あの日母にしてほしかった事
家族の話をしようと思う。
私は四人家族の末っ子だ。父と母、それから兄。
父はわがままなひとで、自分の気に入らない事が起こるとすぐに怒鳴るひとだった。私はどんくさい子供で、父に怒鳴られる事が多かった。
子供の時、体の小さかった私は、テーブルが高く上手くご飯を食べられなかった。
父は「食べ方が汚い」、と私を怒鳴った。背の高さなんて、どうしようもないのに。
またある時、兄が風邪をひいて咳き込んでいた。テレビを見ていた父は、「咳がうるさくてテレビが聞こえない」と兄を怒鳴りつけた。
父の事は好きじゃなかった。すぐに怒鳴ってこわいからだ。
こわいけど、その感情を表に出すとまた怒鳴られる。私は、馬鹿みたいにへらへら笑う事を覚えた。
母は普段やさしいが、父の言う事には何も言わない。
子供でも「理不尽だ」と思うような事で怒鳴っていても、父の怒りがおさまるまで刺激をしない。そんなひとだった。
それでも、私はやさしい母が好きだった。母は私をおかしな理由で怒鳴ったりしないし、兄のように罵倒もしない。
年の近い兄は幼い頃から私を嫌っており、よくいじわるをされた。幼い頃はよく分かっておらず、兄の後ろを付いて回っていた私も、成長と共にいじわるをする兄の事がきらいになった。
兄のいじわるは、やがて暴言に変わっていった。
毎日浴びせられる罵倒に、私の心はすり減って行った。
兄は何かあると私に当たり散らすようになり、家の中でもすれ違おうものなら「なんで生きてるんだ」と否定された。
すぐに怒鳴る父と、罵倒してくる兄。家族の中で、私の心のより所は母だけだった。
やさしい母は、父に怒鳴られて泣きじゃくる私を慰めてくれた。
父が怒鳴る時も、兄が罵倒する時も、止めてくれた事は無いが、それでも私は母を『やさしい』と思っていた。
兄が受験を控えた頃、兄はストレスが溜まるのか、私への当たりが酷くなっていった。
家の中ですれ違えば舌打ち、「死ねよ」「消えろ」と否定する罵倒の言葉。
その頃の私は学校に通えておらず、その事も兄には気に入らなかったのだろう。
毎日浴びせられる罵倒に、私は母に相談した。
兄を何とかしてほしい、その気持ちでいっぱいだった。
私の心は否定される悲しみと、兄の八つ当たりへの怒りでギリギリの状態だった。
『やさしい』母なら、きっと私の味方をしてくれる。兄に話をして、罵倒を止めてくれる。
私には、母だけが残された希望だった。
当時、私の家はひどく荒れていた。
父は単身赴任で不在。怒鳴ってばかりのひとだったから、居なくてよかったとすら思ったが、母にとっては頼りになるパートナーだったのだろうと思う。
受験を控えストレスを溜めた兄は、母と激しい言い争いを繰り返した。
学校に行けない娘と、受験でピリつく息子。ふたりを抱える母もまた、限界だったのだろうと今なら想像もできる。
母に相談した時、母は「あなたはやさしいから、受験が終わるまで我慢できるよね?」と言った。
我慢なら十分したはずだった。限界だから、止めてほしかったのだ。私は母に『助けて』と言いたかったのだ。
疲労の溜まった顔をした母に、私は『助けて』なんて、とても言えなかった。
この経験は、大人になった今でも大きく響いている。
私はいまだに、誰かに『助けて』を言う事が苦手だ。
迷惑をかける、と強く思ってしまうので、なるべく自分で何とかしようとする癖がある。
カウンセリングを受けているが、この傷もまだまだ癒えそうにはない。
幼少期の経験は、いわば人生における土台のようなものだと私は思っている。
土台がもろいと、後々に響くものだ。
毒親、という言葉が浸透してきて、大人になり色んな人と関わる事で、私はようやく母を『やさしい』とは思わなくなった。
母も母で大変だったのだろう。だが、大人に庇護される子供の私にカウンセラーのような対応を求めたりと、歪なひとだったと思う。
今現在、家族の中で連絡を取っているのは母だけだが、今後私から関わる事は無いだろうと思う。
家族とは、血のつながった他人である。無理に仲良くする必要もない。
この体に流れる血さえ恨めしいと思う時もあるが、どうしようもない。
どうしようもない事は、諦めるに限るのだ。