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生きる。


エピソード3

保育園から届いた多くの洋服、リュック、靴と家には置ききれないくらいのたくさんの物資を頂いたことを感謝したことを覚えています。
一番印象に残った贈り物は、今はあまり見なくなりましたが表にキャラクターとか戦隊ものの書かれてあるお弁当箱でした。
書かれているキャラクターが使い込まれているほどに塗装が剥げているもので、なんとも年期を感じる物だと思いました。



このようなものです!
うちは祖母も入院中、父親は弁当をこさえたことさえなかったので、自分は近くに神社で取った果物や木の実をバラバラにして、保存食用として使わさせて頂きました。
火事が起きてからは、そこから特に変わったこともなく、平凡な毎日が過ぎていきました。
そんなときに、保育園の先生から
『ばあちゃん亡くなったけん、今から病院に行こう。』
頭が真っ白になりました。
とっても厳しい祖母でしたが、優しさの溢れた素敵な祖母。お米も月の半分以下しか食べられない、おやつもない、お肉も食べられない、そんな毎日でしたが、そんな毎日でも祖母が居なくなるくらいだったらそんな毎日を大人になるまで耐えてやると思ったほどです。
小さい町なので、大きい病院は一か所しかなく、近くだったためすぐに到着しました。
優しく、微笑んでいるように眠っている祖母が居ました。
そして、病院の先生から渡された一枚の手紙と銀行通帳と印鑑がありました。
その手紙は読みにくいものでありましたが、祖母は丁寧にすべてひらがなで書いてくれていました。

一番印象に残ったと言いますか、これから肝に銘じた言葉がそこに記されていました。

~びんぼうでつらくても、おなかがすいてつらくても、まいにちえがおでともだちをたくさんつくっていれば、そのつらさがよろこびに変わることだってある。にんげんひとりではいきていけないんだからな。~

一緒に渡された預金通帳には、私の名前で100万程の貯金がされていました。祖母は私が大人になるまでに生きていることはできないだろう、だったら少しでも苦労をしないようにと生活を切り詰めて貯金をしていてくれたのです。年金生活でほとんど収入という収入はなかったはずなのに。

魚が食べたいときは魚屋さんに野菜を持って行って交換してもらっていた祖母。
私が風邪をひいて寝込んだ時、隣の人に頼み込んで野菜とうどんを交換してもらっていた祖母。

全てが私中心に考えていてくれていたことなんだと思うと涙が止まりませんでした。今まで祖母がしていてくれたことは当たり前じゃないのだと。
自分にはもう味方もいなくなった。そう思う瞬間でもありました。

祖母は創価学会だったため、近くの公民館を借り葬儀を行いました。
多くの方に参列して頂き、多くの方が涙を流してくれていました。その時に私はこの祖母は多くの人に愛されてきたんだなと実感しました。

天国に行った祖母はきっと天国でも多くの人に愛されて今を生きているのだと思います。

そして、私に多くの愛をくれていたのだと。
後に私は児童養護施設に入ることになるのですが、当時の社会福祉協議会の方が施設で勤務されていたので、私は覚えてはいなかったのですが面識があったみたいで、祖母の偉大さを語っていました。

私が産まれ間もない頃、母親が近くにおらずおっぱいと泣き出した時に祖母は自分のおっぱいをあげようとしたこと。
乳児院に入ることを告げられなかった祖母は、私を探し回って近所に人に聞きまわっていたこと。

多くの話を聞かせて頂きました。
わが子のように大切に大切にそう思っていてくれていた祖母には今でも感謝しかありません。
そんな祖母のように恥ずかしくない生き方ができているのかと言われれば、まだまだ道半ばかもしれません。
ただ、多くの人に愛し、愛される存在になることを使命とされたことを、今でも肝に銘じて生きていきます。

続く…

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