だった。四季の中で私が一番好きな春を、季節がいくつ変わったか数えきれないほどの時間をかけて描き上げたその作品は、私にとって春を特別なものにしてくれた。それを、とても穏やかな眼差しで見つめていた千景が、ゆっくりと口を開いた。


「そしてこれは、僕が持つどの語彙でも表すことが出来ないほど繊細で、それでいて力強い春の絵です。」


 小説家を目指している千景が持つ語彙力は、学校の先生でさえも目を見張るものだったはずだ。それほどまでに言葉の造詣が深い千景からの称賛に、思わず俯いて視線を逸らす。


「海野さんの絵は、どの言葉を使っても説明しがたいくらいの感動を与えてくれます。僕はそんな海野さんの絵も、海野さん自身も心から慕っています。」


だから、どんな選択をしても応援しますが、せっかく一度きりの人生なんですから、一緒に夢を全力で追いませんか。そう問いかけられて、考えが固まったような気がした。口を開こうとしたその時、鳴り響いたのは下校のチャイムだった。続きはまた今度にしようか、と話しながら帰る準備をする。思えばこの出来事が、私の決断を大きく後押しするものだったのかもしれない。


 


あれから結局、夢を諦めることはせず、美術系の学校へ進むという決断をした。この春から晴れて大学生になった私は、様々な刺激を受けて、また新たな決断をすることとなった。その内容は、夢を全力で追い続けるために、千景と別れるというものだ。私が興味を持ったゼミが、私の大学でも特に忙しいとされるところで、千景との関係を今まで通りに保つ時間も満足に取れるか分からない。夢に全力を注いでいる千景の負担に少しでもなってしまうくらいなら、ここで円満に関係を終わらせた方が良いと考えた結果の決断だった。千景は私の一番の理解者であり、この決断も肯定して応援してくれると信じて疑わなかった。千景を信じていて、もう心は決まっているはずなのに、喉が渇いて仕方ない。ホットで頼んでいたコーヒーも冷めていたためもう一杯頼もうとしたとき、見知った姿が視界に入った。


 

「お待たせしました、大幅に遅れてしまってほんとにすみません。」


息を切らした様子に、ついさっきまで思い返していた去年のことが重なり、笑みがこぼれてしまった。緊張も少しだけ和らいだ気がして、大丈夫だよ、と言葉を返せたことに安堵した。


「それで、大事な話というのは?」


あの時と同じように他愛もない話をしている最中、千景に尋ねられる。そこで漸く、話が本題へと広がった。私は、夢を追いかける真っ直ぐな姿に惹かれていたし、千景みたいに全力で夢を追いかけたいと思っていた。窓の外に見える桜が、私の大好きな春でさえも、私の決断を応援しているかのように強く咲き誇っている。それに背中を押されるようにして、晴れやかな気持ちで口を開く。


 


「別れよう」


 


澄んだ視線で言葉を発した私とは違い、目を見開いて驚いた様子の千景。顔を垂れた後、すぐに肯定してくれると思っていた私の予想とは裏腹に、千景が発した言葉は重く、辛辣なものだった。


「海野さんにとって僕は、その程度の存在だったんですね。」


僕と同じ気持ちだと思ってたのに、という落胆したような言葉も聞こえた。なにか言葉をかけて誤解を解こうとする気持ちより、誰に対しても丁寧な千景が敬語を外したという事実に驚きを隠せなかった。お互いに、ただ言葉を失っていた。


千景に憧れ、私も夢を諦めずにここまで来たというのに、たった一言だけで今までの全てを否定されたような気持ちに苛まれた。外では、春らしさを失った風が、まるで二人の間に広がる空気のように強く吹き始め、桜の花びらを散らしていた。


「一緒に夢を追う話も、全部嘘だったってことですか。」


そう呟く声に、私は疑念を抱いていた。


なぜ、私と一緒に、というところに固執しているのだろうか。


これが、俗に言う恋は盲目というやつなのだろうか。今の千景は、恋愛をすることも、夢を追うことも、どちらも追求しようとしている。私が憧れていたのは、夢をただひたすらに追って走っていた千景だ。今私の目の前に座っている千景は、信念を貫いていて私の一番の理解者だったあの頃の千景ではなく、私が憧れている意味も無いように思えた。




「千景にとっても、私ってそのくらいの人だったってことね」


言われたことを真似て声をかけた私に、はじかれたように顔を上げる千景。二人して、悲しみに暮れたような、絶望的な面持ちで目を合わせる。一度すれ違ってしまえば、修復は不可能だということがお互いに分かっていたのか、そのまま何の会話もない状態でカフェを出る。皮肉にも、こういうところだけは理解し合っていた。これで本当の終わりだというように、背を向けて各々の道を歩く。


店の外に咲いている桜を見上げると、先ほどまでの力強さを失って、花びらがほとんど散っていた。春が、私にとって一番忌々しい季節になっていた。

(終)

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