遺影と父と母
何年も化粧をした事のなかった母が、ここ最近化粧をして出かけてます
口元には薄っすら紅を点し、お洒落をして楽しそうに出かけていた昔に戻ったみたい
幾つになっても女性は女性であるべきだと思うから、そんな母の姿が嬉しかった
写真を撮ろうよ
そう言った私に
遺影を撮ってほしい、と母が言いました
最近カメラの仕事を始めた私
娘である私にしか撮れない笑顔があるはず
撮るなら私しかないでしょ
毎年お誕生日月に遺影を撮りたい
型に縛られない自然体な自分の写真を、と
先日友達がそう言って、ワタシを指名してくれました
型に嵌った既成概念を取り払った新しい遺影の在り方に感動したのを思い出し、母を撮ってあげたいと思ったのです
満更でもなかった様で、普段はカメラを向けるのを嫌がる母でしたが、ぎこちなかったけど何回かシャッターを切ってる内に、最後にはリラックスしてました
若干の抵抗はある様でしたが、もういい、と言いながら、カメラを向ければ目線を合わせる母が可愛いとさえ思えました
撮れた画像を母に見てもらったら、気に入ったのがあったらしく、喜んだ母を見て、撮って良かったと思いました
改めて画像チェックしたら、母の顔に刻まれた年輪に、いつの間にか私が思っていた以上に幾年が過ぎてたようで、少し寂しくなりました
遺影を撮る歳になったのだ
それは、いつかの別れを意味するのだ、と
今年初、父に会ってきました
平成に別れを告げ、令和という新しい年号になってしまった面会に罪悪感を覚えながら父の顔を見ました
エレベーターを降りた二階の広間に父は車椅子に座っていました
そこには全員車椅子に座っている人ばかりでした
テレビを観る事もなく、父は俯いていました
母と二人で父の側に行き、話しかけると顔を見るなり笑ってくれました
それはとてもいい笑顔で、ここ最近稀に見るほどでした
何かを触る癖があって、以前は足を掻いたり、オムツを触ってしまったり、今は車椅子のブレーキをガチャガチャと触っていました
楽しいというより、ただ熱心に触っているという感じです
母も嬉しそうに父に話しかけ、私も父の肩を撫でながら、父が見やすい位置で座りました
暫くはそうして三人で話したり、写真を撮ったりして過ごしました
じゃ、帰るね
そう言った途端、父が下を向いてブレーキをガチャガチャと触ってました
あまりにあっさりと下を向くものだから、父が落胆したのではないかと気になったくらいです
それでも、連れて帰る事など出来ないのでだから、中途半端な同情なぞしてはいけないと思いました
私の父は重度の認知症で歩くのもままならない程の症状です
食事も介助なしではとれません
字を書く事も読む事も出来なくなりました
分からなくなるという事は、同時に警戒心も芽生え、新しい環境、新しい人をとても怖がります
例えば、怪我をして病院へ連れて行く事になったら、大の大人三人がかりでさえ車椅子からテコでも動かす事が出来ない程です
身体を固くして腕を掴むのも容易ではなく、移動の車に乗せる事がこんなにも困難なのだと思い知らされる程でした
分からなかった当初は、何故父は言う事をきいてくれないのかと、泣けるほど恨んだりしました
こんなに頑張ってる娘や母の事も分からないのか、と
ある時、転んで肋骨にヒビが入って、救急搬送されたと連絡が来て、仕事で送れない弟の代わりに迎えに行った搬送先で、レントゲン撮影の移動の為に、車椅子に移す介護士さんたちの必死の介助に、身体をより一層固くして、頑として動こうとしない父の目は、知らない所へ来てしまった子供の様に怯えていました
あぁ、怖いんだ
そう思いました
日常を忘れてしまった世界は、来た事も見た事もない初めの世界なのだから、怖いのは当たり前なのだ、と
それでも、私たち家族の顔は覚えていて、会えば嬉しそうに笑ってくれます
日常生活が困難になり、母と暮らす事が容易はでなくなった為、今は施設に居ます
が、その施設も特別養護老人ホームではないので、移動先が決まったら出て行かなくてはなりません
高額な有料施設は空いてるのですが、年金暮らしの母には負担が重過ぎ、それは無理な話で、目下のところ収入に見合った施設の空き待ち状態です
両親とは子供の頃から確執があり、全力全身で私の背中にのし掛かかってくる重圧に何時も辟易してました
両親から逃げる事ばかりを考える毎日は、いつか白馬の王子が私を迎えに来てくれるのではないか、そんな他力本願で安易な夢ばかり見ていました
勿論現実はそんなに甘くありません
周りの人に話をしては優しさを求め、時に同情を買うすら動じず、そんな自分を恥ずかしいとも思わなかった
そんな私への罰なのでしょうか
人生で一番愛され、一番私を輝かせてくれた人とは結ばれませんでした
幾度か母に、私の過去への謝罪を試みようとしましたが、母自身が被害者でもあり、話は平行線を辿るだけで、ただお互いが傷つくだけでした
それは仕方なかったのかもしれません
母には母の辛く哀しい歴史があったのだから
大人になり、母となった私は長い時間を経て、こう思えるようにになりました
私が選んで母の元へ来たのだ、と
私が親になろう
そう思って接したら 親も変わってきました
母の今までの苦労も自然と労える様になりました
歳のせいもあるかもしれませんが、次第に穏やかになっている気がします
父が元気だった頃、運転免許のない母の足替わりになっていたのですが、父が認知症を患い、代わりに私が母の運転手となって買い物や通院などを手伝ってます
日々の家事や仕事に雑務に追われ、苦痛だった母の運転手でしたが、それも楽しもうと今は思える様になりました
心に余裕が出来たのかな
父に会いに行こうかな、と積極的になれた気もします
帰りに友達のスピリチュアル鑑定を受けてリーディングしてもらって出たメッセージです
今有るものを大切にする
無いものを欲しがらない
笑顔でいれば 皆んなも笑顔になる
私が輝いていれば周りも輝く
私が一番楽しもう
miina