思惟#2/30代、就活せずに終活を考える
数週間前からふと「終活してみようかな」と思うようになった。
きっかけは体調不良で「もしかしてコロナにかかった!?」と思った日が2日間くらいあったことで、そこから何かにつけて「人生の仕舞い方」を考えるようになった。
コロナを疑ったときは、「もし今緊急搬送され、意識なくなったり死んだりしたら、、家族に片づけさせるの大変だな。要らないものは今のうちに片づけなきゃだ」
知人の突然の死をFacebookで知った時は、「私が死んだらどうやって他人が知れるかな。家族には友人関係伝えてないし、知りようがないか。。」
海外ドラマ『UP ROAD』(Amazonプライムビデオ)見たときは、「死は周りの人の都合で処理される側面もあるわな。死人を尊敬するのは大事だけど、私としては葬式とか無駄にお金使わせたくないな」
親が死んだ時を想像したら、
「まず実家の物を片付けて、銀行や証券口座の整理と、、、他に何するんだっけ(焦)契約してるものが何か調べるところからかー。親はまだシンプルだろうけど、これが私になったらもっと悲惨だな。あれこれ契約しまくってるからなー。てかそもそも何個契約してるんだっけ。」
自分の死後は「自分が置かれる状況」=天国や地獄みたいな死後の世界があるのかないのかを考えてたが「自分がいなくなった社会」は考えたこともないことに気づいた。
しかも勝手に親は自分より先に死ぬ、と思ってるし、きょうだいについては死の順序について考えたこともない。
死んだら死んだで何とかなるとも思うけど、少なくとも家族にも生活があるので「雑務は最低限にとどめてたい」とは思う。
何のサービスを契約してるか探せるなんて、仕事で似たような引継ぎ業務やったけど相当ストレスだしややこしいわ。どこまでやってもこれで全部かって疑うだろうしなー。ふと変な通知来て焦るところを想像してしまった。
自分がいなくなっても当然社会は回り続ける。これまでどんな偉人でも必ず死んだし、世界は回り続けてきた。
それが山中教授の ”繋いでいく” という使命にも通じるものがある。
ふと自分がいなくなった世の中を空想してみた。
家族とごく近しい友人知人以外、ショックは受けるだろうけど数日、いや数時間で日常に戻るだろう。これは間違いなく。死後あれこれ偲んでもらっても、さほど嬉しくないしね。
「死んだときに何人に涙を流してもらえるか」みたいなこと聞いたことあるけど、涙を流す行為自体はその時の精神状況や年重ねれば涙もろくなるし数値としてよりどころにすべきでない。
ただ、いっときでも「あの人はこんな人だったなー」「こんなこと教えてもらった人だったなー」となる一言は私の場合何になるのだろう。
それが今自分が探してる何かと近い気がする。自分へのタグ付け。人によって当然違うだろうけど、私という人間はどんなことを通じて他人と繋がってたのかを自ら構築しておきたいなと思った。
評価自体はどうでもいい。良くても悪くても。ただ、私が他人への接し方、というか、つながり方、を決めたいと思った。他人⇒自分は結果であって自分が決めるのは自分⇒他人の方向。突き詰めたら自分⇒自分になる。
あと何年生きるか分からないけど、確率的には数十年生きる可能性が高いので、この構築に向けた自分の佇まいを決めていきたい。
これはいわゆる高齢者の終活とは違う気がする。道半ばの人間が向き合うべきテーマ。いくつであっても可能とも思うが時間を要する。
さて、どんなつながり方をしていこうか。きっと既にあるものだろうし、新たにつながるものもあると思うが自分の向き合い方は言葉にしておきたい。
アカウントや契約関連の整理ももちろんだが、時間かけて死に向かって自分が作っていく軸は何だろうか。すぐ言葉にできないもどかしさ。悶々。
この先色んなシーンで浮かべるんだろうなと思う。これは私的には時間がかかりそうだ。