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インソムニア

不眠症(ふみんしょう、英語: Insomnia, Hyposomnia)とは、必要に応じて入眠や眠り続けることができない睡眠障害である。それが持続し、臨床的に著しい苦痛、または社会的、職業的、または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている場合に精神障害と診断される。

不眠症 - Wikipedia


降りそぼる雨に
真鍮の金属の匂いと香水が混ざって

もう顔は思い出せないけれど
その香りは強く記憶に残っている



※衝撃の強い表現が含まれております。弱い方は読むのをお控えください。

※下記の記事の後の出来事です。




その時期は雨が続いていた。季節は移り、長袖が恋しくなる頃、街路樹の色も徐々に黄や朱に染まりつつあった。占いの店の窓に横殴りに雨粒が走る。濡れた落ち葉を踏みしめ、ドアを開ける度に雨音は雑踏と共に店に入ってきた。

雨の夜は独自の匂いがする。水の匂いがより他の匂いを引き立てるのかもしれない。そして、匂いは人の記憶に深く刻まれる。

その人は、いつも香水をつけていた。少し強めのコーラのようなスパイスの効いた深い香り。外国の古い教会で修道僧たちが作り出した香りだと言っていた。

仕事運を占ってほしい、とその人はやって来た。占星術においても、タロットのスプレッドにおいても、その人の仕事運は文句なしの最高なものだった。そう告げると、「仕事運はいいんだよね。仕事は。」と嬉しそうにしつつも、少し自嘲的に笑った。

高価そうなスーツ、腕時計。身なりも仕草も洗練されている。当時多かったIT事業で成功した若い起業家、といった印象の青年。金払いもマナーも良かったため、お店では人気のある常連さんだった。

月に大体二・三回、彼は店に来ると空いているブースに座ったが、次第に私を指名するようになった。有難い事ではあったけれど、私はなぜかあまり彼の占いは気が進まなかった。

市場の話、世相の話、ほぼ毎回来る際の視る内容は「仕事」に関してだった。全く問題ありません。そのまま進んでください。順調です。ほぼ毎回同じ内容になり占いは終わる。領収書を切ると、颯爽と帰って行く。

彼はいつも真鍮のネクタイピンをしており、タロットカードをシャッフルする際にうつむくと自然と目に入ってくる。そして漂う香水の匂い。金属の匂いと入り交じり、ふとした時に強く香りを放っていたのを覚えている。



季節の変わり目もありその時期は、風邪が流行り体調を崩す人が続出した。同僚の占い師も数人休むことになり、その日、店で出てこれるのは私のみとなった。雨のせいもあり、客足も鈍かった。あんまり忙しくなくてよかったと胸をなでおろし、ブースを片付け始めた時、彼はやって来た。

ああ今日は少ないんだね、とにこやかに微笑むその人に、私は笑いかける事が出来なかった。「時間遅くて申し訳ないんだけど、今日も占ってくれるかな」そう言って目の前に座った。

周りに人がいない。私はずっと気になっていた事を聞いてみた。

「本当は何を占ってほしいんですか」

彼の顔に浮かんでいた笑みは消え、彼はまっすぐに私を見た。今まで微笑んでいる印象しかなかったため、真顔を見るのは初めてだった。改めてみると、とても硬質な、冷たい目をしていた。

「そうだね。何を占ってほしいのか、自分でもよくわからない」
ただね、と彼は続けた。ネクタイピンを無意識に触る。

眠れないんだ。ずっと。
そういうと、彼はまた自嘲的に微笑んだ。



どうして、と口を開こうとすると、閉店の音楽が流れた。店長が急ぎ足でやって来て、今日は終わりですー、スミマセンと忙しなく片づけを始める。彼は少しためらったものの、会計を済ませて帰って行った。

なんだか中途半端な状態で終わってしまったな…と思いつつ家路につく。電車の窓に流れる暗い雨粒を目で追いながら、私はほっとしてもいた。彼が怖かったからだ。初めて店に来たときから、なぜか私はずっと彼を恐れていた。

だから家に着いた時は心臓が止まるかと思った。男性が一人、玄関の前に立っていた。独特の香水の匂い。私が帰ってくるのを待っていたのだ。なんで住所を知っているのだ、と恐怖が胃のあたりからせり上がってきた。

「占いの続きをしてもらえませんか」

ああ、やっぱりこうなるのか。私は夏のことを思い出していた。この人に似た人を知っている。絶望の中でなんとか生きていた、美しい青年を。叫ぶように、死ぬほど救いを求めていた、あの人を。

占い師は共感力が求められる。人の心に寄り添い、慰めること。悲しみを理解すること。しかし、同時に線引きもしなくてはいけない。一緒に悲しみに溺れてしまってはいけない。手を貸しすぎてもいけない。占い師はただ方向を指し示す者。行動して、運命を変えて生きていくのは、その人自身がやらないといけない。

私はきっと、占い師としてきちんと成立出来ていない。役割を超えて、悲しみに共鳴して、依頼者に取り込まれてしまう。そして、こういう事態になる。

途方にくれた迷子のような青年を前に、私もまた自分自身に失望をしていた。




強い睡眠薬を使ってる、と彼は言った。暗い部屋の中で、まるでこの世に二人しかいないみたいだった。いつもの笑みは消え、小さく、震えた声で彼は言った。「僕は人を殺してる」自分の親は病気で死んだ。救急車を呼ぶのが遅かったんだ。僕のせいだ。

…それは違うんじゃないんですかと言うと、彼は首を振った。死んでしまえばいいと思ったから、呼ぶのが遅れたんだ。

きっと背景は複雑で、私がちょっと話を聞いただけで出せる解決策はないだろう。彼の言っていることが事実なのかすらもわからない。そんなに簡単に解決できるのなら、彼はこんなところに来ない。

ただきっと、この人はこの先もずっと苦しんでいくんだと。
それだけが確かで、その事実はとても救いにはならなかった。

それでも。私に出来る事は。

じゃあ一緒に考えましょうか。これからどうすればいいのか。

そう言うと、彼は大きく肩で息をして、こちらを見た。
真鍮の匂いと、香水の匂いが漂った。




結局朝まで話して、彼は話の途中で寝てしまった。

徐々に明るくなる部屋の中で、窓の雨粒をみながら、少しでもこの人が眠れるように願っていた。また目覚めたら、苦しみの中を生きる彼を。今だけ、少しだけでも。眠らせてあげたかった。

その出来事があり、私は対面鑑定を終わらせることを決めた。

その後の話は、また、近いうちに。

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